金一圭・その周辺
2013年6月25日 (火)
日本化政策・創氏改名等

日本は「併合」前から朝鮮に対して積極的に日本への「同化」政策を推進してきた。
金一圭は「創氏改名」を「強要」されたと述懐していた。「創氏改名」が行われたのは「併合」から三十年後のことであった。
統治時代の終盤に実施された「創氏改名」について知りたくて、一冊の本を読んだ。
その中に以下のような一文がある。
「日本は朝鮮を支配する上で、『言葉』および『名前』に非常な神経を注いだ。韓国併合と同時に『大韓帝国』という国家が消滅したことを徹底させるために『大韓の唱題』を一律に禁じる制令を発して、国家を象徴する文字(大韓、皇国、皇城など)をすべて撤去した。
また、地名を日本式に変え、時には学校名も変更して、完全な日本化を図ろうとした。たとえばまず漢城(ソウル)を『京城』と呼び変え、繁華街である明洞は明治町になり、その北側にある忠武路は『本町通り』になった。古い歴史を持つミッション系の永生高等女学校は『日の出高等女学校』に変えられている。朝鮮語を教えることを禁じ、『皇国臣民の誓詞』を唱えさせたのも同じ流れの中にあると言えよう。
朝鮮に対する植民地支配のなかで今も怨磋のまとになっている『創氏改名』は、こうした言語政策の究極に位置するのであるが、それはどのように実施されたか、朝鮮人はそれをどう受け止めたか、日本は何故かくも熱心に名前を変えさせようとしたのかを検討してみたい。」(「創氏改名」の思想的背景・梁泰昊)(「創氏改名」宮田節子・金英達・梁泰昊 共著 1996年9月30日 第4版発行 明石書店)
1940年(昭和15年)に実施された「創氏改名」をはじめ、日本語教育、志願兵制度等々の「皇民化」政策がどのような手順のもとに行われたかを理解するには、朝鮮の慣行や歴史的背景を抜きにして語れない。それらを上手く使いながら、いわゆる「親日派」と呼ばれる人たちを育成し、時機を見て同化策を打ってきたのが日本帝国である。
時には力を持って、ある時は力を避け同化策を推し進めた。
「創氏改名」に関するならば、上記文献に詳しく述べられているが、共著の一人金英達氏はその中で;
「創氏改名は同化政策であることは確かであり、また、名前の問題であることもまちがいない。ただし、このことから、ただちに創氏改名を朝鮮人の名前を日本化しようとした政策であったととらえることは、現象面だけしか見ない一面的な見方である。
たしかに、創氏改名は朝鮮人のネームの問題である。しかし、それはたんに朝鮮式のネームを日本式のネームに変えようとしただけではなく、より本質的には、人のネーミングの仕組みを規定するその社会の親族構造を変えようとしたものである。したがって、創氏改名とは、名前の問題であるというよりも、家族制度の問題であるといった方がより的確だと思う。
この創氏改名の政策目的の二面性、すなわち家族制度の同化政策と名前(呼称)の同化政策をとらえきれないで、名前の日本人化の面だけをあげつらってきたことが、創氏改名の正しい理解を妨げている第二の障害になっていると思われる。
そもそも、創氏改名には二つの政治的背景があった。一つは、朝鮮の家族法制を徐々に内地化していくというタテの流れ。もう一つは、朝鮮での徴兵制の実施をめざす皇民化政策というヨコの動き。この二つの政治潮流が交差した1940年に創氏改名という政策が必然的に打ち出されたのである。
第一の朝鮮家族制度の内地化政策は、1910年の併合以来、朝鮮民事令の改正という方法で、数次にわたり漸進的に進められてきた。(記1)
(記1)
1912年3月18日に公布された制令第七号「朝鮮民事令」(四月一日施行)は、民事に関する規定の多くを内地の民法等を依用(内地の法令を他の地域にも適用することを依用といった)していた。しかし、民族的特性の強い家族制度については、併合後ただちに日本的な制度を朝鮮人に押しつけても実効性がないので、第十一条で「能力、親族および相続に関する規定は、内地民法を朝鮮人に適用せず、朝鮮の慣習による」として、朝鮮社会固有の家族制度に法的承認を与えた。
その後、段階的に内地民法の規定を依用して、慣習を排除していく形で、家族制度の同化政策を推し進めていく。実質的な朝鮮民事令の改正は、次の三次にわたった。
第一次改正(1921年12月1日施行)・・・・・・「能力」(法律行為をする法的資格のこと)に関する規定について内地民法を依用。これは取引行為に関する権利の範囲を明確にして、財産上の取引を円滑にするためであった。当時にあって取引の円滑化とは、日本人による朝鮮人の財産の収奪を、法律的にスムーズにすることにほかならない。
第二次改正(1923年7月1日施行)・・・・・・「身分行為の方式」に関する規定について内地の方式に統一するとともに、戸籍に関する規定を設けて、「朝鮮戸籍令」を施行した。これは婚姻・離婚・縁組・離縁等の手続きを内地と同じようにして権利関係の移動をはっきりさせるとともに、戸籍制度という「家」の形式をまず朝鮮に導入したのである。
第三次改正(1940年2月11日施行)・・・・・・家の称号である氏(うじ)を朝鮮人にもつけて、呼称秩序を日本的な家単位にした。また、家制度を補強する婿養子や異性養子の制度も新設した。異性養子を認めたことにより朝鮮固有の「異性不養」の原則が崩され、父子の血脈の純粋性を核にした朝鮮の家族制度の解体につながる驚天動地の大変革となったのである。
・・・第二の朝鮮人の名前(呼称)の内地化政策は、朝鮮での徴兵制の実施をめざして、南次郎総督が急進的に展開した「内鮮一体」政策の一つであったということである。朝鮮人兵士が日本の軍隊に入ったとき、皇軍(天皇の軍隊)の一体性・同質性が乱されないよう、朝鮮式名前を日本式名前に改称させることが、政策目的につけ加えられたのである。」(「家族制度の日本化と名前の日本化」・金英達)
「朝鮮民事令」の改定変遷を見れば、日本化政策遂行の過程が少し読めてくる。
本書の「あとがき」で梁泰昊氏は「・・・戦後五十年近くになろうとする今、軍人・軍属などに対する戦後補償問題がクローズアップされているが、日本にとってそれは自らの行為に対する『信義』が問われている。もはや植民地(日本)ではないからという理由で切り捨てることが、国際社会で日本の名誉を高めることになるだろうか。
むろん『創氏改名』がひどい政策だったという前に、朝鮮を植民地支配したことが根本において正しくなかったのだということを忘れてはならない。歴史的な責任をうやむやにすることが、今なお民族差別を温存助長する原因になっている。・・・1991年12月」
梁泰昊氏が語ってから二十数年が経つが、今また「従軍慰安婦」問題等の戦後補償問題が再燃し、国際社会での日本の地位が低下している。
・宮田節子(みやた せつこ):
1935年、千葉県生まれ。朝鮮史研究会員 〔著書〕『朝鮮民衆と「皇民化」政策(未来社、1985年)他』
・金英達(キム ヨンダル):
1948年、愛知県生まれ。 在日朝鮮人運動史研究会員 〔著書〕『在日朝鮮人の帰化』(1990年)、『日朝国交樹立と在日朝鮮人の国籍』( 1992年)、『「韓国併合」前の在日朝鮮人』(1994年)以上、明石書店
・梁泰昊(ヤン テホ):
1964年、大阪生まれ。民族差別と闘う連絡協議会会員 〔著書〕『知っていますか?在日韓国・朝鮮人問題一問一答』(解放出版社、1991年)他
↓●明治45年3月18日に公布され、4月1日より施行された「朝鮮民事令」
投稿時刻 19時30分 金一圭・その周辺 | 個別ページ
2012年2月17日 (金)
浮島丸は舞鶴港に向かった
金一圭が舞鶴にたどり着くまでの経緯を調べる中で、彼が乗船を試みた船は浮島丸でなく他の船でなかったかと推測したが、彼が生前家族に語った記憶を今一度呼び起こしてもらったところ、乗ろうとした船は浮島丸に間違いないであろう。
理由は二つある。
一つは一圭の家族から最近聴取した話によると、滋賀県の高島に向かう途中「・・・京都で浮島丸の話を聞き、そのまゝ舞鶴に行き、ハシケの荷物に紛れて浮島丸に近づき、乗船する時に気持ちが高島の親戚に向いた」と、語っていたと言う。
彼は浮島丸に乗る寸前に翻意した。
それと滋賀県に向かう途中、京都で浮島丸が舞鶴に寄港する話を耳にしているので、京都府のどこまで来ていたかに関係なく、舞鶴とは目と鼻の先である。浮島丸が舞鶴港外にいた時間的な食い違いはない。
一圭は何かに衝き動かされるように舞鶴への道を急いだ。
いま一つは、予定になかった浮島丸の舞鶴寄港を、一圭は何故知ることになったか。乗客には予め舞鶴寄航を知らせていたのが、以下の文章で解る。
「・・・なぜ進路を変更して舞鶴に寄港したのか。乗客には水の補給のため、などと説明されていますが、乗員の中には、『舞鶴まで』と家族に伝えていたり、舞鶴で下船の準備をしている・・・と証言があります。・・・」(リブ・イン・ピース☆9+25 ホームページ アメリカの戦争拡大と日本の有事法制に反対する署名事務局 2003年6月5日声明文より)
浮島丸の舞鶴寄港は予定の行動であった。

投稿時刻 18時27分 金一圭・その周辺 | 個別ページ
2011年2月 9日 (水)
朝鮮の姓
韓国には約260種類(2000年当時)の姓があると言われている。北朝鮮はよくわからないが、大体韓国と同じような傾向であろう。その中でも多いのが金(キム)、朴(パク)、李(イ)、崔(チェ)、鄭(チョン)で五大姓と言われ、人口の半分以上を占めている。その中でも「金」は最も多く韓国人口の20%以上を占めている。
同じ金姓でも出身地によって区別されている。これを本貫(ポングァン)と呼び、その家の始祖の出身地が本貫となる。
金姓の本貫は「金海(キメ)」、「慶州(キョンジュ)」、「義城(ウィソン)」・・・など数十種類ある。
例えば金一圭の場合、彼が生まれ育ったのは慶尚北道(キョンサンクド)義城(ウィソン)郡であり、彼の本貫は「義城」の可能性が高い)。
すなわち、彼の名は「義城(ウィソン)金(キム)一圭(イル・キュ)」である。義城が本貫で金が名字そして一圭が名前である。
同じ姓、同じ本貫は「同姓同本(トンソントンポン)」と呼ばれ、同姓同本同士の結婚を韓国の民法は1997年まで認めていなかった。また、女性は結婚しても姓は元のまゝで、男性の姓を名乗ることを認められていなかったが、現在では必要に応じて変えれるようになって来ている。
この同姓同本の系譜を代々記録したものが「族譜(チョクポ)」である。

1939年、朝鮮半島で「日本人に作り変える」皇民化政策を進めた朝鮮総督府は、朝鮮固有の姓名を日本式に変え、「創氏改名」を実施した。
・参考文献:「知っておきたい韓国・朝鮮」(歴史教育者協議編、青木書店、1992年5月初版、2000年10版)
・画像は「韓国族譜資料システム」に依った
投稿時刻 21時37分 金一圭・その周辺 | 個別ページ
2011年1月18日 (火)
帰国船に乗らなかった経緯

終戦後すぐ韓国へ向かう船があった。その船は青森県の大湊を発ち、日本の沿岸に沿って釜山に向かった。途中何故か舞鶴港に立ち寄ろうとして舞鶴湾の沿岸部を航行中沈没した。
<浮島丸事件> 1945年8月24日17時20分頃、舞鶴港入港中の海軍特設運送船浮島丸(4,730総トン、乗員255名)が、3,725名の朝鮮人労働者とその家族を乗せたまま、アメリカ軍敷設の2,000ポンド音響式機械水雷(舞鶴鎮守府舞鶴防備隊報告)に触雷し、舞鶴湾内(京都府舞鶴市下佐波賀沖300m)で沈没、乗員25名が戦死(戦死扱い)、便乗者524名の死者をだした事件。(ウイキペディア)
金一圭がこの浮島丸に乗ろうとしたのではないか?と考え、少し推測してみた。次の文と併せて読んで下さい。(2010年7月15日付け、下記<1945年夏・その1>)
日本の敗戦が決定的となった1945年8月10日前後、金一圭の耳にも日本の敗北を伝える噂が入り、彼の周辺は浮き足立っていた。当時福岡にある三井の炭鉱で働いていた一圭は夜陰に紛れてそこを逃げだした。彼が日本にやって来たのは自らの意思で海峡を越えたのであって徴用ではなかった。 そのため、日本人ばかりか同胞からも差別を受けていた。例え、このまゝ解放されたとしても、身分が保障されるわけでもなく、かえって差別の対象になりかねない。不安と恐怖が彼を炭鉱の外に追いやった。炭鉱を抜け出した一圭は関門海峡を渡り山口市の二谷(にいだに)村に行った。彼が終戦を迎えたのは福岡県から山口県の間である。そこから島根県を経て、滋賀県に入った。滋賀県高島郡(現高島市)に居る親類の家に身を寄せるべく湖西を目指す途中、「釜山への『最後』の船が舞鶴に寄港する」という噂を聞き、親類の家に行かずそのまゝ北上し舞鶴へ、舞鶴に着いた一圭は沖待ちしているその船に乗ろうとして、荷物を運ぶ小さな漁船かはしけのようなものの荷物に紛れて乗り込んだ。乗るには乗ったが、このまゝ故郷に帰っても働き口はなく、家族を捨て渡日した身に故郷の風は冷たい、彼は小さな船を下りた。船に乗った人たちは、船と共に海に沈んでしまった。
当時、日本と朝鮮を往還した非公式な船は数知れない。ある船は機雷に触れ、またある船は座礁により沈没していったであろう。それらの船はまだ記録の外に置かれたまゝである。
投稿時刻 17時05分 金一圭・その周辺 | 個別ページ
2010年7月15日 (木)
1945年夏・その1
金一圭(敬称略)が家族に残した言葉に、終戦直後朝鮮へ帰還のため、一旦乗り込んで降りた船が舞鶴港沖で沈没し、500名の同胞が亡くなったと言っている。また、一圭は終戦を福岡の三井鉱山で迎え、福岡と青森の友人と共に乗り込んだとも言っている。
当時、日本から朝鮮へ向かい沈没した船は海軍特設輸送艦浮島丸(4730トン)しか無いはずだ。浮島丸は大湊から釜山への航行途上、舞鶴湾で突如爆発沈没し、乗員乗客549名(日本政府発表)が犠牲になった。世に言う「浮島丸事件」である。

浮島丸の事を知りたくて全日本海員組合内にある『戦没した船と海員の資料館(神戸市中央区海岸通3丁目1−6電話078-331-7588)』を訪ねた。当資料館は神戸のハーバーランド近くにあるホテル・オークラの向い側にあり、1941年から1945年の第二次世界大戦で犠牲になった船の写真と資料が展示されている。ちょうど昼休み時であったが、スタッフの一人大井田孝
研究員に親切な対応を受けた。
私の知りたかった事は次の二点であった。一つは終戦後朝鮮への帰還船で犠牲者の多少に関わらず沈没した船が浮島丸以外に存在したかどうか?、もう一つは沈没船が浮島丸以外に無かったならば、浮島丸に乗り込もうとした金一圭が終戦を福岡の三井で迎え、福岡と青森の同胞と共に1945年8月22日夜、浮島丸が出航した青森県の大湊港にどのようにしてわが身を晒すことができたのか?、この二つである。
一点目については、朝鮮へ向った船で沈没したのは後にも先にも浮島丸だけであった。
二点目の疑問について少し検証してみた。8月15日に福岡に居た一圭が浮島丸の出航の報を聞いて青森に向かうには無理がある。大井田氏の話によると、終戦により所在なく大湊港に係留していた浮島丸に、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)から出航の許可が下りたのは20日のことであり、それまでは大湊から朝鮮への帰国船の出航を一般人に知らせていない。20日に青森に居た同胞がそれを知っても、福岡への一般人の唯一の通信手段は電報であり、運良く一圭がその報を入手したとしても、2日間で福岡から青森までの移動は考え難い。当時列車は不定期であるが運行されていたし、船も日本海沿岸を航行していたので理屈的には青森行は可能だが物理的には難しい。列車にしろ船にしろ混沌とした社会情勢の中で、乗り継ぎを繰り返し青森に達するには多大な時間がかかる。青森へ向った前後の時間を無視しても最大二日足らずで福岡から青森へ行けた可能性は少ない、と言うのが大井田氏の結論であった。
となると、一圭は8月22日以前の時点で青森に居たことになる。私の推測では終戦を福岡で知った一圭はとりあえず青森の同胞の元へ走った。どのようにして青森へたどり着いたのか興味を覚えるが、とにかく青森へ向かった。その時彼は朝鮮への帰国は考えてなかったのではなかろうか。帰国の夢を抱いていたならば青森へ向かわなかっただろう。朝鮮への入口は釜山であり、福岡と釜山は目と鼻の先にあり、帰国の意志があればとりあえず福岡に留まるのが普通である。青森で同胞に再開し、大湊から釜山への便を知り、同胞4000人に混じってタラップを駆け上ったものの、何かを感じてタラップを降りた。
投稿時刻 21時46分 金一圭・その周辺 | 個別ページ