鑑賞 4
春、忍び難きを(劇団俳優座公演)
午前中卓球に興じ、午後3時に淡路の家を出立し神戸に向かう。
神戸の大倉山駐車場に車を置き、国道2号線沿いにある釣り道具屋へ寄り、ワイフと食事を摂り、6時半から始まる劇を鑑賞。
淡路に帰り着いたのが午後11時。
3時間にも及ぶ長い劇である。
戦後すぐの時代、食糧難にあえぐ日本、アルプスの山なみを背に、農村に生きる人々の哀歓を、目まぐるしく変わる時代状況の中に描いている。
戦後の混乱期を俯瞰していて、今につながる。
長い時間違和感なく見れたのは、手抜きのない出演者の芸達者に依るものだろう。

(於いて 神戸文化ホール〈中〉 9/03日 ソワレ)
投稿者 愉悠舎 日時 2015年9月 3日 (木) 鑑賞 | 個別ページ
蟹工船(東京芸術座公演)

労働者の過酷な実態と連帯を描いた群像劇。
蟹工船は1929年(昭和4年)に発表された小林多喜二の小説の劇化。
その少し前、1925年(大正14年)に細井和喜蔵が女工哀史を発表している。
この2編は、戦前日本に於いて過酷な労働を強いられた労働者の状況を代表する作品として、私の記憶に新しい。
今、「ブラック企業」の悪辣さが巷間囁かれている。
内容こそ変われ今も昔も、虐げられし者の置かれた立場に変りはない。
(於いて 神戸文化ホール〔中〕 10/4 マチネ)
投稿者 愉悠舎 日時 2015年10月 7日 (水) 鑑賞 | 個別ページ
創団40周年を迎えた「かがり火」

神戸職場人合唱団 「かがり火」 が創団40周年を迎えた。
記念演奏会の舞台に朋友・TK先輩の姿はない。
春まだ浅い3月、天の星になった。
昨年、舞台にこそ立たなかったが、2階客席の片隅でひっそりと歌声を受け止めるTK先輩がいた。
今年、舞台に彼がいた。
合唱の歌声が淡い風に乗って会場を包んだ。
奏でるハーモニーに彼の歌声を聴いた。
この世に「かがり火」がある限り、「かがり火」を聴く我らがいる限り、TK先輩は生きている。
40年を経た合唱団「かがり火」の演奏は、私的な言い方をすれば「艶」が出てきた。
完成度も高まった。
40年の重みを感じさせる舞台であった。
投稿者 愉悠舎 日時 2015年11月 9日 (月) 鑑賞 | 個別ページ
朗読劇(劇団四紀会) &兵庫県公館


一昨日、
午前中、特別公開されている兵庫県公館を見学し、午後から朗読劇を鑑賞した。
兵庫県公館は1902年(明治35年)兵庫県の県庁舎として建築された
フランス・ルネッサンス様式の建物である。
戦災で焼失したが、戦後残された資料をもとに修復され、1985年(昭和60年)兵庫県公館として再生。
2003年(平成15年)国の登録有形文化財に指定された。
公館内部のうち、「迎賓館」は年末年始をのぞく土曜日、「県政資料館」は月曜日~土曜日、公開されている。
公館内部を観て思うのは「日本の縮図」と言われて来た兵庫県の多様性を感じる反面、「雄県」の昂ぶりが、いささか耳障りだ。
左公館正面、右公館の模型↓


午後、「劇団四紀会」の朗読劇を元町にあるビルの一角で観る。
50席ほどの同劇団所有の劇場を初めて訪れた。
知友のH.K女史の語りに「声援」をおくった。
演目は「世阿弥、平家物語、宮沢賢治の読み語り 地獄の心、天国の心」
劇団紹介
劇団四紀会は1957年に創立、市民の平和で豊かな暮らしを願い、神戸を拠点に地域の人々と共に優れた演劇を創り広めようと絶え間なく活動を続け、2007年に50周年、2012年には創立55年を数えます。
様々な職業(主婦業含む)の現役からシニアまでの男女で構成、現在28人が在籍しています。
兵庫県劇団協議会事務局を担当するほか、他の演劇集団や地域の文化団体と連携し、日本演劇と地域文化の振興に努めています。 現在の公演形態は、新開地小劇場(3月・9月)、家族劇場(7月)、市民劇場(11月~12月)を年間の定期一般公演として開催。加えて「移動公演・出前公演」を地域や諸団体の依頼に応じて行なっています。
レパートリーは名作児童劇・家族劇・古典・現代作家劇・劇団創作劇、さらには生演奏を組み込む音楽劇なども取り上げています。(四紀会ホームページより)
投稿者 愉悠舎 日時 2015年11月25日 (水) 神戸散歩, 鑑賞 | 個別ページ
パパのデモクラシー(劇団東京ヴォードヴィルショー)
佐藤B作が率いる劇団の社会的なコメディー。佐藤B作が「劇団東京ヴォードヴィルショー」を結成したのが1973年(昭和48年)。
本舞台は劇団結成40周年の記念興行の舞台のひとつ。
「パパのデモクラシー」で第48回紀伊國屋演劇賞団体賞を受賞(2013年)。
戦後の混乱期を懸命に生きる庶民の哀歓を、ときにしんみりと演じている。
全面に流れるジャズと労働歌・「インターナショナル」に、当時の時代状況がリアルに映し出されている.

(於いて 神戸文化ホール〈中〉 12/18日 ソワレ)
投稿者 愉悠舎 日時 2015年12月21日 (月) 鑑賞 | 個別ページ
切られお富(前進座公演)
前進座が演じる歌舞伎世話物の代表演目「切られお富」を観た。
前進座の「切られお富」の見所を、「この作品は、東京の歌舞伎座などで上演される松竹系と言われる伝統的な歌舞伎でも上演されますが、前進座版の見どころは、何よりもお富のもの凄い生き方(悪婆と呼ばれる)に焦点がピタリと合わされているところ。・・・」(神戸演劇鑑賞会パンフレット)
と言うことで、お富に焦点を当て六代目・河原崎國太郎の演技に魅入った。
六代目を観ていると、五代目が重なり遠い日に還る。
お富を演じた六代目・河原崎國太郎を拝見するのは始めてだが、先代五代目河原崎國太郎の女形に幾度か深いため息をついた。特に当たり役「一本刀土俵入」のお蔦は、今も私の脳裏に焼きついている。
五代目河原崎 國太郎
河原崎 國太郎(かわらさき くにたろう、新字体:国太郎、1909年(明治42年)10月14日-1990年(平成2年)10月11日)は、前進座の女形で俳優。本名は松山
太郎(まつやま たろう)。屋号は山崎屋。 父は洋画家の松山省三。妻は宝塚歌劇団20期生の鈴鹿ゆみ子、長男は俳優の松山英太郎、次男は同じく俳優の松山政路、長女は女優の松山梨絵、孫は歌舞伎役者の6代目河原崎國太郎、7代目嵐芳三郎、女優の由夏、俳優の芦田昌太郎、女優の松山愛佳がいる。
両親とも広島の出身。祖父・渡辺又三郎は芸州浅野家の荒小姓で伊藤博文の弟子。維新後、代言人から政治家になり第8代広島市長を務めた。父・松山省三はその三男で松山家に養子入り。リベラリストだった省三は政治家になることを嫌がり、画家になるべく家族を連れて1909年上京。母・英子は当時妊娠7ヵ月で、上京直後に生まれたのが太郎(国太郎)である。このため東京神田の生まれだが、国太郎自身「私の故郷は広島」と話している。
1928年、旧制立教中学校卒業後、二代目市川猿之助に入門。市川笑也と名乗る。1928年4月初舞台。1931年三代目三代目中村翫右衛門、四代目河原崎長十郎などとともに前進座を結成。1932年4月五代目河原崎國太郎を襲名。1934年の『お染の七役』で主演しその才能が開花した。
古風な色気のある芸で、南北や黙阿弥の世話物に本領を発揮、特に『処女翫浮名横櫛』の切られお富は、初演時の三代目澤村田之助や明治大正の五代目澤村源之助による悪婆物の芸を伝える役として、高く評価された。他の当たり役は前期の『お染の七役』での土手のお六、『絵本合法衢』のうんざりお松、『一本刀土俵入』のお蔦など。
晩年には映画やテレビドラマにも多く出演した。1990年10月11日、80歳で死去。 ( Wikipedia 最終更新日 2015.12.14)

(神戸文化ホール 中 2/27 マチネ)
投稿者 愉悠舎 日時 2016年3月 1日 (火) 鑑賞 | 個別ページ
おれたちは天使じゃない(無名塾公演)、ほか
昨日、午前十時過ぎ淡路を発つ。
湊川の市営駐車場に車を停め、湊川神社の東側、ワイフの案内でとある店へ。
有機野菜レストランでランチ。
人気の店らしく、十二時だいぶ前なのに1階は既に満席、2階へ。




昼食後観劇。
(後記)
観劇後、また食事。
湊川のラーメン屋で。
食事後ワイフは映画鑑賞、私は街歩き。
街歩きの途中、新開地駅と高速神戸駅間の地下、「メトロ神戸」に高速神戸鉄道開業当時の「街」を再現した絵(トリックアート)が壁面に掲げられていた。(開業は1968年(昭和43年)4月7日)
過ぎ去りし前の懐かしい風景に出会う。




無名塾公演の「おれたちは天使じゃない」を観る。
無名塾は仲代達矢が主催する俳優の養成所で、1975年3月にスタートし、今日まで実力のある多くの俳優を輩出している。
衰えを見せぬ仲代達矢の演技にいたく感動した。
投稿者 愉悠舎 日時 2016年4月24日 (日) 鑑賞 | 個別ページ
兵庫県美儒家同盟展

知友、久谷義昭氏の作品を観に兵庫県立美術館へ。
作品名は「悠久の刻」。
作品の深みに溺れそうになる。
神戸・県立美術館ギャラリー ロビーにて

投稿者 愉悠舎 日時 2016年5月20日 (金) メール投稿, 鑑賞 | 個別ページ
先生のオリザニン(劇団俳優座公演)
オリザニン(ビタミンB1)を発見した鈴木梅太郎、(1874年~1943年)の物語。
戦争の時代を化学者と時代の狭間に生きた鈴木梅太郎の苦悩と精神性を妻・須磨子の目線で追う。
加藤剛・頼親子が鈴木梅太郎の晩年と若い時代を演じる。
加藤剛の衰えが気になった。

(新神戸オリエンタル劇場 6/5日 ソワレ)
投稿者 愉悠舎 日時 2016年6月 8日 (水) 鑑賞 | 個別ページ
百枚目の写真~一銭五厘たちの横丁~トム・プロジェクト プロデュース
1973年(昭和48年)、ルポライターの児玉隆也は九十九枚の写真に出会う。
それは、1943年(昭和18年)にカメラマン・桑原甲子雄が陸軍省から戦意高揚のため要請を受け留守家族を撮ったネガだった。
ネガ袋に書かれた「氏名不詳」の四文字に魅かれ、児玉は復興なった東京大空襲の「焼け跡」に立つ。
家族探しをする児玉は少なからぬ家族の戦中・戦後を知る。
写真を通して、国家に翻弄された名もなき庶民の哀歓が聞こえてくる。
児玉隆也
9歳のときに画家だった父を失い、母に育てられる。兵庫県立芦屋高等学校を卒業後、早稲田大学第二政経学部に入学。21歳のときに岩波書店の月刊総合誌「世界」の懸賞原稿に入選する。
卒業する1年前から光文社の女性週刊誌「女性自身」の編集部でアルバイトをはじめ、卒業後入社。引き続き同誌編集部に籍を置く。 1972年2月に同社を退社してフリーとなる。
1974年「文藝春秋」編集長の田中健五に起用され、11月特別号の田中角栄に関する大特集のうち、「田中角栄研究-その金脈と人脈」(立花隆)とともに掲載された「淋しき越山会の女王」で越山会の金庫番である佐藤昭と田中の関係及び田中派内での佐藤の影響力について執筆して一躍有名となるものの、その頃すでに肺癌に侵されており、翌1975年5月に死去。(
Wikipedia 最終更新日 2016.06.08)
桑原甲子雄
桑原 甲子雄(くわばら きねお、1913年12月9日 – 2007年12月10日)は、日本の写真家、写真評論家、編集者。 東京市下谷車坂町(現東京都台東区東上野)に生まれる。濱谷浩とは幼なじみ。1926年に東京市立第二中学校(現都立上野高校)入学。1931年の卒業後、体をこわし進学を断念。家業の質屋を手伝うが商売が厭わしく、同じ町内に住んでいた濱谷の影響もあって中古のベスト・ポケット・コダックを手に入れ写真を撮りはじめる。1934年にはライカI(C)型をフォーディス距離計付きで父親に200円で買ってもらいアマチュア写真家として活発に活動を始め、1934年のうちに浅沼商会発行の写真雑誌『写真新報』主催、シュミット商会協賛のライカ作品公募コンクール第2回の特賞を獲得している。
主として上野、浅草など東京の下町を撮影し『アサヒカメラ』、『フォトタイムス』、『カメラアート』などの写真雑誌で多くの入選を果たした。1936年の成績が第1位だったため1937年に『カメラアート』の第1回推薦作家となり、2月号が特集『桑原甲子雄推薦号』となった。この時木村伊兵衛が『桑原甲子雄論』を書いている。1930年代を代表するアマチュア写真家として『フォトタイムス』などにエッセイを寄せるが、アマチュアであることに徹する。このころ、盲腸炎で療養中に濱谷より金丸重嶺の『新興写真の作り方』(1931年)を贈られ、新興写真の動向に興味をもつ。またこの頃、石津良介の組織した「中国写真家集団」の山崎治雄、植田正治、野村秋良、緑川洋一らと広島、東京にて交流。
1938年にはライカIIIとズマール50mmF2を自分の金530円で購入した。 1940年には南満州鉄道の主催する「八写真雑誌推薦満洲撮影隊」に参加し、満州を撮影。帰国後「満州撮影隊現地報告展(東京日本橋白木屋)」に出展。1943年には在郷軍人会の依頼で出征軍人の留守家族を撮影。1944年、外務省の外郭団体である太平洋通信社(PNP)に写真部員として数か月勤め、初めてプロの写真家として仕事をした。
戦後は一転してアルス『カメラ』の編集長に就任して長く勤め、月例写真の選者に土門拳と木村伊兵衛を起用した。当時プロとアマチュアの社会的隔たりは大きく、これは桑原の行なった斬新な変革のひとつだった。土門のリアリズム運動の拠点となり、東松照明、川田喜久治、福島菊次郎らが投稿した。これ以降、『サンケイカメラ』、『カメラ芸術』などいくつもの写真雑誌の編集長を歴任し、写真作品の制作よりも新人育成や写真評論に重点をおいた活動を行う。荒木経惟はそこから育っていった一人である。
戦後の使用カメラはライカM3にエルマーを装着していたことが知られている。 1960年代末頃から、桑原が撮った戦前の作品が再評価され始め、何冊もの写真集が出版された。
2007年12月10日に老衰のため死去。享年94。(( Wikipedia 最終更新日 2013.06.16)

(神戸文化ホール 中ホール 7/15 マチネ)
投稿者 愉悠舎 日時 2016年7月19日 (火) 鑑賞 | 個別ページ