備忘録・義貞
2010年8月 3日 (火)
「恩給請求書」と官吏の「履歴書」
義貞が退官直後に恩給を受けるべく、「恩給請求書」とそれに添付した官吏(武官、文官)の「履歴書」が残っている。
これ等は「控」であり、役所に提出する前の下書きである。
前回のブログに「退職願」を掲載したが、退職に関して一つの疑問がある。義貞はいとも簡単に朝鮮総督府を辞めているように感じる。何故簡単に辞めさせてくれたのか?その提出先が江原道知事の元應常氏になっている。私は朝鮮総督府に出したものと思っていたが、そうではなかった。「3.1事件」後、抗日運動が高まる中で、陸軍による憲兵警察が崩壊し、朝鮮半島における警察権は形の上では朝鮮人の手に委ねられた。この辺に疑問を解く鍵があるかもしれない。また「恩給請求書」の控(下書き)の中に、「脳神経衰弱症により退官いたしそうろうたく」の「脳神経衰弱症」の部分を「病気」に変え提出している、この辺をも探って行けば疑問が解けるかもしれない。
話は変るが、「恩給請求書」に添付した「履歴書」に巡査時代の経歴が記載されていない。当時恩給に浴せたのは軍人と官吏のみである。一介の巡査として朝鮮総督府に出向させられ、義貞が官吏に任用されたのは「韓国併合」から2年後のことである。義貞が官吏として過ごした歳月は9年と、少ない。
『恩給請求書
元朝鮮總督府道警部 松澤義貞
右(上:筆者)、大正十年八月三日脳神経衰弱症(病気)ニ依リ退官致候度、在官満十五年以上ニ付、官吏恩給法ニ依リ相當ノ恩給下賜度、別紙履歴書及戸籍謄本相添ヘ此段請求仕候也 大正十年八月十四日 現住所 愛媛縣新居郡新居濱町大字惣開原地 真鍋幸之助方 松澤義貞 朝鮮總督男爵 齋藤 實 殿』
『履歴書
本籍 愛媛縣松山市大字豊坂町壱丁目百二十九番地 松澤義貞
•1896年(明治29年)9月15日、陸軍要塞砲兵射撃学校入学ニ入学(志願)、陸軍要塞砲兵射撃学校
•1897年(明治30年)11月24日、仝校卒業、陸軍要塞砲兵射撃学校
•1897年(明治30年)11月26日、任 陸軍砲兵二等軍曹、陸軍要塞砲兵射撃学校
•1898年(明治31年)04月03日、給一等給、由良要塞砲兵聯隊
•1898年(明治31年)10月22日、任 陸軍砲兵一等軍曹、由良要塞砲兵聯隊
•1899年(明治32年)05月05日、給一等給、由良要塞砲兵聯隊
•1899年(明治32年)12月01日、官等改正ニ依り陸軍砲兵軍曹、由良要塞砲兵聯隊
•1901年(明治34年)11月30日、現役満期 予備役ニ編入、由良要塞砲兵聯隊
•1904年(明治37年)09月25日、戦時充員トシテ善通寺野戦砲兵第十一聯隊補充大隊ヘ編入 同日ヨリ内地戦役務ニ服ス、苗守第十一師団司令部
•1904年(明治37年)09月28日、苗守第十旅團司令部附ヲ命ス、苗守第十一師団司令部
•1904年(明治37年)09月30日、松山俘虜収容所附ヲ命ス、苗守第十旅団司令部
•1905年(明治38年)02月20日、任 陸軍砲兵曹長、苗守第十旅団司令部
•1905年(明治38年)06月24日、野戦砲兵第十一聯隊補充大隊附ヲ命ス、苗守第十一師団司令部
•1905年(明治38年)07月12日、丸亀俘虜収容所附ヲ命ス、苗守第十一師団司令部
•1905年(明治38年)10月16日、平和克復
•1906年(明治39年)02月17日、召集解除、苗守第十一師団司令部
•1912年(明治45年)06月11日、任 朝鮮總督府警部 給十一級俸但加俸ニ十五円、朝鮮總督府
•1912年(明治45年)06月11日、朝鮮ニ在リテ任官ス
•1912年(明治45年)06月11日、命 鎮南浦警察署勤務、仝警務總監部
•1913年(大正02年)06月30日、給十級俸但加俸二十五円、朝鮮總督府
•1914年(大正03年)09月07日、補 長連警察署長、仝警務総監部
•1915年(大正04年)06月30日、給九級俸但加俸二十五円、朝鮮總督府
•1917年(大正06年)08月01日、命 城津警察署勤務、仝警務總監部
•1918年(大正07年)06月30日、給八級俸但加俸二十五円、朝鮮總督府
•1918年(大正07年)12月09日、補 通川警察署長、仝警務総監部
•1919年(大正08年)08月20日、任 朝鮮總督府道警部、朝鮮總督府
•1919年(大正08年)08月20日、江原道在勤ヲ命ス、朝鮮總督府
•1919年(大正08年)08月20日、補 通川警察署長、江原道
•1919年(大正08年)10月18日、給七級俸、朝鮮總督府
•1920年(大正09年)03月04日、補 高城警察署長 江原道
•1920年(大正09年)08月18日、判任官俸給令中改正公布八月分ヨリ適用 俸給月額七十円
•1920年(大正09年)09月30日、給六級俸 朝鮮總督府
•1920年(大正09年)12月16日、補 春川警察署長 江原道
•1920年(大正09年)12月31日、給五級俸 朝鮮總督府
•1921年(大正10年)07月20日、補 洪川警察署長 江原道
•1921年(大正10年)08月03日、依願免本官 江原道
右ノ通相違無之候也 大正10年8月14日 松澤義貞』
・
投稿時刻 15時52分 備忘録・義貞 | 個別ページ
2010年7月28日 (水)
朝鮮総督府決別の時
義貞が朝鮮総督府を辞したのが1921年(大正10年)7月28日、三・一独立運動(大正8年)の発生から2年4ヶ月が経っていた。この運動に多くのキリスト教徒が参加し、日本の植民地支配に抗した。三・一独立運動の最中、日本陸軍の憲兵隊によって、水原郡提岩里(チェアムリ)で起きた提岩里教会虐殺事件は世界の批判を浴び、1919年(大正8年)8月20日の勅令によって憲兵警察制度は廃止され、各道の知事に警察権が委ねられ、文官の義貞は同日朝鮮総督府江原道(カンウォンド)警部に任命され、通川(トンチョン)、高城(コソン)、春川(チュンチョン)、洪川(ホンチョン)の各警察署を渡り歩いた。その中の春川警察署には春川憲兵分隊が置かれていた。
義貞が朝鮮総督府を辞するに当りその事由を記した「診断書」と「退職願」がある。それによると提岩里事件の翌年1920年(大正9年)に発病し、翌大正10年7月10日に再発したとなっている。その半月前、四女博子が生まれた(大正10年6月25日)。博子の話によると「私が生まれるのを待ちかねて帰ってきた」とのことであるので、病気の再発が退職の原因ではなかろう。帰国を望むツヤと娘らと共に内地の土に触れたかったのかも知れない。博子が生まれると近くの医者に走り(7月10日)、医者に再発の診断書を書かせたのが27日。翌28日退職願を提出、診断書にある「手指ノ振戦等アリ」の欠けらも見られないしっかりしたペン使いで・・・、そして7月の末にはもう帰国している。ツヤは云う「私の為に、あの置位も捨て」、「病気」を理由に義貞は「大日本帝国」を捨て、家族を取った。
『診断書(下、画像クリックにより別窓にて表示)
松澤義貞 明治八年四月九日生
1.病名 脳神経衰弱症
(経過) 大正九年拾月五日発病シ始メ、頭痛及ビ頭重、時トシテ眩暈(めまい)ヲ訴エ、全身倦怠、精神事業の倦怠、記憶力減退シ、精神朦朧感アリシモノ、醫療ニヨリ治癒シタルモ、舊(もと)に復セズト云う
(症状) 大正拾年七月拾日、前記ノ症状再発シ、諸症状益々増進シ、健忘症ニ陥リ、精神不安不眠等ヲ来シ、腱反射亢進手指ノ振戦等アリ
(療法 ) 精神ノ過労ヲ戒メ、適宜ノ運動滋養等ヲ勧メ、内服薬トシテ臭素加里三,〇、※纈草丁幾三,〇、苦味丁幾ニ,〇、水一〇〇,〇、一日三回食後三十分ニ服用セシメタリ
(豫後) 目下病勢漸次進行スル傾アリ、精神的事業ヲ廃シ、転地ヲ命ジ、療養ヲ勉ムルニ非ズバ、治癒無覚束到底公私ノ劇職ニ堪エザルモノト認ム
右之通リ診断候也
大正拾年七月二十七日 住所 江原道春川郡春川面大板里百九十八番地 醫師 平田啓六』
※カノコソウの根・根茎を乾燥させたもの。鎮静・鎮痙薬とする。纈草根
『病気退職願(上、画像クリックにより別窓にて表示) 松澤義貞
明治四十五年六月十一日、朝鮮總督府警部ヲ拝命シ、甫来勤続中ノ処、近時神経衰弱症ニ罹リ、勤務ニ堪ヘ難ク候ニ付、退職之上加療致度候、条御聴許被、下度別紙医師診断書相添ヘ此段奉願候也
大正十年七月二十八日 洪川警察署長 道警部 松澤義貞
江原道知事 元 應常 殿』
投稿時刻 18時40分 備忘録・義貞 | 個別ページ
2010年4月 6日 (火)
下級藩士の子として
義貞は1875年(明治8年)4月8日、愛媛県松山市北立花町111番地にて松澤弥四郎・クマの次男として生まれる。弥四郎は伊予松山藩士の子として松山城下に生まれる。1863年(文久3年)4月愛媛県温泉郡(現松山市)一万町、永井金蔵の娘・クマ(1843年<天保14年>7月生)と結婚し、長男・濱三郎と次男・義貞をもうける。
弥四郎の生きた幕末・維新の時代、松山藩は武士階級の終焉の中で、悲哀を浴びた藩の一つであった。
松山藩:「幕末は親藩のため幕府方につき、特に長州征伐では先鋒を任され出兵。財政難の極致に陥った。14代定昭は藩主になるや老中に就任。大政奉還後、辞職している。慶応4年(1868年)の鳥羽伏見の戦いでは朝敵として追討されたが戦わず恭順し、財政難の中15万両を朝廷に献上した」(出典:フリー百科事典『ウィキペゲィア<Wikipedia>』)
松山藩の下級藩士に過ぎなかった弥四郎の子ら、濱三郎、義貞は明治の時代を身一つで生きて行かねばならなかった。
弥四郎はその後、義貞の元に引き取られ、1917年(大正6年)8月31日、義貞の任地朝鮮咸鏡北道(ハムギョンプクト)城津(ソンジン)郡鶴城面城津本町にて没。
投稿時刻 22時36分 備忘録・義貞 | 個別ページ
2010年1月18日 (月)
略歴・義貞
・1875年(明治08年)4月9日、愛媛県松山市大字千船町に生まれる
・1896年(明治29年)9月15日、要塞砲兵射撃学校入学、21歳
・1897年(明治30年)11月24日、要塞砲兵射撃学校卒業、22歳
・1897年(明治30年)11月24日、陸軍砲兵二等軍曹に任(由良要塞砲兵連隊)、22歳
・1901年(明治34年)11月30日、由良要塞砲兵連隊を満期除隊、26歳
・1902年(明治35年)2月1日、大阪府巡査に就く(大阪府)、26歳
・1902年(明治35年)2月28日、難波警察署勤務を命じられる、給6級俸
・1904年(明治37年)9月19日、休職を命、29歳
・1904年(明治37年)9月25日、臨時召集として善通寺野戦砲兵第十一連隊補充大隊へ編入(第十一師団)
・1904年(明治37年)9月28日、苗守第十旅団司令部を命
・1905年(明治38年)2月20日、陸軍砲兵曹長を命、29歳
・1906年(明治39年)2月17日、召集解除(第十一師団)、30歳
・1906年(明治39年)2月27日、復職を命じられ東警察署勤務を命じられる(大阪府)
・1906年(明治39年4月19日、日露戦争の功により瑞宝章勲七等に叙せられ従軍兆賞を授与(勲記363,245号、宝勲局)、
・1906年(明治39年)7月11日、私立関西大学卒業 特科学生として本大学専門科に入り法律学科を履修し、修法学士の称号を認許される、31歳
・1907年(明治40年)6月25日、裁判所書記登用試験に及第(仙台地方裁判所)、32歳
・1907年(明治40年)9月21日、統監府へ出向を命じられる(大阪府)、32歳
・1907年(明治40年)9月30日、理事庁巡査を命、月俸金十七円を給す(統監府)
・1907年(明治40年)9月30日、警務顧問補助員を命じられる、月俸金三十七円(韓国政府業務顧問)
・1907年(明治40年)9月30日、当分、水原(スウォン)警務顧問支部勤務を命じられる
・1909年(明治42年)12月1日、統監府巡査を命じられる(統監府)、34歳
・1910年(明治43年)2月28日、巡査部長を命じられ巡査監督(忠清北道<チュンチョンプクド、ちゅうせいほくどう>)、34歳
・1910年(明治43年)9月6日、巡査監督を免じられる(忠清北道警務部)、35歳
・1910年(明治43年)9月19日、忠清北道警務部勤務を命じられる
・1910年(明治43年)10月1日、巡査部長を命じられる(朝鮮総督府)
・1911年(明治44年)6月30日、月俸二十二円を給せられる
・1912年(明治45年<7月30日より大正>)6月11日、平安南道鎮南浦警察署勤務を命じられる(朝鮮総督府警務総監部)、朝鮮総督府警部給十一級俸但し加俸二十五円、37歳
・1913年(大正2年)6月30日、給十級但し加俸二十五円(朝鮮総督府)、38歳
・1914年(大正3年)9月7日、黄海道(こうかいどう、ファンへド)長連警察署長(警務総監部)、39歳
・1915年(大正4年)6月30日、給九級俸但し加俸二十五円(朝鮮総督府)
・1917年(大正6年)8月1日、咸鏡北道(かんきょうほくどう、ハムギョンプクト)城津(ソンジン、성진、じょうしん)警察署勤務、42歳
・1918年(大正7年)6月30日、給八級俸但し加俸二十五円(朝鮮総督府)
・1918年(大正7年)12月9日、江原道(こうげんどう、カンウォンド)通川警察署長、43歳
・1919年(大正8年)8月20日、朝鮮総督府道警部(朝鮮総督府)に任、江原道在勤(命)通川警察署長(補)(江原道)、44歳
・1919年(大正8年)10月18日、給七級俸
・1920年(大正9年)1月29日、大正8年12月11日通川警察署勤務巡査李廷奎外一名が被告人押送の途中之を逃走せられるに至りたるは平素部下監督教養不行届きの致す処とす依って戒告す
・1920年(大正9年)3月4日、江原道高城(コソン)警察署長、44歳
・1920年(大正9年)6月19日、大正九年四月五日朝鮮総督府巡査島田貞一が文書偽造及び詐欺取財被告人権克変を浦項警察署に押送途中裏陽郡裏陽面松岩里に於いて被告人を逃走せしむるに至りたるは当時其官出張不在中なれど署長として平素監督不行届きの致す処にして職務を怠りたるものとす文官懲戒令に依り謹慎す、(朝鮮総督府)
・1920年(大正9年)8月18日、半任官俸給令改正八月分より適用俸給月七十円、(朝鮮総督府)
・1920年(大正9年)9月30日、給六級俸(朝鮮総督府)
・1920年(大正9年)11月17日、大正九年三月・・・・・・・・・・・・・・ ・・・
・1920年(大正9年)12月16日、春川警察署長(江原道)
・1920年(大正9年)12月15日、賞与金百八十円(朝鮮総督府)
・1920年(大正9年)12月31日、給五級俸
・1921年(大正10年)7月28日、退官、46歳
・1956年(昭和31年)7月7日、死去、享年81歳
投稿時刻 15時28分 備忘録・義貞 | 個別ページ
