ボランティア日記

ボランティア日記 過去ログ「ボランティア日記」を転載
震災の街で

 1月17日、神戸へ行く連れ合いを送って淡路島の東浦バスターミナルへ行った。
 帰り、明石海峡公園から神戸の街を撮った。
 13年前のその日、神戸は大きな揺れのあと白煙に包まれた。人々は突然の災禍に狼狽したが、懸命にその場を凌いだ。
 その日私は秋田へ出かける予定であった。その前の週、秋田県の横手にいた私は週末の三連休を利用して神戸に帰ってきた。いつもなら休日を出張先で過ごす筈なのに、虫の知らせとでも言おうか無性に神戸が恋しくなった。
 早朝、駅前のホテルを出ると昨夜来の雪が駅前の広場を覆いつくし、巨大な除雪車が人影のまばらな歩道にエンジンの音を轟かせていた。
 当時山形新幹線は山形・東京間を走っていたと思う。山形で昼食をとり新幹線に乗り換えた。途中米沢を過ぎるあたり、列車の下から吹き上げてくる猛烈な地吹雪に、この地に暮らす人々の過酷な冬を想った。
 福島から東京を経て神戸に帰り着いたのは土曜日の夜遅くであった。
 翌15日、神戸製鋼のラグビー部がV7の偉業を達成する瞬間をテレビ観戦した。 16日、何をどう過ごしたか記憶にないが、眠りにつくとき明日からの出張を思い気持が少し沈んだのを覚えている。 17日午前5時46分、大きな揺れが小さな家を襲った。「もう駄目だ」、あきらめの早い私は死を覚悟した。同じ部屋で寝ていた連れ合いは「お父さん、お父さんと!」叫んでいた。何が起こってもどこ吹く風の彼女であったが、このときばかりは取り乱していた。
 揺れがおさまったあと、家族の安否を確認すべく各部屋を回った。娘は病院で夜勤に就いていた。私たちの寝ていた隣の部屋の窓を開け、丘の上に建つ病院の方向に目をやった。外は真っ暗な闇に包まれ、いつもは明かりの灯っている病院の姿を捉えることができなかった。病院が崩れた、不吉な予感が胸をよぎった。
 当時同居していた私の母の部屋に向かった。母は呆然自失の態で佇んでいた。息子は足元に落ちたテレビの下にいた。
 その後娘から電話があり家族の安否を気遣ってくれた。その日から息子は連絡の途絶えた友人を探して、長田から三宮へと足を棒にして「地獄絵」の中をさまよい歩いた。母は揺れの中起き上がろうとして腰を痛め、それがもとで数年後還らぬ人となった。充分なことをしてやれず逝ってしまった母を想うと胸が痛い。
 自治会の役員をしていた私は町内に充満するガスの臭いを絶つために一日中地域を歩いた。夜になると配られたポリバケツを持って凍てつく小学校の校庭に並んだ。
 地震から数日経った日、会社から呼び出され2時間の道のりを歩いて職場にたどりついた。工場に入りビルの10階にある私の職場を見上げた。いつもと違うビルの佇まいに一瞬たじろいた。ビルが隣のビルにもたれかかっていた。ロッカーのある地下は液状化にまみれ、エレベーターは当然ながら動いていなかった。
 その日から数ヶ月難渋な日々を過ごしたものの私は恵まれていた。こうして働く場もあり、家も少しのダメージですんだ。家族も生きて暮らせた。周りには家族を失い、家は壊れ、生活の糧を得る職場も失った人が大勢いる。私の知人の幾人かは震災を要因として幽明さかいを異にした。
 震災から10年後の2004年の秋、永年働いた職場をあとにした。
 「つぶし」の利かない仕事をしてきた私に、神戸に返す何もなかった。
 震災時、会社の行き帰りに神戸の街角に立ってあちこちからやってくるボランティアの人たちに「道案内」をかってでた。
 神戸の街を徘徊し続けた私に、「道案内」ならできるかもしれない。私は「NPO法人 KOBE観光ガイドボランティア」に入会を申し込んだ。 1月26日、第1回の体験研修を三宮で受けた。
 この春には、神戸の街角に立って道行く人に声を掛けているかもしれない。

投稿者 愉悠舎 日時 2008年2月 1日 (金) ボランティア日記 | 個別ページ


七つ道具を持って

 昨日、晴れて「NPO法人 KOBE観光ガイドボランティア」に入会を認められた。
 勝手に師匠と呼んでいるKM大兄の「厳しい?」指導による5回の研修を終え、入会の運びとなった。
 一年間は準会員で、総会での決議権はない。入会金千円、準会員の会費が二千円、計三千円を25日までに払えば名実ともに会員となる。
 私はこれも勝手に「ガイドの七つ道具」と名付け、ツールの準備をした。 「七つ道具」とは帽子、ジャンバー、腕章、身分証、の四つが会から与えられ、その他に私が準備したものにガイド用資料、メガネ・筆記用具、数をかぞえるカウンター、以上の七つがある。
 ガイド用資料はトイレ、ロッカー、コンビニ、ATM、ホテルなどの所在を明示した資料で、カウンターはガイドした件数を記録するもの、これは月末にガイドした件数を報告しなければならないので百円ショップにて購入した。
 この「七つ道具」を持って、JR三ノ宮駅の山側にいつでも立てる。

投稿者 愉悠舎 日時 2008年3月19日 (水) ボランティア日記 | 個別ページ


三宮デビュー

 昨日までの温かさが一変して、今日は木枯らしのような風が吹きすさぶ明石海峡を渡り神戸に出る。
 今日三宮でガイドのデビューを果たした。午前10時から昼までみっちり動いた。
 今日はガイドした人の中に結構外人さんが多かった。神戸港に5万トンクラスの大型クルーズ船が入航している精だろう。
 100円ショップで買ったカウンターに刻まれた数字は55、55人の人をガイドした事になる。
 午後から新港第4突堤と中突堤に入っているクルーズ船を見学に行く、クルーズ船については明日書く。

投稿者 愉悠舎 日時 2008年3月27日 (木) ボランティア日記 | 個別ページ



汗ばむような


 サクラの花も散り、春本番というよりも少し汗ばむ陽気の中、三宮に向った。  先週の土曜日(12日)に続いてJR三宮駅山側に立った。
 今日はやたらとフラワーロードを山側に行く人が多い、「IKEA(イケア)」を往復するシャトルバスに乗る人たちだ。
 IKEAはスウェーデンの家具店で2006年に千葉県の船橋に初オープンし、横浜についで3店目をポートアイランドにオープンしたらしい。
 ポカポカ陽気の中、フォーマルな服装に身を固めた人たちが次々と北野方面への道順を尋ねに来る。北野にこれほど多くの結婚式場があるのかと思う。「○○北野××」「北野・・・」etc.の名の入った小さなマップを示され、道を聞かれる。
 神戸で結婚式を挙げる少なからぬ人々の志向が「北野」に向いているのか?昨今の結婚事情が少し見えてくる。 午前9時半から正午の間、声を掛けた人、掛けられた人の数51人。

投稿者 愉悠舎 日時 2008年4月20日 (日) ボランティア日記 | 個別ページ


少し慣れたかな


 JR三宮の駅頭に立って「道案内」を行なうのも今日で4回目、少し慣れたものゝまだぎこちなさが取れない。
 声を掛けるタイミングがなかなかうまくはかれない。相手が何を求めているか、こちらの一方的な気持で声を掛けても胡散臭がられるのが関の山である。相手と当方の意思が合ってこそ会話が成り立つ。
 見知らぬ他人に声をかける難しさを、希薄になってしまった人間関係に置き換えたくない思いが強い。
 午後から新港第4突堤に入港している大型クルーズ船を見に行った。
 その帰り、JR三宮駅東側の三宮あじさい通り道いっぱいにチューリップの花びらを敷き詰めた花のじゅうたん(写真)を見た。
 この花絵は阪神淡路大震災からの復興を願って、1997年に始まったらしく、市内の各所で順次開かれているようだ。

投稿者 愉悠舎 日時 2008年4月26日 (土) ボランティア日記 | 個別ページ


三宮を終えてから

 昨日は息つく暇のない半日だった。ゴールデンウィークのさなか、4連休の二日目、三宮の各駅ターミナルは多くの人でごった返えした。
 私がJR三宮山側に立ったのが午前9時15分、時間を経るごとに人の数が増えて行き、10時半頃にはコンコースを含めた駅周辺は飽和状態になる。
 いつもなら12時前に「店じまい」をするのだが、今日は次から次へとやって来る人の対応におおわらわ、仲間は「いつまでやっててもきりがないよ」と引き上げる。看板をたたんでいても人が声を掛けてくる。ドタバタしながら終ったのが12時半。
 今日の案内は観光客が大半を占めた。一番多かった案内場所は「北野の異人館街」、その次は「生田神社」。本日の特徴的な案内場所として、ルーヴル美術館展が開催されている神戸市立博物館、それと三宮センター街などが多かった。
 本日のカウント数は199名、いつもの4倍弱であった。
 昼食後、北野坂へ向う。北野坂通りを抜け信号を渡ると「インフィオラータ神戸・北野坂」の会場にでる。この催し物は3日から5日まで、車道を封鎖した北野坂の300mに花絵が描かれ、北野広場ではパフォーマンスやライトアップ、写真展などが行なわれている。
 この会場で訪れた人たちに、カメラのシャッターを押すボランティアを買って出ているご同輩がいる。ご同輩の奮闘ぶりをカメラにおさめた。

投稿者 愉悠舎 日時 2008年5月 5日 (月) ボランティア日記 | 個別ページ


神戸市立博物館へ行くには?


 「博物館へ行くのは?」
 「そこの信号を左に曲がって・・・」
 私に道を尋ねた人は「今日が最後だから」と言った。
 この三ヶ月、随分多くの人から博物館への道順を聞かれた。
 「ルーヴル美術館展−フランス宮廷の美−」の開催されている神戸市立博物館は旧居留地の中ほど海側に位置している。
 この建物は1935年(昭和10年)に横浜正金銀行の神戸支店として建てられた。1982年(昭和57年)神戸市立博物館として開館した。
「正面にドリス様式の円柱が建ち並ぶ新古典様式の建物で、昭和初期の名建築と言われています。1998年には登録文化財に指定されました」。(神戸市立博物館 ホームページより)
 今日は暑かった、暑い上に湿っぽい空気が皮膚にへばり付く。活動を終える12時ごろにはヘトヘトになった。活動を終えて仲間のOさんと近くのカフェで軽い食事を摂った。一時間ほどOさんと喋り、別れた。
 Oさんと別れたあと、市立博物館へ向かった。ルーヴル美術館展の開催期間が今日までとは知らなかった。今日を逃せば観る機会を失ってしまう。しかし、博物館の前は長蛇の列、あきらめて引き返す。
投稿者 愉悠舎 日時 2008年7月 7日 (月) ボランティア日記 | 個別ページ

神戸歴史ウォーク2008

 来る27日、神戸商工会議所(主催)や神戸市(共催)等が行う「神戸歴史ウォーク2008」を手伝う人たちへの説明会が、トアロードにある中華会館で行われた。
 暑い日の午後3時トアロードに向かった。
 このイベントで私たちボランティアへ割り当てられた任務は、各ポイントでのガイドとスタート地点(蓮翼亭)から最初のポイントまでの随行である。
 私に与えられた役割はJR新神戸駅近くにある蓮翼亭から砂子橋(いさごばし)までの随行及び砂子橋のガイドと、旧居留地に在る15番館のガイドである。
 「15番館」はいざ知らず「砂子橋」は初めて耳にする言葉である。
 今回のイベントは「近代建築をめぐる神戸モダニズム散歩」と銘打っており、私もガイドの端くれとして参加者に不快な思いをさせないように、「砂子橋」や「15番館」について少し知識を深めておかなければならない。
 「砂子橋」は神戸市水道局のホームページによると「建設当初は、雌滝及び鼓ケ滝で取水した水を奥平野及び北野浄水場に導水するため、左岸に布設された8インチ及び24インチの導水管を右岸側に渡すことを目的とした水道橋でした。  その後、橋が神戸市道路管理者(建設局)に移管されて、現在では道路施設として位置付けられています。  昭和51年に、高欄は上部に手摺が設置されて60cmほど嵩上げされており、その内側には市章マークも取付けられています。  昭和13年及び42年の大水害でも破損した形跡がなく、経年化による亀裂や剥離等がほとんど見られません。・・・」とあり1900年(明治33年)に竣工し、その大きさは全長:19.2m(別途袖壁2.6mあり)、幅3.3m(道路幅2.7m)のレンガ積の水管橋である。
 この橋は近くの五本松堰堤(布引ダム)などの布引水源水道施設と共に2006年7月に国の重要文化財に指定されている。
 これら一連の施設を一度じっくり訪ねたいものだ。
 次に旧居留地内にある「15番館」についても少し学習しておこう。 「神戸港が開港した1868(明治元) 年のこと。15番館はその当時の面影を残す唯一の建物でした。 貿易を行うために外国人が住むことを許された外国人居留地は、明治政府から与えられた区域の田畑や砂地を埋め立てて造られました。基本設計を担当したのはイ ギリス人土木技師J・Wハート。当時としては珍しく、歩道と道路を分け下水道も整備されています。居留地内は126区画に区割りされ、その15番の区画では1868年9月 10日の第1回永代借地権競売の後、レストラン、ホテル、テーラーなどが営業しました。1878年に火災で区画内の建物が全焼した後、1880~81年に竣工されたのが「15 番館」です。木造レンガ造り2階建てコロニアル(植民地)スタイルで、1989(平成元)年に国の重要文化財に指定されました。15番館は当初はアメリカ領事館として1890年からはイギリス系の有力な船会社の神戸支店責任者、H・Lバーガレーの私邸として使用され、居留地制度の廃止 された99年ごろからは使用者などが変遷しました。1917年2月9日には、当時この建物を使用していた日本企業が土地と建物の所有権をイギリス人から買い取り、旧居留 地時代から続いていた永代借地権が解消されます。そして、1966年からは建材会社の所有となります。 」(神戸市中央区ホームページより)
 「15番館」は先の震災で全壊しその後元の姿を取り戻した。
 27日の本番に備え、一度下見の必要があるだろう。
投稿者 愉悠舎 日時 2008年7月20日 (日) ボランティア日記 | 個別ページ


近代水道の夜明け

 明日の「神戸歴史ウォーク2008」に備え昨日JR新神戸駅山側に在る上水道の水路を歩いた。午前9時半にバスで新神戸駅に着き、暑い日ざしの中を歩き始める。歩き終わる地点を布引ダム(五本松堰堤)と定め、ハイキングコースを歩く。久しぶりの「山登り」に躰が重い。2km足らずの道を汗を流しながら布引ダムへ、そこで30分ほど休憩し水の流れに沿って引き返す。  先人たちが日本の近代水道に馳せた夢の跡を追った。
 神戸市水道局のHPにある「神戸の近代水道」を要約すると「布引水源地水道施設の建設は神戸の近代水道史そのものである。明治22年(1889年)に神戸市が誕生し、人口増も激しくなり水の解決に迫られた。
 明治18年(1885年)、横浜の近代水道敷設(明治20年完成、日本最初の近代水道)の影響を受けて、明治20年(1887年)には、横浜の水道を設計したイギリス人パーマーに水道施設の設計を依頼した。
 しかし、その後水道敷設について停滞時期があり、明治30年(1897年)5月になって水道事業の起工式が行われた。このとき神戸市の人口増に対処するためダムの方式をコンクリート堰堤(従来は土堰堤)とした。
 こうして日本で7番目の近代水道として給水を開始した。」と、ある。
 布引ダムより下流の砂子橋まで写真を撮りながら歩く。百年前の上水道設備は布引ダムの上流側にも、分水・堰堤、付属橋、遂道等の構造物があるが、上水道設備のメインである布引ダムより山を下る。


 写真の上から順番に下った。番号に沿って構造物の説明を「神戸市水道局のホームページ」から拾い、以下に記す。
①五本松堰堤(布引ダム)
 当時、山岳部にこの規模のダムをコンクリートで築造したことは画期的。堤高33.3m、堤長110.3m、有効貯水量約76万立方メートル(建設時)の日本最大規模の重力式粗石コンクリートダムが明治33年(1900年)3月に完成した。
②谷川橋
 2本のアーチ状鉄筋コンクリート構造の主桁と横桁の上にモニエ式床版がある構造となっている。
 主桁及び横桁の上下主筋に対する横方向拘束筋にトラス状の鉄筋が、床版の主筋にベント筋が採用されていることが特筆に価する。建築年代は大正初期。
③雄滝
 布引の滝群の中でもっとも大きい、雄滝の高さは43m。水は6段に折れながら滝つぼに落ちており、その段ごとに、水がえぐった穴が開いてる。
④雌滝取水施設
 練石積取水施設、面積:51平方メートル(石積み階段含む) 円筒形石積塔屋に半球を載せた石積みの上屋、(直径:3.3m)、明治33年(1900年)3月竣工
⑤雌滝取水堰堤
 練石積堰堤(堤高:7.7m、堤長:19.3m、堤頂幅:1.2m)、明治33年(1900年)3月竣工
⑥砂子橋
 三径間連続レンガアーチ橋(全長:19.2m(別途袖壁2.6mあり)、幅3.3m(道路幅2.7m)、明治33年(1900年)3月竣工  2006年(平成18年)年7月5日、一連の布引水源地水道施設は国の重要文化財に指定された。

投稿者 愉悠舎 日時 2008年7月26日 (土) ボランティア日記 | 個別ページ













水の波動

 7月27日(日)、400余名の参加者を得て「神戸歴史ウォーク2008」が開催された。 6時前に淡路の家を出て、集合場所である新神戸駅に着いたのが7時過ぎ、駅の構内で時間をつぶし8時前に近くの「連翼亭」に着く 。受付は9時だが、9時前には沢山の人が集まってきた。  ウォーク最初のポイント新神戸駅裏の「砂子橋」へ5班に分け、受付順にある程度人数が揃えば、1班から順番にポイントへ向け出発する。
 この日、私に与えれた役割は「砂子橋」への送迎と「砂子橋」の説明、そのあと車で旧居留地に在る「15番館」へ移動しガイドにあたることである。
 1班、2班、3班と順次出発して行ったあと4班を伴って「砂子橋」へ向かう。「連翼亭」から5分ほどの新神戸駅の裏側を少し歩くと「砂子橋」に着いた。橋の袂で、近代文明の黎明期を飾った上水道設備について語る。当時水道橋として使われた「砂子橋」、その後道路としても使われ今に至っている。1900年に完成した上水道施設は今も神戸市民に水を供給し続けている。
 説明のあと、「連翼亭」へ引き返す。参加者はコース順に従って生田川を下る。
 私は「ラジオ関西」の車に乗せてもらって旧居留地の「15番館」へ移動する。そこで次々にやって来るウォーク参加者に「15番館」と、その横に展示している「下水渠」の案内をする。下水道は神戸開港時外国人居留地となったこの場所に、イギリス人技術者が設計・施工したレンガ造りの近代下水道である。下水道は雨水と雑排水用に造られ、近代下水道としてはわが国最古のものである。竣工は1872年(明治5年)頃。
 炎天下、大きな事故もなくウォーキングを終えたのが正午過ぎ、メリケンパークに在る神戸海洋博物館で主催側より支給された昼食をとる。「仕事」を辞めて以来、「働いて」得た初めての報酬(弁当)である。美味い!
 日本の近代文明に大きな役割を果たした近代上、下水道、くしくもその二つの設備に接して、神戸モダニズムの奥行きの広さと深さを実感した。

「神戸歴史ウォーク2008」行程 (1)生田川公園(連翼亭) → (2)砂子橋(国指定重要文化財) → (3)布引歌碑のみち(生田川遊歩道) → (4)二宮神社(創祀不詳、旧葺合区の氏神) → (5)神戸レガッタ&アスレチッククラブ(日本の近代スポーツ発祥といわれるクラブ) → (6)東遊園地(加納宗七記念碑、日本近代洋服発祥の地顕彰碑、A・C・シム記念碑、モラエス翁胸像、ボウリング発祥の地、マリーナ像、1.17希望の灯り、慰霊と復興のモニュメント) → (7)神戸税関(昭和2年建立の2代目庁舎の外観などを継承) → (8)日本真珠会館(日本のモダニズム建築100選、国登録有形文化財) → (9)旧居留地十五番館(国指定重要文化財、日本最古の近代下水道管の遺構)  → (10)神戸移民船乗船記念碑「希望の船出」(第1回ブラジル移民船「笠戸丸」出航記念碑) → (11)神戸海洋博物館 主催:神戸商工会議所 共催:兵庫県神戸県民局、神戸市、(財)神戸国際観光コンベンション協会、ラジオ関西 後援:神戸新聞社、神戸新聞総合出版センター 協賛:大塚製薬㈱神戸支店

投稿者 愉悠舎 日時 2008年7月29日 (火) ボランティア日記 | 個別ページ

兵庫デスティネーションキャンペーン

 2008年12月1日から2009年3月31日まで「兵庫デスティネーションキャンペーン」の一環として「KOBE観光ガイドボランティア 」は北野異人館街のガイドを担当します。

 この期間の日曜日、午前10時半にJR三宮駅の中央口北側に集合すれば、約90分かけて、三宮駅から北野の異人館までに点在する建造物と北野の異人館をボランティアガイドが案内します。予約は不要で参加料は無料です。

コースは以下の通りです。

メインコース
JR三宮駅中央北 → 北野坂 → 北向地蔵 → 山手幹線(旧生田川) → ソネジャズクラブ → パールストリート → にしむらコーヒー → インドクラブ → 北野物語(旧)フロインドリーブ邸 → 北野ガーデン → 異人館街 → ラインの館 → 北野美術館 → ハッサム邸跡地 → イタリア館(プラトン装飾美術館) → 前田邸 → 山手八番館 → うろこの家 → 旧サッスーン邸 → ハンターの塀 → 北野天満宮 → 北野広場 → 風見鶏の館 → 萌黄の館 → 北野広場

神社コース
上記、北野坂からパールストリートまでが以下のコースになります。

北野坂 → 生田新道 → 生田神社 → 東門筋 → ハンター坂 → カトリック中央教会 → パールストリート

投稿者 愉悠舎 日時 2008年12月 1日 (月) ボランティア日記 | 個別ページ


師走

 師走、気ぜわしい日々を送っていた頃が懐かしい。

 今月初めて神戸へ出る。午前中ボランティアを三宮で行った。

 我々の活動とは別に、同じ「組織」の仲間が12月から毎日曜日、「兵庫デスティネーションキャンペーン」事業として実施している、「神戸北野異人館ガイドコース 」の出発点であるJR三宮駅中央山側で、出発準備に勤しんでいた。普段は「北野」で活動しているようで、顔を合わす機会が少ない人たちだ。

 「三宮」の活動を手伝ってくれた理事長のM氏と昼食を共にした。人を纏めて行く上での気苦労を聞いた。好きなときに好きなように活動している私は、氏の話に少し気がとがめる。もっと「組織」全体を思いやる気持ちが大切だ。

 氏と別れたあと映画を観たくて三宮センター街にある映画館へ行く。目的の映画は午前中1回とレイトショーで残念ながら昼間の上映は無い。気持ちを切り替え神戸の街歩きを楽しむ。帰宅して携帯電話に組み込まれている歩数計を見ると2万3千歩余り、ここ数年の最高を記録した。

 

 

 

 


 歩いて、歩いて6時前東遊園地へ、今開催されている神戸ルミナリエの光を観る。震災の歳に観た感動は無い、並んでいる屋台と光のミスマッチに、そろそろルミナリエも潮時ではないのか。



 帰り、三宮の駅頭で「光」を撮る。6時半のバスで帰路につく。

 今朝、愉悠舎から払暁の「光」を撮る。

 人工の「光」は痛いが、自然の「光」は温かい・・・。













投稿者 愉悠舎 日時 2008年12月15日 (月) ボランティア日記 | 個別ページ


六甲山上モダニズム建築探訪

 4月19日(日)、ボランテイアの研修会が六甲山で行われた。案内役の郷土史家・中尾嘉孝氏をはじめ20名が新緑の六甲を歩いた。

 午後零時半、私はワイフを伴なって集合場所の六甲ケーブル山上駅へ鈴蘭台から車を走らせた。西六甲ドライブウェイを通り集合場所に着いたのが午後の一時、集合時間の一時半に少し時間があったので駅周辺を歩く。眼下に拡がる神戸の街並みや阪神間のランドスケープにしばしウットリ。久し振りに視る風景は春の霞に包まれていたが、この一角に佇むと過ぎし日の記憶が甦る。

 一時半、中尾氏に連れられてモダニズム建築探訪が始まった。

 この日の行程は六甲山上駅舎・展覧台→神戸ゴルフ倶楽部クラブハウス→ヴォーリズ六甲山荘内→六甲大道り・月見橋→六甲山ホテル旧館前→六甲山上駅を巡った。所要時間は3時間と程よいハイキングを兼ねた研修となった。

 一つ一つの建物について「神戸観光ガイドボランテイア」が作成した資料からその概要を記しておこう。

①山上のレトロモダン・六甲ケーブル六甲山上駅 竣工:昭和7年/構造:3階建地下2階鉄筋コンクリート造り

 六甲ケーブル開通と同時に竣工した。同時期に完成した阪神三ノ宮コンコースと共通した構成主義の影響を受けたコンコースのインテリアや乗客出入口の巨大な扇型のポーティコ、軒周りや壁面に取り付くアールデコ風デザインのテラコッタ(陶製装飾)がレトロ・モダンな雰囲気を醸し出している。

②日本最古のゴルフ場・神戸ゴルフ倶楽部 竣工:昭和7年/設計:ヴォーリズ建築事務所↓


 A.H.グルームが開設した、日本最古のゴルフ場に似つかわしいクラブハウス。自然の地形を生かしたグリーンの中に、下見板の朱と黒い大きな寄棟屋根がコントラストをなしている。内部もスクラッチタイル貼の暖炉などシックな佇まいで、名門クラブの気品が感じられる。

③木立に佇むヴォーリズ作品(模型)・ヴォーリズ六甲山荘 竣工:昭和9年/設計:ヴォーリズ設計事務所/構造:木造平屋建↓


 関西学院教授の小寺氏の山荘であった。設計は関西学院や神戸女学院などを手がけたW.M.ヴォーリズ。木の家の味わいが感じられる。暖炉や食堂のインテリアが秀逸。平成20年にNPO法人アメニテェ2000協会が取得、同年9月には文化審議会が国の有形文化財登録を答申した。

④いにしえのリゾートロード・六甲大通り

 六甲山上で最初につくられた大通り。尾根を利用して開かれた変化に富んだ散策路で、この辺りの山荘に訪れた欧米人が行き交い大正から昭和初期にかけて国際色豊かなリゾートロードとして華やいだ。初夏から晩秋にかけて山上のロマンチックコースと呼ばれ数々のロマンスを生んだ歴史の道でもある。

⑤六甲ケーブルウェイへのかけ橋・月見橋

 昭和6年に阪急電鉄経営による「六甲ロープウェイ」建設時に、現在の六甲郵便局裏にあった山上駅とドライブウェイをつなぐ橋として架橋されたコンクリート橋。行楽客はこの橋を渡って山上施設へ向かった。六甲ロープウェイは昭和19年に廃止されたが六甲山上開発史を語る上でも貴重な遺構である。

⑥スイス風クラシックリゾート・六甲山ホテル 竣工:昭和4年/設計:古塚建築事務所

 阪急系の宝塚ホテルの姉妹店として、昭和4(1929)年にオープンした。設計者は西宮に事務所を備え、阪神間を中心に邸宅から小学校まで幅広く手掛けた。スイスの山荘を思わせる外観は、周囲の環境とも良く調和しており、クラシックリゾートホテルの格調高さを感じさせる。

投稿者 愉悠舎 日時 2009年4月23日 (木) ボランティア日記 | 個別ページ


「息絶えた」街

 梅雨を思わせる小雨が舗道のレンガを濡らしていた。昨日の22日、三ノ宮の山側に立った。観光ガイドのボランテイアをはじめて一年余り、観光客のいない路頭に立つ虚しさをはじめて味わった。「新型インフルエンザ」が神戸に上陸し、神戸は「疫病神」扱いされ、人が神戸に来なくなった。 この日私が扱った件数は2件で4人、その内二人は外国人であった。普段私が扱う人数は50人ほどなのでその少なさがわかる。

 一時間ほどで切り上げ、なじみの店で昼食をとったあと、北野の観光ガイドボランテイアの事務所に所用のため出かけた。時間は午後2時、平日とは言えいつもなら大勢の人で賑わっている北野界隈はゴーストタウンと化していた。閑古鳥ならぬ閑古鳩が心もとなげに羽ばたいていた。

 そんな中、風見鶏の館の前のベンチに腰掛け静かに語り合っている外国人の老夫婦がいた。私が近づいて行くと二人は私に微笑みかけてくれた。私に何かを語りかけているがサッパリ分からない。「Where are you from?」私は英語で語りかけた。「フレンチ」とムッシュが答えた。彼らが話しているのはフランス語?なんだ。写真を撮ってくれといっているようなのでブロンズ像と一緒に写した。私は風見鶏をバックにもう一枚撮ろうと言って、全景の写る場所に連れて行ってシャッターを押した。別れぎわ、ムッシュは「アリガトウ」と日本語で言った。彼らと共に過ごした10分ほどの間、英語らしきものは一言も聞かなかった。「アデュー」と言ったら「アデュー」と返してくれた。

 灯の消えた街は不気味だ。立ち寄った土産物屋の店主が「人も車も無い通りを見ていると、恐怖感に襲われる」と嘆いていた。この後始末を誰がやってくれるのかこの責任を誰がとってくれるのか。

投稿者 愉悠舎 日時 2009年5月23日 (土) ボランティア日記 | 個別ページ