世界散歩(過去ログ)


 過去のブログに掲載した世界旅日記から次の六つを再掲します。

 コンパクトデジタルカメラが一般に普及し始めた頃で、「絵日記」風なブログに仕上げることが出来ました。 

1.オランダ・ベルギー
2.大連
3.世界一周(地球一周船旅【後日録】1/4)
4.世界一周(地球一周船旅【後日録】2/4)
5.世界一周(地球一周船旅【後日録】3/4)
6.世界一周(地球一周船旅【後日録】4/4)

1.オランダ・ベルギー

2006年4月10日 (月)
旅人の墓場・アムステルダム
 4/5,6日、アムステルダム泊:
 抜けるような青空が、一転雲に覆われ突然降ってくる雨、それも長くは続かない、ふたたび覗かせた陽を浴びてどっと街へ繰り出す人々、オープンカフェで膝付き合わせる同胞、異邦のおしゃべり、ヨーロッパの休日はこの時期開放感に満ち溢れている。

 旅の終りをアムステルダムで迎えた。
 夏時間が10日前に始まったアムステルダムは午後9時を過ぎてもまだ明るい。
 中世ヨーロッパを代表する都市として、早くから権力の介入を廃し、自律した都市として多くの人々を受け入れてきた町、日本で言えば戦国時代の堺のような自由都市であったのだろう。

 ナチの迫害を逃れて屋根裏にひそんだアンネ・フランクと家族やその同胞に対して、身を挺して彼らを護った崇高な精神がこの街と人にある。「アンネの日記」を書き続けた棲家がこの街の一角に息づいている。

 水上に暮らす  
 アムステル川に築かれたダム(堤防)の町、アムステルダムは165本の運河が縦横に町を走っている。
 運河には多くのハウスボートが係留されている。水上での生活は静かで振動もなく快適らしい。
 ここで暮らすのは少しだけ豊かでなければならないようだ。市に係留料を支払い、ガス、上下水道、電気を引き込んで水上の楽園を営んでいる。

 跳ね橋のある風景


 「浪速の八百八橋」と謳われた大阪は橋の多い水の都であるが、ここには1300もの橋がある。
 橋のたもとに立つと運河のざわめきが聴こえてくる。遠くに跳ね橋が雲間に漂い私を呼んでいる。
 船が通行すると跳ね橋が開き車や人は船の通過をじっと待つ。スローな時間を楽しむ人々がいる。


 アムステルダム中央駅
 JR東京駅とアムステルダム中央駅が姉妹駅になるという報道が先月あった。
 一時期、東京駅のモデルになったとされていたらしいが、レンガ造りの横に長い駅舎は似ているといえば似ている。
 この駅からヨーロッパ各地へ人々は旅立ち、この駅に人々は降り立つ。

 飾り窓にマリファナに・・・
 Coffee_shop コーヒーショップの奥にマリファナを吸引できる一角がある。吸っても良いという法律があるとは考えにくいが、違法ではないのだろう。他にも「飾り窓の女」で有名な公娼街も現存する。カジノもあれば同性愛者の結婚も認めている。安楽死も・・・。

 底のない闇を招かないガス抜きか、権力によって人心を規制しない大人の社会か、この社会はことのほか懐が深い。

 誰が言ったか言わなかったか、「旅人の墓場」アムステルダムの夜はまだ暮れない。

投稿者 愉悠舎 日時 2006年4月10日 (月) 世界散歩 | 個別ページ

めくるめくグラン・プラス

絢爛たる劇場
 ブリュッセルの中心部にある広場グラン・プラスは縦110m、横70mの長方形で、周りを市庁舎、王の家、ブラバン公爵の館が配置され、それらの間をギルドハウス(同業者組合会館)で埋め尽くされている。
 15世紀から17世紀にかけて造られ、1998年に世界遺産に登録された。
 ビクトルユーゴはギルドハウスで一時期を過ごし、「世界で最も美しい広場」と褒め称えた。また、作家ジャン・コクトーは「絢爛たる劇場」と賞賛した。
 まさに「絢爛豪華」ただ息をのむばかりである。

小便小僧
 広場から5分ほど歩くと、世界の人気者小便小僧のブロンズ像がある。身長56cmの「ジュリアン君」は1619年に製作されたが、14世紀にはこの場所に石像があり人々に飲料水を与えていたとのこと、600年もの永い間人々に勇気と希望を与えてきたことになる。 この人気者は世の転変とともに、そのいわれを変えてきた。
 盗難に何度も遭っているなど、けっして平坦でなかった「ジュリアン君」の人(像)生が人々の共感を得るのだろう。

2006.04.01訪
投稿者 愉悠舎 日時 2006年4月11日 (火) 世界散歩 | 個別ページ


花の都・ゲント

  ゲントはベルギーの東フランダース州の州都でブリュッセルの北西55km にある。「青い鳥」の作者メーテルリンクの生誕地でもある。
 静かで落ち着いた街なみが印象的である。時おり落ちてくる雨が石畳を濡らし、踏みしめる靴底にやわらかい鼓動を伝える。
 ここは「花の都」と呼ばれ、5年ごとに国際フラワーショーが開かれる。

 バーフ広場に立つと左の三つの建物を望むことができる。
 上より華麗な王立劇場。
 中は聖バーフ聖堂で12世紀ごろ建設が始まり、4世紀を費やして完成した。塔の高さは88mあり昇ることができる。
 下はギルド繁栄のシンボルとして13世紀から14世紀のかけて造られた鐘楼である。
 日曜日の朝、ミサに向かう人々の列が教会へ向かう。静かなゲントである。

 下の大きな写真は中世の美しい町並み、その上はコーレンマルクト広場にある聖ニコラス教会、上から三つ目の写真は金曜日広場で14世紀の毛織物商人の像がある。
 その下の城はフランドル伯居城で1180年に再建された。
 レイエ川に架かる聖ミカエル橋とその周辺はゲントの旧くて美しい景色を堪能できる場所である。
 最下部は精肉市場とその内部である。この市場は1407年から3年かけて造られた。天井からぶら下がってい豚を自然乾燥し食する。


2006.04.02訪
投稿者 愉悠舎 日時 2006年4月12日 (水) 世界散歩 | 個別ページ

ムーズ川の城砦・ディナン

 ムーズ川はフランスに源を発し、このディナンを通りオランダのロッテルダムでライン川と合流し北海に注ぐ、ベルギーではこの川をミューズ川と呼ぶ。
 ディナンは山あいの小さな町である。
 11世紀にミューズ川流域を監視するために設けられた丘の上のシタデル(城砦)と、その下に建つタマネギ型をした塔を持つノートルダム教会や、川の両岸にたたずむ家々が、ミューズの流れに溶け合いヨーロッパ独特の美しい風景をかもし出している。
 シタデルは18世紀のはじめフランス軍により破壊され、19世紀にオランダ軍によって再建された。また、第一次世界大戦にはここで戦いが行われた。

 ここはサクソフォンを発明したアドルフ・サックスの生まれた町でもある。通り上空の装飾イルミネーションが気になったので、何気なくカメラを向けたが、サクソフォンの作者がこの町の出身であることを帰国して知った。

2006.04.01訪
投稿者 愉悠舎 日時 2006年4月13日 (木) 世界散歩 | 個別ページ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


天井のない美術館・ブルージュ
 15世紀末に運河が泥に埋まり、街の繁栄が止まったため、中世のまゝの姿が残り、天井のない美術館と呼ばれるブルージュの町なみは2000年、世界遺産に登録された。

メルヘンの世界

 運河に沿って延びる中世の街並みの中を、遊覧船がゆっくりと進む。
 500年もの永い間、ときが止まったかに見える風景の中に身を置くと、おとぎ話の世界にいるような錯覚に捉われる。
 遊覧船に乗り流れの中から道行く人に手を振ると、橋の上から身を乗り出して応えてくれる人々の笑顔がピュアーだ。

 

 

 

 

 

 

 

 


切妻の家なみが美しいマルクト広場

 ヨーロッパの都市は新旧の混在を認めていない。旧い街は古い街として残すのを文化としているのだろう。ヨーロッパの合理性と対極的なこの文化を私は不思議でならない。ここマルクト広場も中世ヨーロッパそのものが引っ越してきたようなところである。


 

 

 

 

 

 

 

 

ベギン会修道院

 ベギン会修道院は1998年世界遺産に登録された。ブルージュにはもうひとつ1999年に世界遺産となった鐘楼がある。
 木立のなかに佇む美しい建物としてベギン会修道院は人々の熱い視線を浴びている。敷地内には博物館があり、往時の修道女たちの生活を偲ぶことができる。

 

 



ブルージュの地場産業レース(刺繍)の実作

 休みなく動かす手先とは裏腹に形が膨らんでいかない、こうして造られる工芸品はときを経て輝く。

 

 

 

 

 

アコーディオンを弾く少年

 路上に施されたユーロ硬貨で少年の家族は今宵をしのぐのか?、もうひとつのヨーロッパがある。

 

 

 


2006.04.02訪
投稿者 愉悠舎 日時 2006年4月14日 (金) 世界散歩 | 個別ページ

絆・アントワープ

 
  アントワープは世界に誇る港を有し、またダイヤモンドの街、ファッションの街としても知られてている。
 ここは私たち日本人が愛した「フランダースの犬」の舞台でもあり、ネロ少年がひと目見たいと願った絵の作者、ルーベンスが生きた地でもある。


ノートルダム大聖堂

 フランドル地方で最も大きな教会で、塔の高さが123mあり完成まで169年かかっている。大聖堂の鐘楼は世界遺産に登録されている。
 聖堂にはルーベンスの絵が飾られており、その中に「キリスト降架」がある。この絵の前で「フランダースの犬」のネロ少年とパトラッシュが昇天する。絵を見ながら「フランダースの犬」を想い涙する日本人も多いらしい。
 ネロ少年の時代、19世紀末にはルーベンスの、この絵ともうひとつの「キリスト昇架」にはカーテンがかけられ、見学料を払うと開くようになっていた。
 大聖堂前にはルーベンスの像がある。


神戸へ


 ノートルダム大聖堂内に次のような一角がある。
「1995年1月17日に起こった阪神大震災の被害者を追悼するとともに、アントワープ市と神戸市の友好と連帯、そして希望の印として、1998年8月15日この14世紀に作られた美しい聖母像の複製が神戸市六甲のカトリック教会に寄贈されました。」
そして、神戸に送られたレプリカの写真とその横に次の文言が刻まれた銅板の写真がある。


「聖母子像
From the citizens of Antwerp
in memory of the victims of the Kobe earthquake
January 17,1995
阪神・淡路大震災の犠牲者をしのんで
1995年1月17日

ベルギー国アントワープ市民より」

2006.04.03訪
投稿者 愉悠舎 日時 2006年4月15日 (土) 世界散歩 | 個別ページ

風車のある風景・キンデルダイク

 バスに揺られてベルギーとオランダの国境を通過する。日本の県境を通過するように何ごともない国境の警察事務所に人の気配がするので何らかの国境業務を行っているのだろう。
誰もが世界の国々を自由に行き来できる日のくることを願っている。

 平坦な道を縫って世界遺産に登録されている風車のある町、キンデルダイクにやってきた。オランダの原風景、風車の群れに出会うとなぜか心ときめく・・・。

 風車は粉引き用に使われだしたが、オランダはオランダ人が作った、と言われるように干拓によって国土を広げていったための汲水用として、また国土の少なくない部分が海面下にあるため排水用として風車が使われた。
 排水用に関して少し説明すると、次のようなことであろう。日本のように海面より高い位置に土地がある場合、地上を潤した雨などの水分は地下に浸透するか、樹木が吸収するほかに、地上を伝って海に流れ出る。オランダの場合、海面より低い部分では行き場を失い洪水になってしまう。そこで水を強制的に堤防の外へ送り出さなければならない。風車を動力源とした排水ポンプの出番となる。風車の回転力を歯車によって方向を変え、風車小屋を垂直に貫いている回転軸に力を伝え、その先端部(下部)にポンプを取り付けて水を2mほどの高さに送り出すのである。
 その風車も産業革命によって、蒸気機関にその場を追われはじめ、現在900基ほどに減ってしまっている。
 キンデルダイクには19基が残っている。
2006.04.03訪
投稿者 愉悠舎 日時 2006年4月17日 (月) 世界散歩 | 個別ページ

 

 

 

 


モダーヴ城からデュルビュイへ
モダーヴ城
 ブリュッセルから100km、アルデンヌ地方を代表する城のひとつで、豪華なフランス風の古城である。この城は断崖にそそり立っているらしいが最後までそれらしき風景を垣間見ることができなかった。むしろ、林に囲まれた平坦地に優雅な姿を見せているとしか思えなかった。また、内装、家具及び調度品の量と質の素晴らしさには目を見張るものがある。


デュルビュイ
 デュルビュイはウルト川沿いの人口500人の町。ここは「世界一小さい町」らしい。というのは、行政が整っている自治体として世界一小さい規模なのである。
 この山あいの町は、石造りの家が石畳の小道に箱庭のような景観を魅せている。


2006.04.01訪
投稿者 愉悠舎 日時 2006年4月17日 (月) 世界散歩 | 個別ページ

世界に平和を・ハーグの街から


平和宮(国際司法裁判所、写真上)
 1889年、オランダのハーグで26ヵ国が参加し第1回世界平和会議が開かれた。戦争をなくして行こうとする運動の一歩がハーグにしるされた。第2回(1907年)もハーグで開催され、この地に常設仲裁裁判所の設置が決議された。その後、国際連盟により、1921年に常設国際司法裁判所が創設され、現在国際連合の管轄のもと、国際司法裁判所として活動している。近年当裁判所の力が低下しているが、それでもここは世界平和の原点である。

ビネンホフ(「騎士の館」、写真中の上
 オランダの首都はアムステルダムであるが、ハーグは王宮、中央官庁や各国の大使館などがあり、事実上の首都である。その中心がビネンホフで1585年連邦議会が設置されて以来政治の中心になった。ビネンホフの一角にあり、現在国会議事堂になっている「騎士の館」は1280年に建てられたものである。

 

 

ハーグの街並み(写真中の下、下
 夕暮れの街をそぞろ歩いた。美しい街並みが緑の中に映える町である。
 「王城の地」の風格と気品を備え持った誇り高い町である。
 吹く風が心地よい町である。

 

 

 

2006.04.03訪
投稿者 愉悠舎 日時 2006年4月18日 (火) 世界散歩 | 個別ページ



花から花へ・キューケンホフ公園

 咲き誇るのはまだ先のようだ。
 それでもちらほらと蕾から開花へと向かう花たちを訪ねて公園を散策した。32万㎡の敷地にはチューリップを中心に様ざまな種類の花が植えられている。日本のように花壇を作って地面より一段高いところに花を植えるスタイルではなく、地植えを基本に花園を形成している。加えて起伏を避け平坦部を多く作っている。そのため、視界に収まる花たちの範囲が広く、また幾何学的模様を多用しているので、二次元的美とでもいうべき趣がある。
 ここキューケンホフ公園は3月23日〜5月19日の期間だけ開いている。
2006.04.04訪
投稿者 愉悠舎 日時 2006年4月19日 (水) 世界散歩 | 個別ページ

 

 

 


ザーンセ・スカンスとフォーレンダム

のどかな暮し・ザーンセ・スカンス
 緑と白の家並みが河面に写り、春の陽を浴びて揺れている。河べりに並んだ風車が風を受けてそこに立っている。運河巡りに出航しようとするクルーズ船が船止まりを離れた。のどかな風景の展開する町である。
 ここにはのどかな暮しに明け暮れる人たちの作業場も多くある。木靴工房にチーズ工房、それからマスタードを作る風車や染料作りの風車などがある。また時計博物館、この地方の歴史を扱ったザーンス博物館もある。
 このうち、木靴工房とチーズ工房を見学し、それぞれの製作風景を見せてもらった。
 オランダ的な昔ながらの風物と暮しを集めて整備した一帯らしいが、民家や工房が自然の中になじんで、童話の国に迷い込んだような気分になる。
 我々の持つオランダのイメージの多くを体験するには手っ取り早いエリアである。

 

 

 

漁村の面影残すフォーレンダム
 アムステルダムから20kmと近い。
 土手の上にレンガ造りの家が並び土手の下にも民家がある。反対側はアイゼル湖で、地図を見ると北海に面する入江の先を長さ30kmの堤防で結んでいる。海水を遮断した湖はその後淡水化されている。
 締切大堤防で囲まれた奥の一角にフォーレンダムがある。以前、ここは漁師町として賑わったそうだが、今もその面影を残している。
 フォーレンダムは町の名前にダムがつくようにまず堤防を造り、その内側に町を築いていったのだろう。
 観光地化されてしまった町であるが、街並みを抜けるとオランダの古き時代のミナト町に出会うことができる。


2006.04.05訪
投稿者 愉悠舎 日時 2006年4月20日 (木) 世界散歩 | 個別ページ

デルフトの眺望・マウリッツハイス美術館


 ハーグ中央駅近くにこぢんまりとしたマウリッツハイス美術館がある。もと貴族の邸宅を美術館として使っている。
 ここにはフェルメールやレンブラントの絵が展示されている。
 寡作だったフェルメールの代表作「デルフトの眺望(1660-1661年頃)」と「真珠の耳飾りの少女(1665-1666年頃)」を観た。
 旅行中いくつかの美術館に接する機会に恵まれたが、どこも撮影時フラッシュの使用を禁じられ、安もののカメラと稚拙な腕が災いして、まともに写った写真はなかったが、「デルフトの眺望」だけは何とか観るに耐える写真が撮れた。

 この油絵(96.5cm×115.7cm)の前に立ったときある種の感動が全身を襲った。これは絵なのか!と、現実を超えたリアリティに人の心をえぐる芸術のむごさを想った。
 鮮やかな色づかい、無限の奥行きを思わせる基点に二人の人物を配したバランスの妙、低くたれこめた雲の外に広がる抜けるような空、額縁からこぼれ出る光・・・。
 いや、そうではない、その時代と今の時代に挑みかかってくる迫力に圧倒されるのだ。


2006.04.03訪
投稿者 愉悠舎 日時 2006年4月21日 (金) 世界散歩 | 個別ページ

カフェテラス文化


 ヨーロッパは至るところにオープンカフェがある。
 写真はベルギーにある小さい小さい村デュルビュイのカフェテラスである。ここはリゾート地としてヨーロッパ各地から多くの人々が訪れ、これらの椅子に腰をかけ、談笑にふける村である。
 ヨーロッパにおけるオープンカフェの歴史は100年ほどで、その間コミュニケーションの場として人々の生活を見守ってきた。

 ヨーロッパを歩いて、時には歩く邪魔になったカフェテラスであるが、そのなかで私の目を引いたのは一人ここに来て、一見無目的に通りを眺めているように見える人の多いことである。道行く人と風景の中に身をおいて、それぞれの想いに浸っている人々の多いヨーロッパは、日本よりも「個」を大事にしているともいえる。
 公共の場である歩道に設けられたカフェテラスの一角で、ひとり珈琲の「かほり」に包まれて、漫然と通りを眺める、これはれっきとした文化であり、この文化は素晴らしい。


投稿者 愉悠舎 日時 2006年4月22日 (土) 世界散歩 | 個別ページ


 

 

 

 


旅の終りに
 今月の初旬にベルギー・オランダを旅した印象を、メモとして簡単に書き綴ってきたが、今回をもって一応ピリオドを打つ。
 書き足りないアイテムも多々あるが、いつの日かメモの端々から記憶の紐をたどることも可能であろう。
 もう少し書き留めておきたいアイテム数点を記して旅の終りとしょう。

 北海に面した二つの国を訪ね歩いたが、そこで暮らす人々の生活にもう少し関わることができたならばと、かなわぬ思いは残るものの、二つの国がこしてきた栄光と挫折を垣間見て、この国に一歩近づいたと思うのは極東の島国に生きる狭小な心ねのせいだろうか。
 九州本島より少し大きいオランダと九州本島より少し小さいベルギー、特にオランダの国土は四分の一ほどが海面下にある。内容は異なるが日本と同じように水禍に悩まされてきた国である。地球の温暖化で海面の上昇も懸念される現在、将来に対してどのような叡智を発揮をするのか、地球環境の護り手としての役割をこの国の人々に期待する。

ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ
 ヴァン・ゴッホ国立美術館はアムステルダムの国立博物館の近くにあった。
 その日も多くの人で館内はごった返していた。世界中からゴッホの残した作品を観にやってくる。そして、ゴッホの生きた時代と恵まれなかったゴッホの短い生涯に、自らの想いを重ね共感のひと時をすごす。
 いつの日であったろうか、私は神戸で滝沢修の演じる「炎の人」を観た。劇中、宇野重吉の語りがバックに聴こえてくる「私は恨む、ゴッホの絵を一枚も買おうとしなかったパリの人を恨む」、スピーカを通して胸に響く低い声が場内のしじまを突いたのを思い起こした。

 

 

 

 


ベルギーの郷土料理・ワーテルズーイ
 ベルギー料理はフランスの影響を受け変化に富んだ食文化が育まれてきたらしい。
 ワーテルズーイはベルギーを代表する郷土料理で、鶏肉をクリームソースで煮込んだスープに似たシチューである。旅の最初の昼、デュルビュイに向かう田舎で、プチホテルを経営する夫妻の手による料理をいただいた。
 まろやかな舌触りと鶏肉にしみ込んだソースの味が忘れられない。


 

 

 

 


薪ストーブ
 アムステルダムで食事をした店に薪ストーブ。ゆらめく炎から伝わってくる温みに心が暖まる。
 アムステルダムやブリュッセルに残る古い街並みに建つ家々の屋上には、必ず煙突が備え付けられている。今ではセントラルヒーティングにとって代わり、ほとんど使われなくなった煙突であるが、かつてこのようなストーブや暖炉が、ヨーロッパの冬の主役を演じていたのであろう。

 


帰路
 アムステルダム・スキポール空港からヘルシンキ・ヴァンター空港まで2時間半のフライトである。日本からヨーロッパへの空路の多くはヘルシンキ上空を通過する。
 今回、ヘルシンキで乗り継ぎ帰国したが、ヘルシンキ郊外で着陸態勢に入った機内から、「森と湖の国」フィンランドの4月をとらえた。
 どこまでも続く森林と氷雪に覆われた湖の雪が解けるには、まだしばらくの時間が必要だ。ちょうど今の時期、北海道の網走で観た光景を思い出した。この国に春が訪れるのは、「北の大地」北海道と同じ5月に入ってからだろう。
(おわり)
投稿者 愉悠舎 日時 2006年4月23日 (日) 世界散歩 | 個別ページ

 

 


2.大連

夢に見た大連
 7、8、9日の三日間寒さがしのびよる大連を訪ねた。
 私の母はピョンヤン(平壌) 近くの港町、チンナンポ(鎮南浦)で生まれた。
 今は亡きその母が大連の話をよくしていた。母の父母、私の祖父母が子供たちを連れ朝鮮を転々としていた大正の時期、どのような関わりを大連と持ったのか今は知る由もないが、「大連は素晴らしい街なんじゃ」という母の言葉を時々思い出しては、いつの日か大連の駅頭に、港の夕暮れに身を置きたいと思うようになった。
 3歳で父を亡くした私は祖父の薫陶を受け祖父の庇護のもと、12歳まで生活をともにした。後年祖父の生きざまに疑問を持つようになったが、私を愛してくれた祖父と、暗い時代を生きた祖父との間に横たわる乖離に、私はいつも苦しんだ。

 大連の気温は氷点下である。大連は冬なのに暖かい、人の気持ちがまっすぐだ。
 大連の街並みは素晴らしい、坂の多い美しい街並みの高台から見る放射線状に伸びる広い道路、青桐、プラタナス、アカシヤの並木道、私は大連に酔った。

 私は今、祖父の夢の中にいる。

(つづく)
投稿者 愉悠舎 日時 2006年12月11日 (月) 世界散歩 | 個別ページ
2006年12月12日 (火)

大連の旧日本人街

  大連は遼東半島の南端に位置し、東に黄海、西に渤海を望み、黄海側の大連湾に中国有数の港を抱えている。
 ヨーロッパ的な街並みを多く有する大連は「北方の真珠」と呼ばれ異国情緒に彩られた美しい町である。

 大連の旧日本人街を歩いた。
 旧日本人街は市街地から少しはずれた南山のふもとにある。木立の間を吹き抜ける冷たい風が、すずかけの小枝を揺すっている。

 一世紀前に日本が占領したこの地で、この町からどのような権勢を中国の人々に向かって発してきたのだろうか。
 40年間続いた日本の統治に終止符が打たれたのは1945年である。半世紀近くにわたってむさぼった日本人の夢と生活はもろくも消え去り、今に残る剥げ落ちた壁や錆びついた鉄の垣根に、かつての「栄華」の面影がわずかに残る。

 今、ここにあるのは中国の庶民たちの生活である。
 大きい通りの反対側にも広がっていた旧日本人街は再開発の波に洗われ、新しい住宅が多く建っている。
 やがて古い建物は取り壊され、無味乾燥な建物がこの町の顔となる日も遠くない。
 ここに日本人街があったことなど、知るすべのない町に変わりつつある。

 新しく建っているいる家屋は別荘地として売り出されている。案内して貰った呂さんの話によると、一戸あたりの建築面積は大きいが価格は2000万円もする。中国の場合土地は国のものであり、家主は土地を借りることになる。無料であるが70年の期限付きである。2000万円は日本で言えば2億円ぐらいだろうか、高額な家はそんなに売れるものでもない。
 中国の庶民が暮らしていた町が、成金の町に変貌するのは淋しい。

投稿者 愉悠舎 日時 2006年12月12日 (火) 世界散歩 | 個別ページ

 

 

 

 

 

 

大連・旧ロシア人街

  大連駅から大連港に向けて鉄道が走っている。その中ほどに旧ロシア人街がある。街の入口、鉄道の上をかつて日本橋と呼ばれた勝利橋がかかっている。橋を渡ると「ロシア風通り」のゴージャスな建物が目に飛び込んでくる。
 ここは古いロシア人街を取り壊し、観光用に整備された新しい街並みである。
 この通りの最奥にある旧ダルニー(大連)市庁は往時の建物である。市庁に向かって左側に昔ながらの旧ロシア人街がある。

 大連でお世話になった呂さんの話によると、この一帯は日清戦争「1894年(明治27年)」後の1898年(明治31年)、帝政ロシアが強引に旅順・大連を租借したのに始まる。そのときロシアが彼らの居住ゾーンをここに求めた。

 1905年(明治38年)、日露戦争に勝利した日本は遼東半島の租借権をロシアから奪い、ここに日本人が居住するようになった。以後、40年間「日本人街」となる。

 1945年(昭和20年)、日本の敗戦によりここを去った日本人に代わって中国人が住み現在に至っている。

 この古い一角も早晩取り壊される運命にある。
 中国の都市部も日本の都市部同様に生活の匂いが段々なくなって行く。

投稿者 愉悠舎 日時 2006年12月13日 (水) 世界散歩 | 個別ページ

 

 

 

 

 

暴走の果て

 20世紀前半の日本を語る上で満鉄(南満州鉄道株式会社)の存在を避けて通れない。

 満鉄は日露戦争に勝利した日本がロシアより東清鉄道南部支線を譲り受けたのに始まる。
1906年(明治39年)に設立され、1907年に本格的な営業を始めた半官半民の国策会社・満鉄は、鉄道事業のみならず、新聞、ホテル、炭鉱、港湾、製鉄、教育、医療事業などの社会活動全般にわたり多角経営を行い、なかでも経済の分析や満州の旧慣を調べる調査部門(シンクタンク)は、満州にとどまらずアジアの政治・経済・社会の調査研究を行った。

 日本による中国東北部全域への統治・権益の拡大に呼応し、業容拡大を進めたが、1945年(昭和20年)日本の敗戦により満鉄は雲散霧消した。

 大陸への夢と野望を乗せた満鉄列車は暴走と迷走を繰り返し、中国やアジア、そして日本の名もなき多くの民を奈落の底に突き落とした。

 日本の他国への侵略史は「満鉄にはじまり、満鉄に終わる」と言われる。

 国策会社満鉄の本社は1907年(明治40年)に東京から大連に移され、旧ダルニー(大連)市庁に本社が置かれたのち、1908年にロシア人学校を改修し、満鉄本社となった。
 1942年に本社を大連から新京(長春)に移すまで、この建物が満鉄本社として近代日本史に大きな影を落とした。

投稿者 愉悠舎 日時 2006年12月14日 (木) 世界散歩 | 個別ページ
2006年12月15日 (金)

一場の夢・中山広場
 中山広場は大連市街で扇の要(かなめ)に当たる場所だ。だが、扇のかたちではなく円形を成している。円形状の広場から放射線状に10本の道路が等角度に放たれている。
 美しい街のはじまりと原型がこの広場に詰まっている。

 中山広場は日本の統治時代大広場と呼ばれ、当時造られた建物が絢爛とそびえている。
 大連賓館(旧大連ヤマトホテル、1914年竣工)、中国工商銀行大連市分行(旧大連市役所、1919年竣工)、遼寧省対外貿易局(旧大連警察署、1908年竣工)、等々。

 日本が大陸へ侵略を開始した橋頭堡として中山広場を見れば広場に建つ立派な建物は侵略者の植民地に対する威圧の権化としか映らない。それは妥当で、多分大方の見方であろう。しかしながら、許されるならば次のようにも思う。日本人が夢見た理想郷をこの地に築こうとして、全力を大連の街に投入した人たちの夢のかけらが中山広場なのだ。と、夢のひとかけらに浸れる贈りものを残してくれたことを日本人として誇りに思う。

 広場に次々とビルが建てられ行く当時、私の祖父は朝鮮総督府に就いていた。広場の一角に建つ建物に召集され幾度か中山広場を横切ったことであろう。
 祖父の夢に、はじめて出会えたような気がする。


投稿者 愉悠舎 日時 2006年12月15日 (金) 世界散歩 | 個別ページ
2006年12月16日 (土)

アカシヤの大連
 冬枯れのアカシヤ並木をやわらかい薄日が包んでいた。
 大連にアカシヤの花がやってくるのは来年の5月である。

 私を大連にいざなったのは祖父や母の原点に立ちたかったほかに清岡卓行(きよおか・たかゆき)氏が書いた「アカシヤの大連」に魅せられたからでもある。
 その清岡卓行氏が今年の6月、83歳の生涯を閉じた。1970年(昭和45年)に芥川賞を受賞した「アカシヤの大連」を旅に出る前に読み直した。
 氏の生まれ育った大連を哲学的思索のなかに沈めたこの作品に、深い感銘を受けた。

 作品の冒頭は次のようにはじまっている。
「かつての日本の植民地の中でおそらく最も美しい都会であったにちがいない大連を、もう一度見たいかと尋ねられたら、彼は長い間ためらったあとで、首を静かに横に振るだろう。見たくないのではない。見ることが不安なのである。もしもう一度、あの懐かしい通りの中に立ったら、おろおろして歩くことさえできなくなるのではないかと、密かに自分を怖れるのだ」。
そして、こう結んでいる。
 「アカシヤの花が散らないうちに、あの南山麓の山沿いの長い舗道で、遠くにかつての自由港がぼんやりと浮かぶ夕ぐれどきに」。

 帰国後、大連で過ごした三日間を共に行動してくれた呂さんから、匂い立つアカシヤの写真が送られてきた。


投稿者 愉悠舎 日時 2006年12月16日 (土) 世界散歩 | 個別ページ

トーチカ
 大連の中心部からから車で遼東半島の突端を目指し、一時間ほど行くと旅順である。途中、いかにも中国らしい田舎の風景が続く。鉄道に並行して走る旅大北路を途中で左に折れ、しばらく行くと東鶏冠山北堡塁に着く。
 ここは203高地と並ぶ日露戦争の激戦地である。

 1904年(明治37年)12月日本軍は203高地を占領したあと、東鶏冠山北堡塁を攻撃した。砦の正面にダイナマイトを2.3トン挿入し、大爆破を起こし堡塁を占領した。
 まもなく戦争は終わる。

 この堡塁はロシア軍が造ったものでトーチカと呼ばれ、ロシア語でトーチカは「点」の意味で、大砲などを備えた堅固な小型防御陣地のことを言う。
 ロシア軍はセメントや石それから餅米などを使い、4年をかけてトーチカを構築した。
周長496m、面積9900平方mで、玄関、軍官室、兵舎、弾薬庫、電話室、等の設備がある。
 トーチカは地表下に造られており、壁面に銃を撃つ口が開けられている。

 トーチカの壁には日本軍が撃ちこんだ銃弾のあとが無数に見られ、激しかった当時のようすがしのばれる。

 帝政ロシアはトーチカを造るにあたり中国人を強制労働に駆りたてた。
 案内をお願いした呂さんにトーチカのそばに中国語で書かれた碑の説明をしてもらった。それによると、他の国々によって中国の地が荒らされ国土を奪われたのは中国の恥である。この事実を永く記憶にとどめなければならない。というような内容で、自国民に民族の自覚を促している。

投稿者 愉悠舎 日時 2006年12月26日 (火) 世界散歩 | 個別ページ

大連・浪漫・点景

 大連駅のプラットホームの屋根と駅舎を手前に見て、街なみの向こうに大連港を臨む。(大連渤海明珠大酒店から)

 大連の都市としての歴史は100年あまりでまだ浅い。1898年にロシアがここを租借地とし、港と街の建設をはじめた。その後日本が占領・統治し、街の基本デザインから建設までを手がけた。
 大連の中心部は港から山に向かってゆるやかな丘陵地帯を形成している。ミナトの見える高台に日本人街があった。
  港は大連湾に面しており、水深は深く土砂も溜まらない天然の良港・不凍港である。
  街なかを日本の都会から消えてしまった旧式の路面電車が走っている。
  大連はその歴史・地形において神戸に似たミナト町である。

 大連の中心部から古い街なみが消えつつある。わずかに残る昔ながらの建物群も高層ビルの群れに圧しつぶされようとしている。
 左写真の下部に旧々ロシア人・旧日本人居住区の家屋が残る。ここもまもなく取り壊される。
 右写真はビルの間に埋もれる古い街なみだが、このような一角を目にするのもあと少しだ。(大連渤海明珠大酒店から)

 大連の夜は赤と黄色を基調としたライトに照らし出される。陽が落ちた12月上旬、その日の気温は−4度、吹く風が頬を切る。
 この下に地下3階、3層からなる地下街がある。寒さを避けて人は地下に集まってくるのか、迷路そのものの地下街、ひとたび火災でも起きるならば大惨事を招くかもしれない。
 人と店がひしめき合う坩堝のような街が地面の下にある。(大連渤海明珠大酒店の前で)


 旧満鉄大連埠頭事務所の屋上から突堤を臨む。
 かつて、ここから列車に乗り換え、大陸への出発点とした日本人のざわめきが聴こえてきそうだ。
 埠頭への引込み線や旅客ターミナルに、見たことのない時代の、それでいていつか見た風景に出会ったような気がしてならない。

 

 


 172万平方m(甲子園球場の43倍)の星海広場はアジアでもっとも広い公園、市の中心部から西へ約5キロのところにある。

 見えるはずもない200キロかなたの平壌(ピョンヤン)を海の向こうに見やりながら、しばし潮風に打たれる。
 母や祖父はいま何を想うや。

 

 



 日露戦争の激戦地203高地から旅順港を臨む。
 中国にしてみれば、ここは日本とロシアが中国の国土をめぐって争い、占領された屈辱の土地である。
 順にあるこのような戦場を観光地として整備し日本人を呼び寄せる中国の意図を、私はまだ理解できないでいる。

 




投稿者 愉悠舎 日時 2006年12月29日 (金) 世界散歩 | 個別ページ