備忘録・ツヤ
2010年9月16日 (木)
遺書・原稿

今年の暑さは異常だ。基本的にエアコンを使用しない生活を送っている小生にとって、それは辛い日々だった。書きものをする気にもなれず一ヶ月が過ぎた。暑さも一段落した今日、ようやく机に向った。
65回目の終戦記念日の前後、遠い記憶の糸を手繰り寄せ、語り始める人たちが毎年増えて来ている。ツヤの遺書もあの戦争が何であったのかを考えさせる手助けになるのではないか、 我が家の宝である遺書の生原稿を公開しよう。
祖母・ツヤの遺書をPDFに加工し、ブログに掲載した。
戦時下において、「国防婦人会」の世話をもしたツヤは「お国のため」の一言も発していない。思うのは家族と近隣の人たちの行く末を気にするばかりである。最期の力を振り絞ってしたためたメッセージの行間に、ツヤの思い残した忘れ物がある。
松澤ツヤ1943年(昭和18年)1月13日10時5分召天。
この日も「ガダルカナル島撤退作戦」が密かに進行していた。
投稿時刻 08時37分 備忘録・ツヤ | 個別ページ
2010年3月26日 (金)
京都への道

1889年(明治22年)生まれのツヤは7歳で尋常小学校に入り、そこで4年間(当時の尋常小学校は4年制)過ごし、12歳の時こころざしを立て一人京都へ、京都キリスト女子校に学び7年間の修業を経て、1908年(明治41年)、京都正教女学校を卒業した。
京都に出るまでの12年間は兄・頼一の幼年期と符合する。
頼一の伝記が1979年青山学院から発行されている。 ツヤの生まれ育った生活環境に接すると、日本の夜明けに生きた女たちの胎動が聞こえてくる。ここに冒頭の部分を転載(一部加筆修正)し、ツヤの幼年期にタイムスリップしたい。
真鍋頼一・ツヤの祖父は四国伊予の国、新居浜に近い海岸線の西条に住み、もと村上十兵衛といった。その後、伊藤家を継いで伊藤十兵衛となる。西条では町奉行の勘定方を行い、西条常心の農事の監督をしていた。その後、廃藩置県となり町の情勢は一変、財政の基盤もなくなった。
勘定方とはいえ伊藤十兵衛の暮らしもご多分に洩れず楽ではなかった。最初は下駄商を営んでいたが、生来身に付けたものでもなく失敗が重なった。
こうした中で、妻のヤスは傾いた家を復興しようとして不慣れな百姓に就いた。一方、娘のモトヨ(元代)は真鍋幸之助に嫁いでいったが、資産のない幸之助に身一つで嫁したので生活は苦しかった。
その後、伊藤十兵衛は醸造業を始め、商術に長じているわけでもなかったが、家計を元に興せるまでになった。
幸之助は気弱な性格で一家の労苦を背負って立つという気概はなく、モトヨの実家に頼り、醸造米をかける水車の仕事をさせてもらった。幸之助の住んでいる所は西条の隣、伊予の国新居郡大生院村津越の山あいの小部落にあった。ツヤの兄三人の内、上二人憲一と章輔は水車の仕事に就いていた。頼一も見よう見まねで仕事を覚えた。
頼一は大生院津越の家から4kmほど北の西条大町まで歩いて尋常小学校に通った。妹ツヤが尋常小学校に入ることになった時、往復二里の道のりは可哀想だと、頼一は両親に申し出た。両親の思いもそこにあり一家は西条の大町へ引越しした。水車は自宅と別の所にあった。ツヤが小学校に通う頃には母・モトヨの影響で頼一と共に自宅近くにあるハリストス正教会に通っていた。
一家の米つき仕事も順調にはかどり暮らしも上向きになっていった。その矢先不幸が一家を襲う、1899年(明治32年)8月高知に上陸した台風は四国山脈を縦断し日本海に抜けて行ったが、別子銅山の施設は倒壊し、多くの死者を出す大惨事となった。この暴風で水車は流失してしまった。失意に打ちひしがれる幸之助とは逆にモトヨは気丈に振る舞い、自分の手で米つきを始めた。ツヤ10歳尋常小学校に通っていた。
1902年(明治35年)1月、頼一15歳、ツヤ12歳の時、たまたま徳島市楽脇町にあるハリストス正教会の杉本神父が巡回で西条に来た。頼一とツヤは西条のハリストス教会で洗礼を受けた。洗礼の前夜父幸之助は二人を前に「頼一、そなたは強く、たくましい子になっておくれ、ツヤよ、そなたはやさしく、たくましい子になっておくれ、ふたりとも信仰の初一念を通しておくれ、それだけが親の願いだ。昔、有馬、高山、小西など立派なキリシタン大名が沢山いたそうな、わしはヤソ教のことはよく知らないが、一旦入信した上は通し切ることこそ大切と思う」(加藤恭亮引用)と、懇々と言ってきかせた。頼一とツヤの決意もさることながら、世間体を恐れず、二人の壮挙を見守った両親の態度も崇高であった。
1902年(明治35年)3月、頼一は高等小学校を卒業したが家業の水車はうまく行かず、隣の小松町出身の陸軍中佐黒川氏を頼って陸軍幼年学校に入りたかったが進学するかどうか迷っていた。その矢先モトヨは幸之助と子供らに思いを打ち明けた。モトヨの計画は娘ツヤを京都に行かせ、頼一を東京に上らすことであった。
こうして頼一は初めて瀬戸内海を渡った。西条から船で尾道へ、そこから山陽線に乗った。翌日、新橋駅に着いた頼一は人力車に乗り、三菱が原を堀端に沿って走り、駿府台にある日本ハリストス正教会の前で車から降りた。
時を同じくしてツヤも京都へと向かった。
(真鍋頼一先生の生涯 発行:青山学院 発行日:1979.11.19)より
なお、本書にモトヨの晩年が描かれているので、掲載しておく。
「1949年(昭和24年)7月2日、真鍋頼一の母・元代(モトヨ)は松山市の長男憲一の家で、家族一同に見守られつつ齢90年の生涯を閉じた。葬儀は日頃親しくしていた松山市、松山一番町教会の宇都宮充牧師の司会により厳かに執り行われた。生前元代の住家は牧師館に近かったので、牧師も訪問したが元代も時折訪れ縁側に腰掛けて互いに話し合ったこともあった。また時折教会の早天祈祷会にも出席し基督教の信仰に励んでいた。思えば頼一の志を動かし、伊予の西条から、はるばる少年頼一を上京させたのは頼一自身の志望ではあっても、父幸之助に勝る女丈夫の元代の計らいであった。人間頼一の中に流れていた気丈夫と頑徹さは母元代から譲り受けたものではなかろうか。」
投稿時刻 17時30分 備忘録・ツヤ | 個別ページ
2010年1月28日 (木)
ツヤ・召天、その後で
夫・義貞 記
〇昭和18年1月13日10時5分、母を失う。
直ちに博子(四女・東京在住)、真鍋頼一(ツヤの兄)、松澤濱三郎(松澤弥四郎の長男、義貞の兄)、に電報す
〇13日午後8時30分より遺体の前にて追悼祈祷会を行う
祈祷会 藤田牧師 司会
+聖歌 四九三
+聖書 詩篇 第九〇編 桑原牧師
+感話 藤田牧師
+祈祷 藤田牧師、桑原牧師、渡辺満氏、近藤武雄氏、祖母モトヨ
+聖歌 五六五
+主の祈り
+黙祷
午後九時三十分閉会
会衆:渡辺、近藤、植田恭実夫妻、渕上(オクサン)、真鍋(オクサン)、高木(オクサン)、恭キシエ、牧野、石川、横山米造夫妻、松本マキエ・道晴・利子、森本、伊藤正、伊藤為一、伊藤徳松、岡田欽吉・敏夫・静夫、真鍋憲一夫妻、坂田夫妻、藤山夫妻、真鍋モトヨ、晴一、道子、義貞
祖母モトヨの切々たる祈祷、涙を拭ふを得ず
〇14日
・十一時三十分、博子かへる、臨終の間に合はざりし悲しみ、同情に堪えず
・市役所に死亡届、火葬認許願、火葬場一切の使用手続き、並に物資課に配給品の認可等を伊藤正氏に依頼、無事に完了す、感謝に堪えず
・葬具屋関係一切の交渉を長井杉一氏並に渡辺満氏に依頼す
・黒幕黒布を新居浜教会より渡辺満氏を通じて借用す
・午後〇時三十分より、道子、サチ子、愛子、博子、伯母等にて母のなきがらを潔め、納棺す、母の死顔はさながら生ける如くやさし、御顔のまはりに水仙、菊を飾る
・午後五時佐伯勝次郎かへる、告別に間に合う、めぐみなり
・生花に関する入手手配佐々木輝一氏に依頼、此の寒中に珍らしき沢山のお花を得る、植田奥さん、高木さん、真鍋奥さん、渕上奥さん、佐々木氏等にて十字架及び花輪一対製作して下さる、感謝に耐えず
・ヒツギを飾るため菊の生花を一対、平尾さん生けて下さる
・告別式々場の設備一式を渡辺氏指揮してやって下さる
・式場は自宅離れの間
〇故 松澤ツヤ姉告別式 司会 渡辺長老 司式 藤田牧師
+聖歌 五六六
+聖書朗読 詩篇第二三編
+祈祷 笠井牧師
+聖歌 四九三
+故人履歴 藤山太
+葬儀之辞 藤田牧師
+祈祷 桑原牧師
+聖歌 五六五
+弔辞 新居浜教会代表 植田恭実氏、若水教会代表 桑原牧師、新居浜西傳近所代表
+告別
+頌歌 五六八
+祝祷
+親族代表挨拶 真鍋憲一
・十四日午後四時 開会
・十四日午後五時二十分 閉会
・十四日午後五時三十分 出棺す
・聖句 彼は死ぬれども 信仰によりて 今なほ語る (ヘブル書 第十一章第四節)
・十四日午後五時三十分出棺、六時金子火葬場に到着、桑原牧師の祈祷、聖歌五六三の合唱の中にダビに附したり、今は地上にては逢ふべくもあらず、あ~悲しいかな
〇十五日
・午前九時、火葬場にて遺骨をひらふ、昨夜まで眼に見えたりし母の一切は今はたゞ一片の灰となって空し、一人ひとり出来得る限り多くひらふ、歯・義歯大部分ありたり
・午前九時三十分、家にて迎え来り、遺骨を前に
+聖歌 四九八
+黙示録 二十一ノ一ノ八 桑原牧師朗読
+祈祷 藤田牧師
+聖歌 五〇一
・十時終る
〇骨箱の蓋裏に藤田牧師、桑原牧師に記念のため書いて頂き、カメの蓋裏に全文を次の通り書く
<我を信ずる者は 死ぬとも 生きん (ヨハネ十一ノ廿五)> 故松澤ツヤ 昭和十八年一月十三日 十時五分 昇天
〇十五日午後二時三十分、東須加墓地に納骨す、セメントその他道具の一切を横山米造氏努力して下さる、感謝に堪へず
〇死亡通知
謹啓 妻ツヤ儀 旧臘より心臓病加療中の處 去十三日午前十時五分遂に死去仕候 共四十有余年の貫徹せる信仰による勝利の昇天 尚十四日日本基督教団新居浜西傳道所牧師藤田茂氏司式の下に市内教友一同参列の上告別式を執行 無事終了仕候 慈に故人生前の御厚情を深謝仕候 右取急ぎ御通知迄 如斬御座候 敬具
昭和十八年一月十五日 新居浜市原地 松澤義貞
・死亡通知差出先
立川教会教友一同様、小野康子(京都市左京区下鴨宮崎町一六五)、村井屯二(東京市豊島区要町一丁目四四ノ二)、頼安さだ(兵庫県氷上郡柏原町)、柵山六三郎(奉天市霞町九号聖教会)、川端信次郎(宇摩郡松柏村下粕、大畑常雄(大連市東威区北中浜町三ノ七四、宇都宮先生(松山市二番町)、西山喜一郎(松山市魚町三丁目)、森賀さち子(熊本市大江町渡康五六二)、山口定勝(角野町一〇三六社宅)、伊藤せい(鹿児島県熊支郡西之表納曽)、野木宗雄(大阪市住吉区昭和町西一丁目二九)、平山おりが(東京市下谷区中根岸六三)、森野正男(愛知県知多郡鬼先村西之口)、安部秀夫(泉川町堺)、松本晴子(東京市麹町区九段四ノ六)、小田一枝(上海哈枝路東安楽里二二号)、好井豊(奉天市大和区朝日街満鉄奉天青年隊第一隊 四ノ二二号)、加藤一正(佐世保局気付壱 壱弐)、石川兼吉(宇摩郡土井町畑野)、長尾桂三(泉川町駅西)、長尾あや子(広島市庚午北町八丁目五五五)、竹本昇三郎(今治市片原町海岸通)、好井広見(宇摩郡関川村上野)、坂田重雄(八王子市明神町二八三)、坂田定雄(山形市北部第十八部隊)、秦野亀代一(西條市大町常心)、有吉カメヨ(西條市大町北町)、平井ツル(西條市大町常心)、越智タメ(姫路市神田町三丁目四原田正法方)、高嶋亀太郎(香川県香川町雌雄島村女木島)、好井宣行(新揚地社宅)、大西卯雄(京都市伏見桃山町)、藤山ラク(大分県東新町四) 三十五通
〇会計
・棺及棺内入物(一、二十二円)・車借料(一式、五円)・花輪借料(一、十円)・火葬場使用料(一式、五円)・火葬場人夫心付(二人、四円)・代書(二枚、二十銭)・砂糖(一円四十銭)・菓子(一円五十銭)・醤油(一円)・(菓子(七円)・電報料(二円)・高野豆腐(二十七銭)・糀清(三円三十銭)・人参(七十銭)・キャベツ(六十三銭)・電話料(二通、六十銭)・物(四十五銭)・脱脂綿(五包、一円三十銭)・椎茸カンピョウ(五十五銭)・魚代(四円八十銭)・蓮根(八〇〇匁、八十銭)・鳥具(一円二銭)・自働車(一台、三円五十銭)・写真肖像引伸(一、十円)・写真葬儀(四枚宛<二>、十一円四十銭)・写真特増(二枚、一円五十銭)・死亡通知礼状印刷(二百三十枚、五円七十九銭)・切手(二百枚、四円)・国防献金(五十円)・新居浜西傳道所記念献金(十円)・若水教会(十円)・新居浜教会(十円)・藤田茂牧師へ謝礼(十円)・桑原重夫牧師へ謝礼(十円)・笠井惣一牧師へ謝礼(五円)
〇御香奠
・越智雅二郎(住友病院、三円)・茅一支部 四十一戸(四円十銭)・植田恭実(三円)・佐々木輝一(二円、菓子二袋)・三好峯一(二円)・石川祐忠(三円)・牧野熊右衛門(二円)・恭キシエ(三円)・渕上福次郎(二円)・関口一男(二円)・長井杉一(五円)・森本丑弥(五円)・矢原才二郎(二円)・藤山太(五円)・坂田壬子郎(五円)・河合房太郎(三円)・岡田鉄吉(敏夫、静夫十円)・石川敏夫(泉寿亭、菓子一箱、五円)・越智友義(三円)・真鍋鼎(泉寿亭、二円)・伊藤徳松(五円)・松本マキエ三円)・阪上幸(二円)・大谷優(磯浦、三円)・富岡精一(前田社宅、二円)・伊藤正(西町、五円)・真鍋時造(三円)・笠井惣一(昭和通新居浜教会、一円)・横山米造(宮、五円)・桑原悦次(宮、三円)・森実睦義(一円)・柳原ハツ子(原地、一円)・西原高之丞(二円)・米穀組合(五円)・佐伯亀吉(辻堂 周桑郡田野村、五円)・別宮善士(江口、三円)・岡松清一(久保田、三円)・伊藤為一(土橋、三円)・曽我部利夫(辻堂、三円)・真鍋亀夫(松山市大街道、五円)・篠原金太郎(二円)・高木ユキ子(原地、二円)・桑原重夫(若水教会、三円)・西傳道所(江口、十円)・金田弥之助(磯浦、二円)・平尾権之助(中萩村中村、三円)・徳永政照(原地、二円)・石井ハツ子(原地、一円五十銭)・伊藤タカ(菓子一箱)・高橋良太郎(菓子一箱)・松澤濱三郎(東京市豊島区雑司ヶ谷四九四、十円)・真鍋憲一(三十円)・藤山ラク(大分県、二円)・高橋嘉市(泉川町堺、野菜一箱 五円)・真鍋頼一(東京市牛込区袋町二十二、十円)・秋月長太郎(市内元塚、三円)・渡辺重蔵(市内久保田、ビン詰三個)・好井宣行(市内新揚地、二円)・頼安勝次(兵庫県氷上郡柏原町、二円)・大西良夫(南新田、二円)・近藤篤(角野町立川、二円)・山口貞勝(角野町山根、二円)・杉浦(角野町立川教会、二円)・安部秀夫(泉川村下泉、二円)・横山栄松(神戸市須磨区戎町一丁目一三三、十円)・野木宗雄(大阪市住吉区昭和町西一丁目二九、五円)・原田正治(姫路市神田町三丁目四番地、五円)・高嶋亀太郎(香川県香川郡女木島、二円)・大西卯雄(京都市伏見区桃山町立売、二円)・長尾桂三(二円)・坂田定雄(山形市北部第十八部隊本部、五円)・秦野亀代(西條市大町常心、三円)・森野正男(愛知県知多郡鬼崎村西之口、三円)・河端信次郎(宇摩郡松柏村下柏、二円)・平山おりか(東京市下谷区中根岸、五円)・坂田重雄(八王子市明神町二八三(五円)・小田一枝(上海哈枝路東安楽里二二号、十円)・松本晴子(東京市麹町区九段四ノ六、五円)・伊藤せい(鹿児島県熊毛郡西之表納曽、黒糖二百匁) 三十五日記念式御供 ・長井杉一(二円)・森本丑彌(三円)・岡田鉄吉(二円)
〇弔問者、会葬者
・新宮聡・牧野熊右ェ門・徳永政照・三好峯一・西原高之丞(揚地)・松本マキエ・河野アキエ(磯浦)・北村ヨシ・小西正晃・日高治・渡辺敷顕・青木須一・石川祐忠・石川呉一・森実睦義・一色金正・渡辺福好・門脇・諸岡定則・横山米造・篠原金次郎(住友機械)・岡田敏夫・高橋良太郎・大沢節一・山岡正年・伊藤タカ・秦正巳・近藤武雄(社宅、教友)・石川敏夫(泉寿亭)・平尾権之助(中萩村中村)・河合房太郎・越智友義(新揚場)・松岡喜代子(山田住友社宅)・村上久子(山田住友社宅)・阪上幸・横山秀雄(菊本町)・山本軍造(菊本町)・西原藤志(菊本町)・原田仁市(菊本町)・富岡精一(前田社宅)・高橋才二郎(磯浦)・笠井惣一(新居浜教会)・徳永雄次郎(西町村上美容院)・岡田伊勢松(宇高)・高橋貢・有田光男(第二アルミナ電気係)・片上高務(第二アルミナ電気係)・佐藤眞行(第三火力)・藤村武重(惣開)・関根壱次郎(新居浜女学校)・高橋寅太郎(惣開)・林、徳永、高橋、永易、富久、伊藤、村上、矢野、三並、柵井、藤田、岩田、真鍋文、国置、米田、岡本、松浦、岩崎ノリエ、佐薙、青野、高橋以上各先生(宮西国民学校)・新居浜米穀組合・西原高之丞・岡松清市(代表団)・秋野キク子他一名(磯浦婦人会代表)・松本長利(原地)・松村守夫(機械)・原務・橘新(キカイ研究)・塩崎(新田)・角田資道(化学舎宅)・石井ハツ子(原地)・横井岳太(原地裏)・高橋正雄(山田)・玉井久行(一組)・澤井藤四郎(磯浦)・片上廣助(磯浦)・合田喜三郎(三組)・大西良夫(新田)・川池冬一(運輸係)・岡崎三郎(社宅)・工藤雷三(原地舎宅)・村上基(一組)・山岡繁松(一組)・青木順一(三組)・石原高次(一組)・大塚節一(一組)・森松勇(一組)・高橋貞由(一組)・渕上福次郎(磯浦社宅)・井浦(一組)・加藤聡(キカイ製作工務係)・藤松屋(東町)・矢原才次郎(新田)・合田弥之助(磯浦)・川井正男(中須賀)・藤田(病院)・伊野高助(磯浦)・加藤教一(東町都屋)・藤田茂(江口)・渡辺満(昭和通)・荒川頼母(山田社宅)・長澤俊介(山田社宅)・下條秀雄(山田社宅)・植田恭実・野波豊吉(磯浦社宅)・真鍋興一(新居浜市神郷村松神子 唐植)・白旗(宮西国民学校)・久保信民(市内磯浦)・川端フサ(西條市)・森教造(西宇和郡三瓶町 書状)・真鍋与市(新居郡神郷村松神子九九七)書状)・平井ツル(西條市大町常心 書状)・宇都宮充(松山市二番町 書状)・中浜久太郎(松山市本町三丁目 書状)
〇一月二十二日夜七時半 記念祈祷会開会 遺影の前に
+聖歌 四四四
+聖書 ルカ傳二十四章一ノ十二、ヨハネ傳十四章一ノ八
+藤田牧師 威話
+聖歌 五六五
+祈祷感話 桑原牧師
「我が去るは汝らの盃なり」「我には我が子どもの誠に従ひて歩むをきくより大なるはなし」桑原氏が母に子女を如何に教育すべきかと質問したに対し、「婦は絶対に夫に従はねばならぬ、然らざれば年を老ってから家庭も建設することが出来ない」と母は答えられ由、誠に感謝に堪へず
+感話 岡松清一氏
最も感服し一生忘れることの出来ぬ事は、或る時(五、六年前)、「私の生涯に最も悲しい事でありました」と云われた時の態度の立派さ、少しも動きのない心の状態を拝して誠に打たれました
+祖母の感話
+聖歌 ①まぶねのなかに 一一二 ②なつかしくもうかぶおもひ 四九〇 ③信もて世とたゝかひて 四七四
+祈祷 高木夫人 藤田牧師
主の祈り<会衆一同> 一粒の麦地に落ちて死なずば 只、一つにあらん もし死なば多くの実を結ぶべし
+感話 高木夫人 真鍋夫人
+遺言を読む
+聖歌 三二八
+祝祷 藤田牧師
桑原牧師より遺言の書、差し障りなければ写させて頂きたい、との申入れあり、承知す
高木夫人に感想文を頂く様お話す
午後十時三十分閉会
+会衆
藤田牧師、桑原牧師、岡松清一氏、真鍋(写真)夫人、高木夫人、植田夫人、横山米造氏、松本マキエ氏、伊藤ミキ氏、森本小母さん、藤山夫妻、佐伯博子、坂田夫妻、善穂、真鍋夫妻(松山)、祖母、父、晴一、道子
投稿時刻 08時23分 備忘録・ツヤ | 個別ページ
2010年1月26日 (火)
母のなきがらの枕辺に
ツヤの次女幸子の夫の記(当時29歳)
神さま、貴方の大きな御手の業を讃えます。今朝私達は最も大切な、又とないものを御手に委ねました。私達の家族の者に取って常に光であり温かいふところであった母を御許に送ったのでございます。私達は今かつて無い悲しみに沈んでをります。
神さまの御許に召されたのではないかと考えても考えても矢張り悲しみがこみ上げて参ります。
あゝ母さま、貴女は本当に私達の柱でした。私達はどんな小さな事でも母さまに相談せずに決りませんでした。母さま、貴女が居られなかったら私達はどうして今日から毎日を送って行きませう、凡ての事の計画が、そして、實行が母のひたすらな祈りによってなされて来た家庭でした。あゝ神さま。私達は母を通して貴方の大きな御愛を知り教えられてきたので御座います。母を囲む日曜の夜、之は私達が数年来楽しんで持ったものでした。折に触れ時に応じて母の口からは摂理が語られ貴方の御愛の豊かさを教えられました。それなのにもう母さまは私達の手の届かない所にいらっしゃるのです。
「母さん」と呼んだら何時ものように「ハーイ」と返事がきこえそうです。しかし、今はそれがきかれない、私達は悲しい淋しい。
四十日余りの病床にあって、母さま貴女の思ひは深いものだったと思います。そして貴女は私に云われました「今迄の病気では、今死んではならない、どうかもう一度立上らせて下さい、と祈ったけれど今度はそう云うお祈りがちっとも出来ない、此のまゝ召されても少しも悔ひない、只御旨ならば醜い苦しみは与えないで下さい、とお祈りする」と、本当に貴女は私達が見てもそう思う程重大な事柄を次々に片付けられました。愛子、博子の結婚から昨年は懸案の道子さんの結婚までみんな無事におすませになりました。之らの事に就いて母さまはどんなに神さまにお祈りした事でせう。そしてそれが、次々に聴かれた時の母さまの喜び、感謝は如何ばかりでしたでせう。然し、その安心が母さまの肉体を弱めるものでなかったかと誰が云い得ませう。
小さな一人の孫、善穂の三回目の誕生日にみんな集った翌日十二月一日は母さまの発病日でした。
病床に居られても母さまは御自らの健康をよそに、ひたすら最後のクリスマス、母の意志によって持つ事を得た礼拝は実に私達家族の母と最後のものでした。その時、私達は母の口から直接遺言をききました。
献げる心、奉仕する心を忘れては行けないと繰返し繰返し云われた時の母が忘れられません。あゝ神さま、母の願ひであった苦痛なき死、之は実は誠にお気の毒な程でした。十二時間余りも苦しみ通した母、而も耐えに耐えた母、苦しみ抜いて召されました。之が御旨であるならば甘んじて受けませう。母はあの苦しみの最中にも早く此の苦しみ逃れたいと云う願ひがあったでせうが少しも神さまをお恨みしませんでした。御旨のまゝ杯を受ける覚悟出来ておられたものと思います。
あゝ神さま私達は淋しい。たとひ、身体が動かなくともお部屋に居って下さるならと思います。
然し神さま、母さまは今は傍らに在っしゃるのです。母さまの地上の生涯は苦しいものであったでせう。母は何時か私に「私の今までの生涯は忍耐の生涯だった」ときかせてくれた事がありました。
忍耐の生涯!アーコールの谷、涙の谷にさまよい歩いた幾度かゞあった事でせう。
然し神さま、今それらの苦しみは凡て貴女の御許に昇る事によって無くなったのです。私達は愛する母さまを貴女の御許に送ったのですから嘆き悲しんでゐる必要はないのです。今も母さまは天の御座の傍らから私達を見下して「愛する子らよ、悲しむでない」と云われるかも知れません、母さまは「又みんな一緒に集ろう」と云われている。神さまどうか私達一人ひとり慰めて下さい。残る生涯、家族一同仲よく母さまを思い乍ら送らしめ、終りの日みんな御許に集めて下さいませ、凡ての事は貴方のなされる業でございます。
私達の弱さをみんな知ってゐて下さる神さま、どうか力付けけて下さい。母の来るしんでゐる枕辺に在っても何一つして上げられなかった時、私は本当に貴方の貴さに打たれました。
どうか神さま、残る家族一同の上に、御愛と祝福を給わんことを、救主、イエスキリストの御名の故に願い奉る。
母さま待ってゐて下さいー。 アーメン
十四日午前二時 壬子郎
投稿時刻 17時20分 備忘録・ツヤ | 個別ページ
2010年1月15日 (金)
係累・ツヤ
1943年(昭和18年)、ツヤ没時の係累
・長女 道子 新居浜市惣開原地 松澤晴一の妻
・二女 幸子 新居浜市菊本町住友社宅 坂田壬子郎の妻
・三女 愛子 新居浜市前田町住友社宅 藤山太の妻
・四女 博子 東京市 佐伯勝次郎の妻
・ツヤの父の出郷 宇摩郡関川村上野(北好井) 好井廣見
・ツヤの母の出郷 新居浜市惣開原地 伊藤徳松
・兄・憲一(長男) 松山市大街道二丁目 真鍋憲一
・兄・章輔(二男) 陸軍軸重兵(しちょうへい)軍曹退役後、中国青山市民政署勤務中病気に て帰郷中新居浜市原地の父母の元で没す
・兄・頼一(三男) 東京市牛込区袋町三丁目 日本キリスト連盟全国主管長
・真鍋家の元家は宇摩郡関川村上野字木の川 真鍋興一、新居郡神郷村松神子(唐桶)は真鍋興一の二男の住居で、二男は中国の大連にて成功し、上記家を買い真鍋興一を住まわす
・父の親族は宇摩郡関川村上野 好井一族(但し、南好井 旧庄屋)
・泉川の長尾桂三の一家も上記の出
・ツヤの母の弟の家は伊藤徳松方
・ツヤの母の妹の家は西条市大町常心 秦野亀代一方
・ツヤの母の弟の家は新居郡中萩土橋 伊藤為一方
・ツヤの妹の家は北条 村上 現在新居浜市西町 村上 松本マキエ方
・東京 松本晴子は伊藤徳松の姉
記)真鍋憲一(ツヤの兄)のメモより
投稿時刻 09時51分 備忘録・ツヤ | 個別ページ
2010年1月13日 (水)
遺書・ツヤ

遺書
私が今死ぬ事は余り有難過ぎて勿体ない事だ。何故なら多くの人々から愛されただけで何一つお報いが出来てゐないから。
私の只一つ心残りな事は老母と夫を送り憲兄様お二人を慰めて上げない願いだ。然し、弱い体で永々生きて多くの人の重荷になってはすまない事だ。お許しがあって今召されたら、私自身これほど有難い事はない。
父ちゃん三十有余年の永い年月弱い私をいたわって、大事にして、私の為に、あの置位も捨て、内地に帰ってからは、つらい色々な事件を私と共に堪えて忍んで下さった。いつでもひそかに私はないて感謝をしていました。終始、私の為にはよき夫であり教師であり、子らの為にはこの上もないよいお父様ー、有難うございました。永々御厄介をおかけいたしました。神様の祝福が豊に沢山々々お報い下さいます様に、私の居ります処へどうぞお越しを下さいます様に、又逢ふ日迄さよなら。
母上様弱い子は一番の親不孝者何一つ母上をよろこばせるような事もせずお先にまいります、重ね々々の親不孝をどうぞお許し下さいませ。お体を大事にして私が逝ってしまったら、どうぞ松山へお越しになって安楽な日を過ごして下さい。色々と御心配と御厄介になりました、有難うございました。
憲兄さん姉さんー、私の為には小さい時からやさしい良い兄さん、友達の誰もが持っていない時、私に時計を買って下さった、あなた方お二人のお陰で私の娘達は皆幸福に嫁いで行きました。何一つ恩返しも致しませずお先へ参ります、どうぞお体をお大事に淋しくなった母上の事よろしくお願い致します。兄さんのぜんそく、姉さんの痔、私の体に乗りうつれ。さよなら。
晴一様、あなたは何と言うやさしい息子勿体ない程私を大事にして下さった、わたしはどんなに心でよろこんでゐたか。あなたは誰にでも親切だからうれしい、どうぞお父様達を大事にして下さい、孝行すれば神様の祝福がえられますから、そして松山の叔父さん達をも大事にして下さい。お願いです聖書を良く読んで下さい、あれは人生航路の燈ですから、アブラハムのような人になって下さい。
道子何といってもあなたの責任は大きい、あなたの心持ち一つで、全軍(父、夫、祖母、松山、姉妹達の各家庭其の他凡ての関係者)を左右する、もっと祈れ-、一層聖書を読め、晴一様と協力して頂いて、一門の指導者となれ、二人で修養せよ。良き人格を造れ、全軍の母となれ、自己に死に切れ、必ず忍耐を用いよ、家庭を清めよ、全軍に社会に奉仕せよ。祈り深くあれ、神の助けがあれば世に不可能は絶対にあり得ない。晴一様と道子へ詩篇一編を贈る。
坂田壬子郎様、公人としてのあなたにはいま少しの愛をかえれば申し分ないでせう、どうぞ健康に注意して、聖書的に円熟した人格者になって下さい。幸子あなたは大分母らしい落ち付きが出来たのでうれしい、いよいよ良き妻であり賢い母となれ、兄弟いつ迄も仲よくせよ、一人でもわがまゝ者がゐては全軍の乱となる、一人ひとりがゆずり合う心、姉さんをいたわる心がなければだめだ。二人にコリント前編十三章を贈る。
太様、あなたのやさしい性と純な愛がうれしい、夜晝全能の神が祝ってゐらっしゃる事を考えて願わくばモーゼの様な人物になって下さい。愛子あなたはもっと信仰を生活せねばなりません、あなたは素質が良いのだから努力すれば良い人になれると思います。一寸の事にめそめそなく様な子は私の娘にないはずだ、惠になれると言う事は誰の場合でも恥かしい事だ、吾々の最後の最後の目的が何であるかを常に思へ。詩篇二十三篇を贈る。
勝次郎様、黙々として努力の人、どうぞ聖書を良く読んで人生の本流に生きて下さい。博子、人生に困難がなかったら暴風のない海水の様に人間が腐るのですよよく注目して心の腐った人間を見てごらん、わがまゝをしつくした果てと言うのが多い、いつでも言っているように人生行路は平坦でない、神に祈っていつでも助けて頂きながら人生の荒波と戦って行け、神様から頂いて得る色々な良性を活用せよ。詩篇八十四篇を贈る。
アー、凡ての私の愛する子等よ、あなた達は受くるより与ふるは幸いなりと教育されて来た。今皆其の実行者たるか良く自問自答せよ。受け身、受ける事のみ要求する人。人間で是ほどなさけない者はない、にもかかわらず案外多いのに驚く。受け身な人、精神的には人の好意、同情、愛、理解、数え上げれば限りがない。物質的にも近頃は法外に多い。よく瞑目して考えて下さい。受け身の人の心淋しいね、心がゆがんで、いつも不平と不満がつきまとう、そんな子供は私の子供の中にゐないかしら、各々自ら厳密にかえりみよ。献げる心、与える心は美しいね、そういう心はいつでもよろこびと感謝に満たされている、愛する子らよ独りでも受け身になるな絶対。然し神より惠みに依りて与えられるものを感謝して受けよ。献げる心、与える心。一人残らず実行者たれ。
高慢、身ぶるいする程いやな言葉だ、あなた達も高慢な多くの人に接して、まあ其の鼻先を一寸ちょんぎってやりたい気持ちさえするでせう。自分は高慢じゃないと思っていてもひょっとそうなっている場合がある。人間は何かしら誇りを持ち易い、其のすきまから高ぶりが這入り込むものだ。立派な修養家、事業家、宗教家でさへしくじった多くの人がある。気を付けないと知らず知らずの内に高慢になりますよ。それから絶対に実行してはならない事は、わがままと、いじわる。
それはちょいちょいやっていますと思ふ人はないか、凡そ社会生活でも家庭の共同生活でも、ひとりでも是を実行されたらたまらない。自らが不快なだけで進めば良いがなかなかそうは行かない。わがまゝといじわる、絶対に厳禁だ、私の最後の願いだ。神は吾が心をさぐり己へと聖書は祈った。愛する子らよ其の言葉が常に汝の祈りであれ、正しい時計は毎日ラジオに合わされる、正しく生きる為には毎日聖書に合わして行かねばならない。汝父母を敬えとは千古を貫く神の命令だ。父母を敬う事の出来ない様な者は全く人間としての資格がない。娘達よあなたの父は、其の一生を只黙々とあなた達の為に労苦した。思へ、汝ら父に何を報いたか?其の恩愛の深さを知れ、知って心におののけ。金銭物質を以って報いよと絶対に言わぬ、やさしいやさしい父を思う心さえあるならばなすべき事は自らわかる。各自の家庭の父母に対する同様なる事は申すまでもない。但し、各主人の父母に対して金、物を用いる事甚だ可なり。
全軍喜べ、私は今、只隣に依りて救主イエスキリストの貴き御血の故に、永遠変りなき神の都に旅立つのだ。祝せ其の門出、祝い喜べ、一人残らず同じ処に集合しようね。又逢う日まで神様に同居して頂く事を祈り続けつ、死に至る迄忠実な信仰の道をはげめ-。
善穂ちゃん、益々神と人に愛される良い子に立派に成長しなさいよ、さよなら。
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真鍋、渕上、高木、頼安、平尾、野木、植田、越智、渡辺、近藤、小田、岡田、伊藤、渚、高嶋、其の他凡ての同信の諸兄弟よ有難う有難うお世話になったばかりで何のお報いもする事もなく、すみません。村井、藤田、桑原、岡部先生其の他諸先生方有難うございました。どうぞお大事に。
加藤一正、私が死んだら困るだろう、出来れば私の最後の贈り物として慰問袋をやってほしい。くつ屋の小母様長永々御親切に有難うお体を大事にお幸せに暮らしてください。ご近所の皆様有難う。坂上様度々美しいお気持ちを有難う、あなたもどうぞ本当の信仰を握って幸せな人生を送ってください。河合様の姉妹方どうぞ神様を携えて下さい。松本まきゑ様人生はは永いようで案外短いどうぞ自分の道を知ってください。みきさんどうぞ救われて下さい、あなたが救われたらあなたの家族全部が救われる。救とは全く自己に死に切る事です。
記1)読み易いように現代仮名使い等、最小限の修正を加えた
記2)ツヤの遺書は便箋紙(和紙、約15cm×21cm)にペン書き
記3)松澤ツヤ1943年(昭和18年)1月13日10時5分召天
投稿時刻 11時04分 備忘録・ツヤ | 個別ページ
2010年1月 8日 (金)
略歴・ツヤ
松澤ツヤの父は宇摩郡関川村上野(北好井)好井勝治の三男幸之助なり、
幸之助は宇摩郡関川村上野字木の川真鍋武兵衛の長女ツネの養子となる、間もなくしてツネ没す。
母は新居郡神戸村釜の口、士族伊藤普三の長女モトヨなり。
幸之助・モトヨ夫婦は宇摩郡関川村上野木の川にて長男憲一、次男章輔を出生後家事の都合によるも、真鍋の本家を武兵衛の長男興市に渡し置き母モトヨの出郷、伊藤晋三の経営する水車、新居郡大生院村字津越という所(釜の口の川向い)に居住すも水車は四国第一の広大なる物にて一度に玄米13俵を精米と成し得る。其の後、アンチモニを採掘せし市之川鉱山の盛りなるき故に、白米を用達しぬ普三の家は酒造なる為使用米等を萬拾ヶ年間も業を成す内、明治二十年五月七日三男頼一出生、明治二十二年十一月二十五日ツヤ出生せり、其の後大阪新聞に連続小説おつやと言う賢婦の記事を見て父はツヤと名付けたり、一人娘の事とて常に抱き上げ非常に愛育せり。
父は我が子に使いなど申し付けても大義であろうがとか、又御苦労だが行ってたもれと申して居た事を思い返して見ても、如何に我が子又他人に対しても其の温情なりしを察せられる。
其の後、西條氏大町常心に居住し雑貨具店を開店し福武水車、宵の原水車も経営し、又材木炭山下駄製造等種々の商売を営む。

其の後ツヤは大町尋常小学校を卒業するや、京都キリスト文子校(※1)に入学し、七年の後に卒業して帰宅。其の前、父の精米する白米を新居浜に舟にて送り、其の白米を憲一が売却なす内、宵の原水車は六十年来に無き大暴風の為別子銅山其の他と共に流失したり、又居住せる南側下駄職、材木炭其の他の倉庫の物は火災に掛り商売も振るわざるも新居浜に得意先の地盤が出来居る為父母は新居浜へ来り白米の商いを成す事に成りたるも憲一が急に松山に商の話が出来たる為憲一は松山に居住し、其の後に父母が引き続きたり、時明治41年11月初旬。
明治42年ツヤは松山市大街道二丁目楽器店を営業せる兄憲一の元に来たり居る内、世話する者ありて松山市永木町士族松澤義貞の内へ嫁したり、当時松澤義貞は朝鮮の警察署長勤務中なる故に松山市高浜出舟にてツヤ母モトヨに連れられ明治四十三年十月末朝鮮釜山に行き義貞にツヤを渡したり。其の後、松澤は処々に転任し居住中ツヤは婦人会長となり又一般へ宗教の道を教えたり。
朝鮮在中長男出生せるも初年にて没す。長女道子、二女幸子、三女愛子、四女博子を出生し四人の子を引き連れ大正十年七月末新居浜の原地ツヤ両親の元に帰り、別居して家事の一切を切り廻し宗教にも熱心に人を導き広めたり。然し、朝鮮在住以来種々人間一生の山谷を越え、尚四人の子の為に持し心労せしも昭和十七年末に全部片付き親の任務たる重大な重荷をおろし少し安心せしか、十七年十二月初旬より病気となり昭和十八年一月十三日午前十時五分に五十五才を以って病死せるも其の以前より多くの人の愛情を受け惜しまれつつ永眠せり実に惜しむべき人であった。子等よも母親の行い来りし一生を思い出して他人にも家庭にも実行せよ。
昭和十八年二月十六日 真鍋憲一之を記す
記1)憲一メモによると上記ツヤ及び頼一の出生日は届出日とあり、正確にはツヤ:明治22年8月20日、頼一:明治20年1月9日とある
(※1)京都正教女学校の卒業証書:真鍋艶、明治21年11月生まれ、明治41年4月17日、第15号とある
投稿時刻 18時14分 備忘録・ツヤ | 個別ページ