義貞・その周辺2
2011年2月18日 (金)
戸籍謄本

義貞の親たちから、義貞の孫である私に至る系譜を「戸籍謄本」から窺い知ることが出来る。
義貞の出発点は松山市大字豊坂町一丁目百二十九番地。豊坂町は現在の柳井町。
「松山市豊坂町:現在の松山市柳井町二~三丁目、松山城下町の南部の町。湊町の南を東西に通る町筋と、これに交わる南北の町筋。石手川の支流である中ノ川が町の北辺を西流する。東は柳井町西は末広町、南は藤原町、北は湊町に接す
…」(日本歴史地名大系)
義貞の出生地は豊坂町であるが、本籍は北立花町とある。立花町と豊坂町は隣町である。義貞の父・弥四郎が妻に迎えたクマは、当時松山城下の愛媛県温泉郡一万町、永井金蔵の三女で、婚姻届けを1863年(文久3年)4月に提出している。一万町は現在松山市になっており城山の麓に西一万、中一万、東一万、道後一万などの地名が残っている。その中のトラムの駅「上一万」は私にとって懐かしい駅名である。
クマは義貞の任地朝鮮で1917年(大正6年)8月に亡くなった。1843年(天保14)年7月生まれのクマは70年を生きた。そのクマは城北公園下の千秋禅寺に永井家の墓の横松澤の墓で眠っている。
一庶民、一個人の単なる一事情に過ぎない戸籍謄本であるが、いちべつしただけでも私の想像をかきたてる。それと共に明治の時代、政府の意図した戸籍制度の狙いも垣間見える。今後、この「戸籍謄本」を紐解いていきたいと思う。
投稿時刻 20時18分 義貞・その周辺 | 個別ページ
2010年10月26日 (火)
由良要塞
義貞が4年間過ごした由良の要塞を訪ねた。夏から一足飛びに冬の到来を思わせる寒気に晒されながら、今は公園として整備されている生石(おいし)山周辺をワイフと砲台跡に沿って歩いた。
「義貞は1897年(明治30年)11月24日、由良要塞砲兵連隊で陸軍砲兵二等軍曹に任じられている、22歳。そして、1901年(明治34年)11月30日、由良要塞砲兵連隊を満期除隊した(26歳)」(2010年6月1日拙ブログ)。
要塞は1880年(明治13年)に東京湾要塞(観音崎砲台)を設置し、その後瀬戸内海への外国船進入を防ぐために紀淡海峡、鳴門海峡、下関海峡、豊予海峡などに要塞が設けられ、また日本の沿岸各地にも要塞が設置されていった。
由良要塞は紀淡海峡を挟んで淡路島の洲本友が島そして和歌山の加太を中心にその周辺に造られ、大阪湾の防衛に当たった。要塞の建設が本格化したのは1889年(明治22年)3月、淡路島の生石山(おいしやま)に第三砲台を起工したのに始まり10年の歳月をかけて周辺に要塞を張り巡らした。1896年(明治29年)7月、由良要塞司令部を設け、東京湾要塞と並び陸軍の要衝としてその任に当たった。生石山には五ヶ所の砲台が設置された。

「明治になって軍は日本の防衛についてフランスの指導をあおぎました。フランス参謀中佐マルクリーは東京湾に次いで、紀淡海峡の重要性を強調しました。軍はこの意見にもとづき京阪神地方を防備するために紀淡海峡に近代要塞(由良要塞)を築くことになりました。明治22年に生石山砲台、成山砲台、友ヶ島地区、深山地区と着々と工事を進めてきました。明治29年には由良要塞重砲兵連隊(4個大隊12中隊)が編成され、由良要塞司令部も開設されました。明治37年から38年の日露戦争を経て明治39年に全ての砲台と施設が完成しました。」(由良要塞案内表示板より)
投稿時刻 17時58分 義貞・その周辺 | 個別ページ
2010年6月16日 (水)
憲兵警察制度と義貞

義貞が韓国統監府に出向を命じられたのが1907年(明治40年)9月21日、その二年前日露戦争のさなか、日本帝国は大韓帝国の要請により警察機構の改変整備を行った。
日露戦争の勝利により日本帝国は朝鮮半島及び中国遼東半島の権益確保のため、国家権力の実動部隊である警察力の拡大強化に力を注いだ。大阪の一警察官に過ぎなかった義貞は大陸進出をもくろむ日本帝国の先兵の役割を担った。
その後、韓国併合直前の1910年(明治43年)7月大韓帝国より「警察権の全面委譲」を受けた日本帝国は韓国併合直後、憲兵警察制度を採用した。
憲兵警察制度は軍隊内の警察である憲兵が一般の警察も兼ね備えるもので、一般の警察では質量共に治安の維持が困難であるという理由で創設され、一応憲兵警察と一般警察の並存ならびに担当地域の棲み分けもなされた。しかしながら、朝鮮総督府の歴代総督は「
陸海軍大将を以て充てる」のが日本帝国の方針であり、軍部の台頭と共に、憲兵警察の暴走が目立った。憲兵警察の暴走は3.1独立運動で見せた、堤岩里(チェアムリ)教会焼討ち事件(当ブログ「事件簿」の項参照)の悲劇へと突っ走って行く。3.1独立運動を契機に日本帝国は憲兵警察制度の廃止を余儀なくされた。
義貞は3.1独立運動当時、江原道(カンウォンド)通川(トンチョン)警察署に勤務していた(上の職員録の上段)。義貞に命令を下す「道」の幹部欄には軍人の名が連なっている。3.1独立運動発生が1919年(大正8年)、当時私の母は6歳、その時の事を覚えていて「万歳事件(母はこう呼んでいた)で、ばあちゃん(ツヤ)は辛いめにおうたんよ」と、ただそれだけ言っていた。
1919年(大正8年)8月20日、憲兵警察制度は廃止され一般警察制度になった。江原道通川警察署から江原道高城(コソン)警察署へ、そして江原道の憲兵を束ねていた春川憲兵隊の解体後の春川(チュンチョン)警察署で義貞は職を辞した。1921年(大正10年)7月28日の事である。春川警察署に勤務した頃の職員簿(上の職員録の下段)から軍人の名前は消えた。
先日、新居浜へ帰郷した際、叔母(義貞・ツヤの四女)が「私が生まれるの待ちかねて帰ってきたようよ」と、語っていた。叔母が生まれたのは春川を去る一ヶ月前であった。
追記:韓国併合年における警察の数は「憲兵警察と一般警察を合わせた人数は、7712名(その内、朝鮮人は4440名)。うち「憲兵警察」は2019名(その内、憲兵補助員としての朝鮮人が1012名)であった。(ウィキペゲィア<Wikipedia>)
投稿時刻 12時50分 義貞・その周辺 | 個別ページ
2010年6月 1日 (火)
由良要塞砲兵連隊

義貞は1897年(明治30年)11月24日、由良要塞砲兵連隊で陸軍砲兵二等軍曹に任じられている(22歳)。そして、1901年(明治34年)11月30日、由良要塞砲兵連隊を満期除隊(26歳)した。
由良要塞は陸軍の要塞の一つで大阪湾防衛の目的で紀伊半島と淡路島の間の紀淡海峡周辺に造られた。由良要塞は三つの地域から成り、その後鳴門要塞が1903年(明治36年)5月に加わり四つとなった。
由良要塞は淡路島の由良(洲本市由良)を中心に要塞司令部が置かれ生石山砲台、成山砲台、高崎砲台、赤松山保塁、伊張山堡塁、生石山堡塁からなり要塞の心臓部を成した。
その他、友ヶ島に、友ヶ島第一~第五砲台と虎島保塁が置かれ、由良地域と共に要塞の主力を成した。紀伊半島の和歌山側の加太(和歌山市加太)を中心に北部の深山第一、第二砲台、男良谷(深山第三)砲台、城ヶ崎探照灯台、大川山堡塁、高森山保塁、南部の鉢巻山に配置された加太砲台、田倉崎砲台、東部の佐瀬川保塁、西ノ庄保塁から成る。
由良地域を運用する由良要塞重砲兵連隊とは別に、深山(和歌山市深山)に第4師団の深山重砲兵連隊が置かれ、和歌山側の各砲台を運用した。
そして、後に加わった鳴門要塞がある。 (『ウィキペディア(Wikipedia)』を参考にした)
私の仮寓が淡路島の高台にあり、そこから紀淡海峡が望める。暮れなずむ島影を見ていると祖父・義貞の顔がダブる。若き日の義貞がその情熱を傾けた場所、淡路島の由良から紀淡海峡を挟んで紀州の加太(かだ)、深山(みやま)・・・。この高台に私を誘ったのは祖父かも知れぬ、紀淡海峡の夕暮れは悲しい。
投稿時刻 21時26分 義貞・その周辺 | 個別ページ
2010年5月18日 (火)
新田義貞
母の話に義貞よると祖父、義貞の名は新田義貞にちなんで曾祖父がつけたらしい。ちなみに私、宏志は志を大きく持て、の期待をこめ義貞が命名した。志、小さく生きた身が恥ずかしい。
曾祖父に義貞とつけさせた新田義貞とはどんな人物で在ったのか。
日本大百科全書(小学館)より拾ってみた。

鎌倉末・南北朝時代の南朝方の武将。朝氏(ともうじ)の子。上野(こうずけ)国新田荘園(しょう)(群馬県太田市、尾島町、新田町の一部)を拠点とする豪族新田氏の惣領(そうりょう)であったが、小太郎という通称から知られるように、官途名すらもたぬほど鎌倉幕府からは冷遇された一御家人(ごけにん)にすぎなかった。元弘(げんこう)の変(1331)には、初め幕府軍の一員として千早(ちはや)城攻撃に加わったが、その途中帰国。1333年(元弘3・正慶2)、護良(もりよし)親王の令旨(りょうじ)を得て北条氏に背き挙兵。上野・越後(えちご)に展開する一族を中核に、関東各地の反幕府勢力を糾合、小手指原(こてさしがはら)(埼玉県所沢市)・分倍河原(ぶばいがわら)(東京都府中市)の合戦に勝ち、5月22日鎌倉を落とし、得宗(とくそう)北条高時(たかとき)以下を自殺させた。その功により、建武(けんむ)政権下では重用され、越後などの国司(こくし)、武者所頭人(むしゃどころとうにん)、さらに昇進して左近衛中将(さこのえのちゅうじょう)などに任ぜられたが、やがて足利尊氏(あしかがたかうじ)と激しく対立するようになる。35年(建武2)、関東に下った尊氏を追撃するが箱根竹の下の合戦に大敗。しかしその直後、上洛(じょうらく)した尊氏を迎撃、京都合戦で勝利を収め、一時は尊氏を九州に追い落とす。36年(延元1・建武3)、再挙した尊氏と摂津湊川(せっつみなとがわ)・生田(いくた)の森(兵庫県神戸市)に戦い、後醍醐(ごだいご)天皇方は楠木正成(くすのきまさしげ)らを失い、京都を放棄した。その後、義貞は北陸に移り、越前金(えちぜんかな)ヶ崎(さき)城(福井県敦賀(つるが)市)を拠点に再起を図るが、37年これを失陥、嫡男義顕(よしあき)も自刃、ついで38年閏(うるう)7月2日、越前藤島(福井市)で守護斯波高経(しばたかつね)・平泉(へいせん)寺衆徒の軍と合戦中、伏兵に遭遇、戦死した。義貞は、鎌倉攻めのため上野を出たあと、ついに一度も上野の地を踏むことはなかった。尊氏・直義(ただよし)を中心に一族がまとまって行動した足利氏に比べ、新田氏は家格の低さももちろんだが、山名(やまな)・岩松(いわまつ)氏ら有力な一族が当初から義貞と別行動をとり、わずかに弟脇屋義助(わきやよしすけ)をはじめ、大館(おおだち)・堀口(ほりぐち)氏らの本宗系の庶子家しか動員しえなかったのであり、この点に、すでに義貞の非力さが存在した。にもかかわらず義貞は後醍醐によって尊氏の対抗馬に仕立て上げられ、悲劇の末路をたどることになったのである。(1301年~1338年)
投稿時刻 13時44分 義貞・その周辺 | 個別ページ
2010年5月12日 (水)
陸軍要塞砲兵射撃学校
義貞は1896年(明治29年)9月、21歳で陸軍要塞砲兵射撃学校に入学し、翌年の11月に卒業している。
陸軍要塞砲兵射撃学校は1889年(明治22年)、要塞砲兵幹部練習所として現在の千葉県市川市国府台に置かれた。学生は東京湾などの要塞を守る要塞砲兵隊の幹部となるために要塞砲兵を学び、将来の要塞砲兵の将校下士官を目指した。学生は練習員と生徒に分れ、練習員は野戦砲兵科の将校、生徒は教導団砲兵隊の生徒であった。練習員は要塞用火砲射撃、観測通信、要塞戦闘の原則、要塞戦史等の教育を受け、生徒は下級幹部に必要な兵器学、弾道学、射撃学、築城学、測図学、衛生学及び要塞防禦法の大要などの教育を受けた。練習所は開所まもなく千葉県から浦賀にあった海軍屯営の撤去に伴い、その跡地に移った。
要塞砲兵幹部練習所は1896年(明治29年)5月15日陸軍要塞砲兵射撃学校と改められ、教育内容をより充実させた。その年の9月義貞は要塞砲兵射撃学校に入校した。
海軍屯営跡に在った要塞砲兵射撃学校は1898年(明治31年)に浦賀町馬堀の新校舎に移転した。1908年(明治41年)陸軍重砲兵射撃学校に、さらに1922年(大正11年)陸軍重砲兵学校に改称した。

余談になるが、前述の海軍屯営は1873年(明治6年)に水兵養成のために設けられ海兵団に移った後、幾多の変遷を経て、1897年(明治30年)浦賀船渠がこの地に設立された。ここはもともと江戸幕府造船所があったところで、咸臨丸もここで修繕した。その後浦賀船渠は住友に吸収されたが力尽き、2003年(平成15年)工場閉鎖を余儀なくされた。
投稿時刻 22時57分 義貞・その周辺 | 個別ページ
2010年4月29日 (木)
朝鮮総督府警務部
祖父・義貞が朝鮮に渡ったのが韓国併合前の1907年(明治40年)、韓国統監府に出向を命じられたのに始まる。鉄道で釜山から京城へ行き韓国統監府に入った。

韓国統監府とは、「韓国統監府は、第二次日韓協約に基づいて大韓帝国の外交権を掌握した大日本帝国が漢城(現・ソウル特別市)に設置した官庁である。正式名称は統監府。 1905(明治38年)12月21日、韓国ニ統監府及理事庁ヲ置クノ件(明治38年勅令第240号)に基づいて置かれた。1910年(明治43年)10月1日、韓国併合により、大韓帝国政府の組織と統合の上、朝鮮総督府に改組された。なお、統監府の庁舎は現在のソウルアニメーションの場所に立地していた。」(出典:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

その後義貞は韓国併合後の1910年(明治43年)9月6日、忠清北道(チュンチョンプクト)警務部巡査監督を命じられ清州(チョンジュ)に赴いた。当時、朝鮮総督府の警察機構は軍隊が掌握する憲兵警察制度であった。
「朝鮮における日本の警察機構は統監府警務部を前身とする。1905年(明治38年)12月21日、統監府及理事庁官制(勅令第267号)により警務部(長は警務総長)が置かれ、理事庁に警部が置かれた。警務部には高等警察課・警務課・保安課・衛生課の4課が設置された。
1910年(明治43年)6月24日、大韓帝国の警察事務が日本に委任され、韓国の警視庁・警務局が廃止される。これに伴い、1910年(明治43年)6月30日の警察官署官制(勅令第296号)により、統監府外局として警察官署が設置され、中央に警務総監部、地方に警察部・警察署が置かれた。警務総監部の長は警務総長であり、韓国駐剳憲兵隊司令官がこの職を兼ね、韓国における警察事務を総務するとともに皇宮と漢城の警察事務を担当した。この制度は、韓国併合にともない朝鮮総督府が設置されたのちも引き継がれた。警務総監には憲兵隊司令官、各道の警務部長には憲兵隊長が任命され、地方行政機関の外に立って一般警察・衛生事務を統理・執行させた(憲兵警察制度)。
1919年(大正8年)8月20日、憲兵警察制度は廃止され独立官庁(外局)であった警務総監部や、各道の警察部も廃止された。総督府(本府)には警務局が置かれ、地方では各道知事が警察権を行使することとなり、第三部(1921年2月以降「警務部」)が置かれた。」(出典:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
義貞は憲兵警察制度が廃止された二年後に職を辞した。
投稿時刻 21時54分 義貞・その周辺 | 個別ページ
2010年4月10日 (土)
明治期の対朝鮮統治下への略年表
ワイフが長年お世話になり、数年前に亡くなった人生の先輩が残してくれた「略年表」を記載しておこう。氏は戦前大連の「満鉄」で働き、戦後は神戸の「神戸製鋼」に勤めた。定年後は読書三昧に耽り、時々海外旅行を楽しんでいた。氏を生涯にわたり支えたのは「満鉄」時代に培った「反骨の精神」と、氏の連れ合いの存在であったろう。氏と同道するとき、いつもハラハラしていたと、氏の生前を語っていたお連れ合いが、後を追うように亡くなった。ホットしたのであろうか、人間はいつも少しばかりの緊張感を抱くことも必要なのであろう。
下記、略歴を読むと朝鮮を植民地化していった「日本帝国」の野望が透けて見えてくる。見事な構成にただ感服、中川さんありがとう。(義貞の項は筆者が挿入した)
明治期の対朝鮮植民地化の略年表 1998.8.8 中川成海 撰
1873年(明治06年)08月17日 閣議、西郷隆盛の朝鮮派遣決定
1873年(明治06年)10月24日 天皇、岩倉の奉議により(大久保、木戸)西郷朝鮮遣使を無期延期、(征韓派敗北)西郷参議辞職
1873年(明治06年)10月25日 副島、後藤、板垣、江藤ら参議辞職
1882年(明治15年)07月23日 京城で反日暴動、日本公使館襲撃される(壬午事変)
1884年(明治17年)12月04日 京城にて甲申事変起こる、竹添公使軍隊を率いて参加
1885年(明治18年)04月18日 清国と天津条約(朝鮮からの同時撤兵、将来派遣の際相互通告)
1885年(明治18年)11月23日 大井憲太郎朝鮮改革のクーデターを企て、未然に発覚、逮捕される(自由党大阪事件)
1891年(明治24年)12月07日 朝鮮政府に対し防殺令施行の損害14万7千円を請求
1893年(明治26年)03月09日 同上の損害は千万余円と通告、大石公使拒絶
1893年(明治26年)05月04日 大石公使韓国王に対し、上記事件最後回答要求
1893年(明治26年)05月19日 防殺令問題妥協成立、賠償金11万円支払い決定
1894年(明治27年)06月02日 閣議、朝鮮に1混成旅団派兵を決定
1894年(明治27年)06月07日 日清両国、相互朝鮮出兵を通告
1894年(明治27年)06月16日 清国に東学党討伐、韓国内政の共同改革を提議
1894年(明治27年)06月21日 上記提議拒絶される
1894年(明治27年)07月03日 大鳥公使韓国に内政改革案提示
1894年(明治27年)07月20日 大鳥公使清韓宗属関係破棄などを要求する最後通牒を提出(期限22日)
1894年(明治27年)07月23日 日本軍韓国王宮を占領
1894年(明治27年)07月25日 豊島沖で清国軍艦を攻撃
1894年(明治27年)07月29日 成歓(ソンファン)、牙山を占領
1894年(明治27年)08月01日 清国に宣戦布告(日清戦争)
1894年(明治27年)08月20日 日韓暫定合同条款調印(京仁、京釜鉄道敷設権獲得)
1894年(明治27年)08月26日 日韓攻守同盟調印
1894年(明治27年)09月13日 大本営を広島に移す
1894年(明治27年)09月17日 黄海海戦に勝利
1895年(明治28年)02月01日 清国講和使節と広島で第一回会談、翌日全権委任状の不備を理由に交渉拒絶
1895年(明治28年)02月02日 山東省威海衛を占領
1895年(明治28年)02月12日 清国北洋艦隊降伏
1895年(明治28年)03月19日 清国講和全権李鴻章来日
1895年(明治28年)03月20日 下関で講和会議開く
1895年(明治28年)03月24日 李鴻章狙撃されて負傷
1895年(明治28年)03月30日 日清休戦条約調印
1895年(明治28年)04月17日 日清講和条約調印
1896年(明治29年)09月15日 義貞・陸軍要塞砲兵射撃学校に入校(志願)
1897年(明治30年)11月26日 義貞・陸軍砲兵二等軍曹
1898年(明治31年)09月09日 京釜鉄道敷設の日韓条約調印
1898年(明治31年)10月22日 義貞・陸軍砲兵一等軍曹
1901年(明治34年)11月30日 義貞・由良要塞砲兵連隊を満期除隊
1904年(明治37年)08月22日 日韓条約(第一次)調印、(財政、外交顧問を置き、実権を日本が掌握)
1904年(明治37年)09月25日 義貞・臨時召集として善通寺野戦砲兵第十一連隊補充大隊へ編入(第十一師団)
1905年(明治38年)02月20日 義貞・陸軍砲兵曹長
1905年(明治38年)04月08日 閣議、韓国保護権確立決定
1905年(明治38年)09月05日 日韓講和条約において日本の韓国保護を承認させる
1905年(明治38年)11月17日 第二次日韓協約調印(外交権を日本が完全掌握)
1905年(明治38年)12月20日 韓国統監府を設置、伊藤博文初代統監となる
1906年(明治39年)02月09日 駐韓日本憲兵の行政、司法、警察権掌握の勅令公布
1906年(明治39年)02月17日 義貞・召集解除(第十一師団)
1906年(明治39年)06月12日 駐韓日本軍、催益鉱、木柄礩らの反乱を鎮圧する
1907年(明治40年)07月03日 伊藤統監、韓国皇帝にハーグ密使派遣の責任を追及する
1907年(明治40年)07月19日 韓国皇帝譲位
1907年(明治40年)07月24日 第三次日韓条約調印(韓国内政全般を統監指揮下におく)
1907年(明治40年)08月01日 京城で韓国軍隊解散式、一部軍隊反抗して日本軍と交戦、以後翌年にかけて反日反乱は全土に拡大
1907年(明治40年)09月21日 義貞・統監府へ出向を命じられる
1909年(明治42年)07月06日 閣議、韓国併合の方針決定
1909年(明治42年)07月12日 閣議、韓国の司法、監獄事務掌握
1909年(明治42年)09月01日 閣議、韓国全羅道(チョルラド)民族運動の討伐開始
1909年(明治42年)10月26日 伊藤博文ハルピン駅頭で暗殺
1910年(明治43年)08月22日 韓国併合に関する日韓条約調印
1910年(明治43年)08月29日 併合宣言発表、朝鮮総督府設置
1910年(明治43年)09月11日 朝鮮の政治結社解散命令
投稿時刻 12時32分 義貞・その周辺 | 個別ページ