ツヤ・その周辺2

2013年4月 9日 (火)
「ニコライ堂の女性たち」より

 日本ハリストス正教会の女学校に関する調査研究をしてこられた中村悦子(1939年生まれ)女史が伴侶・中村健之介(1939年生まれ)と共同で出版した「ニコライ堂の女性たち」(教文館 2003年初版)がある。
 著書奥付けにある著者紹介に依れば、健之介氏はドストエフスキーの研究家として活動して来られ、悦子女史は日本ハリストス正教会の女学校に関する調査・研究のために健之介氏と共に、長短三度モスクワを訪ねている。

 両氏が共同執筆した著書「ニコライ堂の女性たち」はロシア正教の草創期、夜明けの明治、自立に向かって力強く生き、歴史の彼方に埋もれていった女たちの記録である。

 著書の中に京都正教女学校に使えた高橋五子(イネ)の物語がある。その中でツヤが京都正教女学校に関わった1902年(明治35年)~1908年(明治41年)の6年間を高橋五子の物語から抜粋し、ツヤのよすがを偲んでみたい。

 1902年(明治35年)~1908年(明治41年)とは、ツヤが京都正教女学校に遊学した6年である。

 山田耕作の従兄弟に当るイネの京都正教女学校時代は1902年(明治35年)2月11日京都に女学校を開設したのに始まる。

 《・・・明治三十六年四月初め、聖像画師山下りんが、京都の新聖堂の成聖式に先駆けて、イコンの損傷修復と優れたイコンの模写のため京都に派遣された。京都の新しい聖堂のイコノスタスがロシアから届いたのである。かつて山下りんは東京女子神学校二階の自分の居室で五子の手をモデルにして描き、五子とは気の合う間柄であった。山下りんがこの京都滞在の時も、「聖母ハリストスを抱いたイコン」の修復に五子の手をモデルにしていたと、当時の京都正教女学校の生徒が後に「おとづれ」(一号)に書いている。久々に再会した二人は話もはずんだことだろう。
 山下りんが修復と模写を見事に終えた明治三十六年五月七日、いよいよニコライが京都生神女福音堂の成聖式のために入洛した。新聖堂の成聖式は、五月十日、盛大に行われた。その日集まった人は信者、未信者は合わせて六百余名にものぼり、聖堂内は立錐の余地もないほどだった。ニコライを先頭に堂の周囲を巡る十字行も晴れやかに行われた。
 五子はこの成聖式の日までに京都正教女学校の校舎、寄宿舎、食堂等の新築を完成し終えていた。記念写真を撮った水島落葉は『正教新報』五百四十号の「京都紀行」に、立派に出来上がった京都正教女学校の建物とその前に並ぶ生徒たちを写したときのことを詳しく書いている。もちろん、「教室と食堂が見えるように」撮ったそのときの写真も、京都正教会に残されている。
 京都新聖堂の成聖式には、日本各地から教役者をはじめ多くの信徒たちが参集した。中井木莬麿(きびまろ)をはじめ、東京女子神学校の校長児玉菊子や教師伊東祐子、若い教師四人も参列した。成聖式やその後一同がそろって京都に遊んだ様子は、『裏綿』『正教新報』、木莬麿の妹終子(しゅうこ)に宛てた長文の手紙などに見られる。・・・成聖式を無事終えて帰郷したニコライは、京都での五子の功績と留守居役だった澄子への褒美として、澄子に五子のいる京都に二週間旅行することを許可した。明治三十六年七月のことである。・・・五子と澄子は、三井広子(三井道郎司祭の妻)や京都に遊びに来ていた東京女子神学校の女教師中井春子や五子の女学校の生徒たちを伴って、京都市中を散策し、大阪博覧会を見学し、明石や奈良や京都嵯峨野、東山に遊んだ。・・・この後、五子と澄子は生徒たちを連れて京都から箱根塔の沢の正教会の避暑館にも行き、一夏を自然の中で過ごした。》

 日露戦争の勃発直前五子は苦難を強いられる。五子の実弟グリゴリイ高橋門三九がロシアのスパイの嫌疑(露探事件)や甥のティト松井潔はロシア語に堪能だったので、外務省や陸軍省から協力を請われたが拒否したりと、五子の驚愕は大きかった。

《・・・身も心も弱り果てたそのころの五子の様子を、酒井澄子の娘清子が次のように書いている。清子はこのとき東京女子神学校から五子の京都正教女学校へ転校していたのである。
 日露戦争の時には大主教様はじめ教会の方々は皆ご苦労なさいましたが、中にも先生は非常なご心労をなさいました。お察しするさへお気の毒な立場にあって騒がず恐れず落ち着いて居られました。けれどもご身体が大変損められたので、東山の温泉でしたへご静養なさる事になりました。小雨の降る日、車を学校の縁側まで付けさせてお乗りになった時、お痩せになった襟の辺りや凹んだお目を見て、生徒等はほんとに心細く感じました。
 すっかり先生にご同情してゐた生徒等は、新らしい信者が多かったにも拘らず一人も志の動く者なく、小さな子供らまで精一杯先生のお力になる積もりでをりました。先生が平生皆に与へられた愛を、皆がこの時は先生に差上げられたのでした。
 その多難な年も暮れて大晦日の夜、赤のご飯に甘(おい)しい蛤のお汁でお夕飯が済んでから、皆は祇園のお社に見物に参りました。お社ではお雑煮を炊く火種にするとかで火縄を売って居るのでした。あわただしい大つごもりの夜の町を歩くのは珍しく、喜んで帰って来ますとお机がお膳代りに並べられて、お年越しのお蕎麦のご馳走が先生からありました。
 その席でお立ちになった先生は、この苦しかった年に、皆がよく自分を助けて励まして呉れました。自分には何と感謝の言葉もない、と仰ってお泣きになりました。先生の涙を見たのはこの時ばかりの様に思はれます。皆も言葉も無くて、同じ様に泣きました。が、長く忘れる事の出来ぬ光景でご座いました。(後藤清子「思い出る事ども」)

 明治三十七年の京都正教女学校の大つごもりの光景が、まざまざと目に見えるようである。
 ・・・露探の姉として世間からも正教会の人々からも指弾された五子は、・・・明けた明治三十八年正月八日、酒井澄子は三十七歳の若さで亡くなった。・・・高橋五子は弟が露探罪で逮捕、審問されていた期間も、平常常通り学校を運営した。ロシアへの敵意が高まった時期であったにもかかわらず、京都正教女学校ではロシア語の授業に力を入れていた。明治三十七年の三月十七日のニコライの日記には「京都の女学校ではなお一層熱心にロシア語の勉強を続けている。校長のナデジダ高橋から、生徒たちに読ませるので、ロシア語の新約聖書十五冊送ってほしいと言ってきた」とあり、ニコライは大いに喜んで聖書を送っている。
 そのころ京都正教女学校の在校生は三十名であった。その内十名が通学生で、半数が未信者であった。ロシア語聖書十五冊必要ということは、上級生たちはすでにロシア語で聖書が読めるまでになっていたということである。
 ロシア語の教師は、隣接の京都正教会の司祭シメオン三井道郎であった。京都正教女学校の教師や生徒たちはロシア語会話も学んでいた。・・・五子はこの女学校で聖歌の練習に力を注いだ。京都正教女学校の聖歌がすばらしかったことは色々なところに書かれているが、中井終子も日記に「京都の女学校には音楽の専門教師なけれど、高橋姉の正確なる教授によりて女声四重音の聖歌完全に成立し、小さき聖堂にていと自在に歌はるるに、東京にては専門の聖歌教師四人もありながら、また本来の四重音男女両学校生徒によりて古くより組織せられながら、殊更あしく歌ひ・・・・・」と、五子の聖歌隊に感心し、東京の男女神学校生徒を歯がゆがっている。 
 明治三十八(一九〇五)年九月、ポーツマス条約をもって日露戦争は終わった。個人的にも多難だったこの戦争を乗り越えた高橋五子は、翌明治三十九年三月、京都正教女学校第一回卒業生十一名(※1)を送り出した。・・・》(朱字「ニコライ堂の女性たち」より抜粋)

 その後高橋五子は教会の絡みの中で、大正七年三月、ニコライの命により十七年間全てを注いだ京都正教女学校を廃校にした。その年の九月、五子は兵庫県武庫郡良元村(仁川)字蔵人に「関西正教女学校」を開いた。それも廃校の憂き目にあったのが大正十年三月。その後、大阪の北野にあった梅花高等女学校の舎監を経て、神戸の「新川スラム街」にあった「生田川保育所」の所長として昭和四年二月九日、波乱の人生を閉じた。六十二歳の生涯であった。

 (※1)ツヤは京都正教女学校を1908年(明治41年)に卒業(第15号)している。1902年(明治35年)に高橋五子が京都正教女学校を開設した年、ツヤは入学し、4年のとき(1906年)、11名の卒業生を送り出しているが、これは上級学校(女子大等)へ進学する人たちは当時女学校を4年で卒業出来たためと思われる?

京都正教女学校年譜(ツヤの女学校時代)
1902年(明治35年)2月11日 高橋五子、「京都正教女学校」を開設
1903年(明治36年)4月    山下りん、ロシアから送られたイコン修復のため京都に赴き、高橋五子の京都正教女学校に滞在
1903年(明治36年)5月10日 ニコライ、京都福音聖堂の成聖式を執行。高橋五子はこのときまでに京都正教女学校の校舎、寄宿舎、食堂を新設
1903年(明治36年)7月20日 酒井澄子、ニコライから2週間の休暇を与えられて京都の高橋五子を訪ね、関西遊覧
1904年(明治37年)2月13日 中井終子、初めて自分の日記を執筆。日露戦争で高まる正教会への世間の嫌疑を払うため、傷痍軍人の手紙の代筆、応急看護を行う正教徒女性による「恤兵通信簿」を立案したが、国の認可が下りず断念
1904年(明治37年)3月17日 高橋五子、京都正教女学校の生徒たちにロシア語を学ばせ、ロシア語の聖書15冊の送付をニコライに依頼
                            (ニコライ堂の女性たちより)
投稿時刻 18時19分 ツヤ・その周辺 | 個別ページ

2012年4月19日 (木)
平家伝説の里・切山に残る真鍋住宅

 香川県と愛媛県の県境近く、四国中央市に切山という集落がある。

 4月13日、小雨降る山道を奥へ奥へと進むと小高い丘に集落が広がった。
 今を盛りの桜が切山の里を包む中、車を停めて眼下にあるカヤブキ屋根を目指し歩いた。

 平家伝説が残る切山の里に、国の重要有形文化財(建築物)・真鍋家住宅を訪ねた。建物が造られたのは16世紀半ばから17世紀後半で愛媛県内に現存する最古の民家。

 真鍋家は安徳天皇の守護にあたった五士の一人、真鍋次郎平清房(平清盛の八男)を始祖とする家系と伝わる。

 

投稿時刻 19時47分 ツヤ・その周辺 | 個別ページ


2012年3月 9日 (金)
祖父母たちの子ら
 義貞・ツヤ夫婦は6人の子をもうけた。子らは朝鮮半島で産声をあげ、半島の厳しい環境に晒された。
 男の子が無事育つのは並大抵のことでなかった当時の半島で、祖父母も二人の男の子を亡くしている。
 最初の子は忠清北道清州(チュンチョンプクド チョンジュ 朝鮮半島西南部)で二歳の命を閉じ、私の母と一緒に生まれ出た次男は二週間あまりしか生きなかった。次男と母は平安道鎮南浦(ピョンアンド チンナムポ 平壌の外港)で生を受けた。母とあとに続いた二人の娘たちは、凍てつく半島の厳冬を幾度か耐えた。
 山紫水明の地・春川(チュンチョン)で四女の胎動を聞いた祖父母は帰国を決意した。四女の生誕を見届けると、祖父母は暗雲漂う朝鮮半島に見切りをつけ、ツヤと4人の娘を連れ、再び関釜連絡船に乗り内地に還って来た。娘たちは四国の新居浜で成長し、女学校を出るとそれぞれの道を歩んだあと嫁していった。末娘の四女は今も健在である。

 母・道子は1931年(昭和6年)3月23日、新居濱高等女学校(現在の新居浜西高等学校)を卒業、一ヶ月後の4月、縁あって当時銀行に勤めていた横山末一と結婚する(新居郡金子村大字弐百参番戸主横山勘蔵四男昭和六年四月弐拾八日松澤義貞長女道子ト婿養子縁組婚姻届出仝月参拾日入籍  戸籍謄本より)。18歳の春であった。
 その後、末一は肺結核を患い、1936年(昭和11年)の12月25日に亡くなった。くしくも、その日はキリストの生誕日にあたる(昭和拾壱年拾弐月弐拾五日午前八時参拾分 戸籍謄本より)。
 寡婦となった道子にツヤは女の自立を説いた。ツヤの教えに従って道子は、松山及び鎌倉で看護婦・助産婦・保母の資格取得修行に励んだ。
 1943年(昭和18年)1月ツヤ召天と前後して道子は、私の父・晴一と再婚・入籍する(新居濱市乙百二十七番地戸主岡田敏夫弟昭和拾八年参月拾六日松澤義貞長女道子ト婿養子縁組婚姻届出同月入籍 戸籍謄本より)。

<祖父母の子ら>
義敏:長男 明治44年10月30日朝鮮忠清北道清州郡清州邑にて生、大正3年6月6日死亡
道子:長女 大正2年10月30日朝鮮平安道鎮南浦府元塘面龍井洞にて生
貞夫:二男 同上と双子大正2年11月17日同地にて死亡
幸子:二女 大正5年5月9日朝鮮黄海道殷栗郡長連面東里にて生
愛子:大正7年9月25日朝鮮咸鏡北道城津郡城津面本町51番地にて生
博子:大正10年6月25日朝鮮江原道春川郡春川面衛洞里148番地にて生


投稿時刻 17時27分 ツヤ・その周辺 | 個別ページ

2012年2月 2日 (木)
ツヤの日露戦争
 徳島市楽脇町のハリストス正教会・杉本神父が西条のハリストス正教会に巡回でやってきた時、ツヤは洗礼を受けた。1902年(明治35年)1月、ツヤ12歳の時である。
 その年、4年の義務教育(尋常小学校)を終えたツヤは、京都正教女学校へ進学するため単身京都へ向かう。そこで6年間の修業をつむ。1908年(明治41年)4月17日女学校を卒業し、一旦、西条へ帰る。帰郷したものの、既に西条のハリストス正教会は消滅していた。
 私が昨年、西条市の観光課で見せてもらった分厚い「西条史誌」に一行だけ、「1905年(明治38年)まで西条にハリストス正教会が在った」と記されている。前年から始まった日露戦争がこの年の秋に終結している。
 西条に帰郷したツヤは、1908年(明治41年)の11月初旬、父母(幸之助、モトヨ)と共に長兄・憲一が経営する松山市大街道二丁目の楽器店に身を寄せる。
 翌々年の1910年(明治43年)10月末、朝鮮へ向かうまでの2年間、大街道にて宗教活動を行った。ツヤが洗礼を受けて9年の月日が経っていた。ツヤは21歳になっていた。

 話は少しさかのぼり日露戦争。
 日露戦争はロシア正教会及び信徒にとって困難を極めた。日本民衆の敵がい心は東京のニコライ堂をはじめとし日本各地のロシア正教会堂にも向けられた。その象徴が日比谷焼打事件である。

 日露戦争(1904年~05年)前後、ツヤは京都で学業に励んでいた。日露戦争後の日本とロシアの関係が悪化し、ポーツマス講和条約に不満を持った群集が日比谷公園に集まり集会を開いた(日比谷焼打事件)その時ニコライ堂も焼き打ちの対象になった。
 当時、ツヤたちロシア正教会に学ぶ女学生の心情を図る一文が、東京の女子神学校二十四回生・山内信子女史によって、以下のように記されている。

「三十八年日露戦争が終り日本は勝ったのですが、ポーツマスに於ける講和条約が面白くないと云う事で、九月のある夜日比谷の焼き打ち騒ぎがあり、私達は夜半に起されなるべく黒い着物をきて洗面道具チリ、紙櫛を持って下の講堂に集まるよう云われて下の講堂に集まりましたら、何やら外で騒しい声がきこえ、又馬蹄の音もきこえてきたので、恐しくて皆顔を見合せて居りました。其の人声はニコライ堂とニコライの学校を焼きつぶせと云うので三組に別れ、カン声をあげる組、石油をかける組、火をつける組の人達の声で、学校の塀(木柵の塀でした)に石油をかけ、まさに火をつけんとした時に、天皇陛下の命に依りて近衛から守備にかけつけて来た馬蹄の音でした・・・・・」(東京女子神学校・京都女子神学校友会報<おとづれ>)(出典:中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』192~193頁、岩波新書(2008年:第2刷)

 また、各地でポーツマス講和条約反対の大会が開かれ、1905年9月7日神戸で、9月12日横浜でも同様の事件が起こった。

 当時、京都伏見区の東福寺にロシア人俘虜収容所があった。神父や伝道者たちが、たびたび慰問に東福寺を訪れた。また、ロシア人俘虜も隊列を成して教会へ礼拝に訪れた。ツヤもこの中の一人であったことは想像に難くない。

 上記、日本民衆の暴動に関し、信徒を護ってくれたは日本の軍隊であり警察であった。また、ロシア人俘虜に対し紳士的な待遇を処したのも軍隊であった。後年、その軍隊や警察が朝鮮や日本において、キリスト教徒への弾圧に走ろうとは、その時ツヤは知る由もなかった。

投稿時刻 14時38分 ツヤ・その周辺 | 個別ページ

2011年10月18日 (火)
真鍋家と好井一族

 10月16日、生まれて始めてツヤの親たちが眠る墓所を訪ねた。
 同行者はツヤの四女・博子、博子の娘二人、それに私の弟の4人、5人は2台の車に分乗し、朝10時新居浜を発ち、隣の四国中央市へ向かった。昨日のどんよりとした天候と打って変わってよく晴れた少し汗ばむような陽気だった。

 今年90歳を迎えた博子叔母は元気そのもの。途中、叔母が幼い頃、「おじいちゃん(幸之助)によく連れてきてもらった」と言う、家の前に立ち寄った。向かいの店が好井姓だったので、何か情報を得られないものかと店の扉を開けた。店番をしていた「おばあちゃん」に、「好井幸之助と言う人を知りませんか?」、と問うた。「幸之助さん知ってますよ」、訊くところによると、おばあちゃんは1923年(大正12年)博子叔母より二つ下、幸之助は1935年(昭和10年)1月に没しているので、幸之助の存命中、「おばあちゃん」も博子叔母も小学校時代この辺りで遊んでいたのだろう。
 「おばあちゃん」に呼ばれて息子さんとおぼしき人が店の奥から出て来た。事情を話すと一枚のコピーを見せてくれた。好井一族の家系図である。その中に幸之助の父親・好井勝治の名前があった。好井勝治は向かいの家だと、好井秀彰氏を紹介された。氏は土居小学校の校長を辞したあと、現在川之江図書館の館長を務めているとのこと、向かいの好井邸を訪ねたが留守のようだったので、昼食後図書館に寄ってみることにした。「うどんは香川に入らんとうまくない」と言う弟の案内で、川之江の隣の豊浜まで足を伸ばし、「讃岐うどん」を食した。うどん屋を出て少し後戻りして、一時過ぎ川之江図書館を訪ねた。

 執務時間中にもかかわらず好井秀彰氏は私たちを歓迎してくれた。勝治直系の氏はツヤの兄・真鍋頼一の出どころがいまひとつハッキリしなかったようで、私たちの訪問を喜んでくれた。

 ここで、頼一の兄・憲一のメモから幸之助の出所を記しておこう。なお、好井秀彰氏の系図は氏がしたためた左図を参照。

憲一メモから

・ツヤの父の出郷 宇摩郡関川村上野(北好井) 好井廣見

・真鍋家の元家は宇摩郡関川村上野字木の川 真鍋興一、新居郡神郷村松神子(唐桶)は真鍋興一の二男の住居で、二男は中国の大連にて成功し、上記家を買い真鍋興一を住まわす。

・父の親族は宇摩郡関川村上野 好井一族(但し、南好井 旧庄屋)松澤ツヤの父は宇摩郡関川村上野(北好井)好井勝治の三男幸之助なり

・幸之助は宇摩郡関川村上野字木の川、真鍋武兵衛の長女ツネの養子となる、間もなくしてツネ没す。母は新居郡神戸村釜の口、士族伊藤普三の長女モトヨなり。幸之助・モトヨ夫婦は宇摩郡関川村上野木の川にて長男憲一、次男章輔を出生後家事の都合によるも、真鍋の本家を武兵衛の長男興市に渡し置き母モトヨの出郷、伊藤晋三の経営する水車、新居郡大生院村字津越という所(釜の口の川向い)に居住すも水車は四国第一の広大なる物にて一度に玄米13俵を精米と成し得る。

・明治二十年五月七日三男頼一出生し、明治二十二年十一月二十五日ツヤ出生せり。


投稿時刻 20時13分 ツヤ・その周辺 | 個別ページ


2011年7月15日 (金)
水車場

 ツヤの両親(真鍋幸之助、モトヨ)が経営していた水車場(すいしゃば)とは如何なるものであったのか?

 明治時代、加茂川の周辺に架かっていた水車の写真を見たくて、西条市の観光課に行き、その有無を探してもらったが、見当たらなかった。その折見せてもらった「西条史誌?」に一枚の写真があった。
 明治中期、加茂川に船を浮かべ、艪を漕ぐ船頭の写真だ。この牧歌的な写真をよすがに、当時の情景を想像するしかない。

P6070013

  淡路に帰る途中、新宮町に寄った折、金砂湖で水車小屋の復元を見つけた。水車そのものは朽ちかけ、時代を感じるが、残念ながらいつ頃のモノかは記されていない。それでも、この精米用の水車小屋に興味を持った。

 ここ、新宮町はツヤの父・真鍋幸之助の出郷地、宇摩郡関川村上野(北好井)の東にあたり、現在両方とも四国中央市に属している。幸之助は関川を出て、関川の西、妻・モトヨの出郷地、釜の口(西条市)にて水車場を継いだ。東から西へ、新宮、関川、釜の口と続く一帯で、かつてこのような水車が活躍していたのであろう。

 川の流れは水車を回す。回された回転軸が小屋内に導かれ、その回転力が二つに分かれる。一つは歯車を介してひき臼を回す。
Hikiusu

 もう一つは、いくつもの杵を連結軸で横に束ね、水車の回転軸に取り付けられた羽根板が回転するたびに杵を持ち上げ、つき臼の中の原料を撞く。

 曽祖父母が経営していた水車場も、内容は異なっていたかも知れないが、原理はこのようなものであったと想像できる。



投稿時刻 14時05分 ツヤ・その周辺 | 個別ページ



2011年6月18日 (土)
ツヤの生家を訪ねて

  ツヤの生家を7日(火)の午前中訪ねた。ツヤが幼少時を過ごしたのが山あいの小部落「津越(つごえ)」そこで両親(幸之助・モトヨ)は水車場を経営。ツヤの母モトヨは津越の川向こう「釜ノ口」の士族・(元村上)伊藤普蔵(十兵衛)の長女、十兵衛は西条藩の勘定方をしていたが、没落後は主に醸造業を営む。ツヤが尋常小学校に入ると津越より4キロ下流の西条市大町常心に移りそこで雑貨店を開店し、同時に「福武」及び「宵ノ原」に水車場を経営する。

 上記「赤字」の地名を巡った。宵ノ原以外は雨が激しく降って来て車を走らせただけで終わった。またの機会を待とう。

 宵ノ原なる地名は地図に出てこない。ここに来る前、「西条郷土博物館」に寄り、宵ノ原の場所を教えてもらったが、その時ついでに西条藩の情報を入手した。その折、藩士の詳しい事情を知りたいのであればと、紹介されたのが「西條神社」。この度は西條神社に寄ってない。

 宵の原で野良仕事をしていた人に話を聞いた。「ここは宵の原だがこの辺一帯を中野と言う」、私は問う、「明治の時代この辺にあった水車場が洪水により流された話を聞いていませんか?」、「水車の話は知らないが大洪水があったようだ、その時建てた地蔵があれだ」と言って、道路になっている土手の傍に、川を向いている地蔵を指さした。その時犠牲になった人を悼み建立したらしい。この辺りの加茂川はもっと狭かったらしいので、地蔵のある場所に支流が流れ、そこに水車場が在ったのではと想像する。その他、地蔵の対岸に在る取水口にまつわる話も聞いた。雨も激しくなってきたので御礼を言って別れた。

 ツヤが幼少期を過ごした「山あい」の津越の集落に沿って勾配のある川が流れ、川は加茂川の本流に合流している。「津越下橋」まで行って引き返したが、橋のたもとから上流を見やると、雨にけぶるその向こうに福武の水車が目に浮かぶ、谷間を伝って落ちて来る水の流れは、真っ直ぐで早い。瀬音に混じって軋む水車の音が聴こえてくる。

 今日は下見ということで、また来よう。


投稿時刻 23時28分 ツヤ・その周辺 | 個別ページ


2011年4月 6日 (水)
山津波
 1899年(明治32年)、ツヤ10歳のとき、水車小屋を襲った豪雨を西条の東隣、別子銅山では「山津波」として記録されている。当時の模様を前回のブログに引き続いて、邦光史郎氏の小説から紹介しよう。

・・ところが、明治32年8月28日、今でいう集中豪雨が襲来して、山津波が起こってしまった。
 異様な轟音に、あわてて別子銅山の鉱夫たちが頭上をふり向いた時はもう遅かった。
 崩れ落ちて押し流されて行く土砂のスピードは時速五十キロを超えている。そのため、あっという間に見花谷の村は人も家もすっかり呑み込まれて跡形もなくなってしまった。
 雨は、午前八時より降りつづいていたけれど、夜に入るまで大したことはなかった。ところが午後八時頃、雷鳴と共に篠つく豪雨が襲ってきて、それから一時間にわたって、地面に突きささる白い棒のような集中豪雨が全山を押し包み、轟音と共に地すべりが起こり、人家を呑み込んだまま、土砂は足谷川へ流れ込んでいった。
 濁流逆巻くこの足谷川は、そのまま銅山川となって、末は吉野川に注いでいる。
 この日、銅山川の上流で眺めていた南光院の住職は、みるみるうちにふくれ上がった激流に乗って矢のごとく下流へと押し流されて行く何十軒もの人家を目撃している。
 すると、中には、ランプをともし、その灯の照らされて蚊帳の吊ってあるのがはっきりと分かる人家があった。
 和尚は、あの中に人がいる、と思わず叫んだ。
 蚊帳の中の男女は、まるで鳥籠の中の小鳥のように、行ったりきたりしている。
 けれど、もはやどうするすべもないのである。
 「南無阿弥陀仏・・・」
 和尚は、両手を合わせて、生きながら死地へ引き込まれて行くその一家の冥福をただひたすら念じていた。
 倒壊家屋百二十二戸、大破三十七戸、死者五百十三名、負傷者二十六名、これはすべて別子銅山だけの被害であったから、その凄じさに人々は戦慄した。
 そのため、鉱山は一時休業して、別子、新居浜、四阪島の人夫に救援隊を加えた三千人をもって、渓谷にただよい流れる死体や土砂に埋もれた犠牲者の発掘埋葬に従事させることになった。
 こうして発見された死体は、男百四十名、女九十三名、他に男女不詳の者一名を数えている。
 何しろ、ひどいものは、上半身だけ残って下半身の肉をすべて失っていたり、誰とも見分けがたいほど損傷を受けていたりしたという。
 九月十一日、十二日の両日にわたって、僧侶百十人を動員した合同葬儀が営まれ、全山は慟哭の声にみたされた。
 そればかりか、山中の溶鉱炉は倒壊して使い物にならず、事務所、作業場、倉庫もまた水没してしまっている。
 山の歴史は掘り出す地中の宝によってつづられるかたわら、大火、台風、豪雨による悲哀の連続であるといってよく、住友友純は端応寺の境内に、“別子鉱山遭難流亡者の碑”を建てて、その霊を弔った。
 ちょうど、この被害の起こる半年前に伊庭は別子を去っている。だが彼は、それ以前から別子の植林に心を砕いていた。
 鉱山は常に多くの坑木を必要として、周囲の樹木を切り倒し、自分から災害を招きやすくしているのである。
 そのため、かつての原始林も今はみる影もない禿山化してしまっている。
 ---これではいかん、大自然の怒りをなだめようと思えば、元の緑に戻すより他に方法はない。
 伊庭は、ただ単に坑木用の植林を目的としたのではなく、別子全山を青々とした緑にして大自然にお返しせねばならないという、哲理によって植林を計画した。
ところが、そのために招いた籠手田(こてだ)林学士は、哀れにも山津波に呑み込まれて不慮の死を遂げてしまった。

 そこで八戸林学士を招いて、別子林業の再建を命じた。
 「儲けることなど全く考えんでよろしいから、なんとかして元の自然に戻してほしいのだ。それは山を荒らしたものの義務じゃからね」
 しかし、彼が恐れていたとおりの災害が起こって、別子は大自然の怒りの前にすっかり慴伏(しょうふく)してしまっている。・・・
(住友王国<下>あかがねの巨人、柔と剛 邦光史郎 サンケイ出版 1973年)

投稿時刻 16時04分 ツヤ・その周辺 | 個別ページ


2011年3月 3日 (木)
1899年(明治32年)の台風

  ツヤ10歳のとき、四国を縦断した暴風雨により、当時四国随一と言われた水車小屋は壊滅した。以前、ブログにその模様を次のように記した。「不幸が一家を襲う、1899年(明治32年)8月高知に上陸した台風は四国山脈を縦断し日本海に抜けて行ったが、別子銅山の施設は倒壊し、多くの死者を出す大惨事となった。この暴風で水車は流失してしまった」

 水車小屋のあった加茂川流域でも多くの犠牲者、家屋の流失・倒壊等、大きな被害を出した。当時の様子を知る記録や写真は多く残されているらしいが、そのうちの一つ、作家の邦光史郎氏は「住友王国(あかがねの巨人)」で次のように記述している。

「だが、別子は、その当時、精錬所の四阪島移転と煙害問題という二大難件を抱え込んでいて、新任支配人の行く手は決して坦々たるものではなかった。しかも、赴任して間もない八月二十八日に、別子は、集中豪雨のため、死者五百名をこえる大被害をこうむった。その時、たまたま鈴木は、打ち合わせの大阪本社へ出張中であった。『ヤマツナミノタメ、シシャタスウ、キュウエンヲコフ』そんな飛電が新居浜より届いたけれど、まさかあの山中で水害が起ころうなどとは予想もしていなかった。-------こりゃ山崩れかもしれんな。そこでとにかく食料や救援物資の手配をすませ、第四師団に軍医と衛生兵の派遣を依頼して、さっそく別子へ駆けつけることになった。八月三十日午後十時二十分、総理事の伊庭と同行して、二十九名の救護隊員を引き連れた鈴木は、夜の梅田駅を発っていった。それは全く目も当てられぬ惨状であった。何しろ百二十二個の家屋が、一瞬のうちに山津波に飲み込まれて跡形もなくなってしまったばかりか、濁流渦巻く足谷川に押し流されて、五百十三人に上るおびただしい死者を出してしまった。八月二十九日、あまりの惨状に呆然とした別子鉱山の人たちは、とりあえず死者の収容に取りかかることになった。以来、九月二日までの六日間、延べ三千人を動員して、死体の捜索に励んだけれど、やっと半数がみつかっただけで、あとはどこに埋もれたか、それともすでに川底深く沈んでしまったのか、全く不明であった。一方、家長の住友友純は、九月二日、川上謹一理事たちを従えて、大阪を出発、これを出迎えた鈴木は、声もなくただうなだれるばかりだった。」(住友王国<下>あかがねの巨人、別子時代 邦光史郎 サンケイ出版)

 当時、台風と言う言葉はなかったのだろう、「山津波」とか「暴風」の言葉が使われている。別子銅山では山崩れにより、500人~600人の犠牲者を出し「暴風」が通過した愛媛、香川、岡山で計1500人が犠牲になった。

 銅山の入口に立川精銅所があった。立川精銅所跡にある供養碑の碑文に、「明治32年8月28日(1899)四国地方に台風が上陸し、大暴風雨は各地域で洪水の被害を起こしたが、特に愛媛県新居郡 宇摩郡地域は風雨が激しく別子山村を中心に、多くの人々が家屋共々濁流にのまれ 押し流された。多くは銅山川から吉野川へ流されたが一部は足谷川から国領川を通り瀬戸内海へと流された。その後数日にして仁尾沖に夥しい流木と共に33人の遺体が浜に打上げられた。仁尾の住民は、身元の確認もされないまゝ南の墓地に埋葬し、後に碑を建て毎年供養を行っている。 」と、ある。

 立川の西に加茂川があり、川沿いの津越に水車小屋、水車小屋の北4キロの大町にツヤら家族が住む家があった。大暴風が当地を通過したのは、午後8時から9時、ツヤの親たちは水車小屋から引き上げ、自宅に居たので難を逃れた。その前、ツヤを含む一家は水車小屋の傍の家で暮らしていた。ツヤが小学校に入るとき、往復8キロの道は厳しかろうと小学校近くに引越した。その決断を下したのはツヤの母・モトヨであった。

 


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2010年5月 7日 (金)
京都正教女学校
 ツヤが京都にのぼったのは1902年(明治35年)12歳の時である。当時は義務教育4年を経た者は女学校へ進学できた。(1900年<明治33年>第3次小学校令)

 過日、京都ハリストス正教会の小野司祭に京都正教女学校の所在について尋ねたところ現教会の場所に在った京都正教女学校の建物は現存しないらしい。教会のある場所は京都御所の少し南の中京区柳馬場通二条上る六丁目。ツヤは御所を見やりながらここで7年間修養し1908年(明治41年)帰郷した。
 ロシアの宣教師ニコライによって始められたハリストス(ロシア)正教は1898年(明治31年)の時点で25231人(内務省調査)とカトリックの53924人に次ぐ信者を有しプロテスタントよりも多かった。当時多くの信者を獲得していった一環として、東京や京都に設立した女子神学校の存在が有るのかもしれない。京都ハリストス正教会のホームページに女学校設立までの経緯が次のように記されている。

「・・・明治27年(1894年)年に着任したシメオン三井道郎管轄時代、同30(1897年)年に現在の境内地「柳馬場通二条上る(やなぎのばんばどおりにじょうあがる)」の京都能楽堂跡地を購入。
 同34年12月には京都府技師松室重光の設計監督になる現在の聖堂、生神女福音(しょうしんじょふくいん=受胎告知)聖堂が完成、同36(1903年)年5月ニコライ主教の司祷により成聖された。
 当初は寮制の京都正教女学校も敷地内に併設され、東京からナデジタ高橋五子(いね)が舎監として派遣された。」(京都ハリストス正教会のホームページ)

 聖堂の床に座してミサに励むツヤの敬虔な姿を想像するとに胸に迫るものがある。

 明治期の女子教育に内外のキリスト教関係者の果たした役割は大きい。「当時の女子中等教育において、キリスト教主義学校も重要な役割を果たした。横浜・東京・長崎などの都市部に主に設立され、外国人女教師による外国語教育を通じて、女性の啓発に大きな貢献をなした。(文部科学省ホームページ)

 近代化を急ぐ明治の日本は「良妻賢母」型の女性の育成に迫られ女学校を配し、一方でキリスト教文化の流入が女性の自覚を促し、ツヤは京都への遊学に恵まれた一面もある。ツヤは明治の学校教育の変遷の中で、どのような教育を受けることが出来たのか、文部科学省のホームページから拾ってみた。

 「・・・初等教育の制度的整備に連動して、明治二十年代後半から中等教育の制度形成が急速に進められた。二十四年中学校令の一部改正により、府県立中学校の一府県一校の制限が撤廃され郡市町村も中学校を設置し得ることになった。二十七年井上毅文相は尋常中学校の学科課程を改正して、第二外国語を廃し国語漢文を重視するとともに「実科」を置き得ることとし、さらに「実科」中心の実科中学校を設置し得るとした。実用化することにより中等教育を普及させようとするこの改革は、わずか一、二校の実科中学校が設けられたに過ぎず、不首尾に終わった。
三十二年二月新たに中学校令(第二次中学校令)、高等女学校令、実業学校令が公布され、この後永く存続することになる我が国中等学校制度の基本構成が示された。

 既に十年代後半から制度化が開始され二十年代後半の井上文相の施策の下実態を形成し始めた実業学校は、この実業学校令により中等教育レベルの独自な学校制度として確立されたが、これによって従来の中学校目的規定における「実業ニ就カント欲シ又ハ高等ノ学校ニ入ラント欲スルモノニ須要ナル教育」の前半部分が実業学校に担われることにより、中学校は単に「男子ニ須要ナル高等普通教育ヲ為ス」と規定されることになった。

 高等中学校が既に高等学校と改編・改称されていたから、尋常中学校はこの中学校令を機に単に「中学校」と称されることになり、入学資格は従来どおり年齢十二歳以上・高等小学科二年修了(小学校入学後六学年経過)で、修業年限は五年とされた。三十四年に中学校令施行規則が制定され、教員資格に関する規定を除く中学校制度についての諸規則が包括され、翌三十五年中学校教授要目が制定され、諸学科目の教授内容の基準が示された。

 二十八年高等女学校規程が制定され、入学資格は尋常小学科四年卒業以上、修業年限は六年から三年とした。三十二年二月第二次中学校令と併行して公布された高等女学校令においては、中学校との対比において高等女学校の目的を「女子ニ須要ナル高等普通教育ヲ為ス」と規定したが、高等女学校が当時の女子にとって文字どおりの「高等」教育機関であったという現実に支えられて、その教育の独自性は中学校に比してはるかに明確となった。中流以上の階層の女性に必要とされる教養と技能について、すなわち「良妻賢母タラシムル」教育が、その内容であると確認されたのである。高等女学校の入学資格は、先の「規程」を改めて中学校と同様の年齢十二歳以上・高等小学科二年修了としたが、修業年限は四年を原則として土地の事情により一年の伸縮を認めた。中学校よりも一、二年短縮されたのに対応して、その学科課程も漢文・英語・数学・理科などの内容が簡略化され、代わりに作法・国語・裁縫・家事などを重視する内容になっていた。中学校令の場合と同じく三十四年高等女学校令施行規則が、三十六年高等女学校教授要目が、それぞれ制定された。

 これらの中等教育制度改革の後、日清・日露両戦争を契機とする近代化の展開を反映して中学校、高等女学校ともに、急速に普及していく。高等女学校は特に目覚ましく、大正二年には学校数において中学校を上回った(中学校三一七校、高等女学校三三〇校)。適当な教育機会を与えられてこなかった女子に対して、高等女学校制度は有効に機能したと見ることができる。

 明治四十三年高等女学校令を部分改正して、家政科目を中心とした「実科」と「実科」だけから構成される実科高等女学校の設立を定めた。実科の修業年限は、入学資格によって三種に分かち、尋常小学校卒業程度の場合は四年、高等小学科一年修了程度は三年、高等小学科二年修了程度は二年とした。この高等女学校実科及び実科高等女学校は、地域の状況に対応して家政を主とする女子の実務教育の普及を目指したものであった。(文部科学省ホームページ)

 ツヤの卒業証書に履修項目が記されている。終身、国語、漢文、数学、地理、歴史、理科、家事、図画習字、音楽、裁縫、手工、体操とある。

投稿時刻 18時52分 ツヤ・その周辺 | 個別ページ


2010年4月 1日 (木)
ロシア正教伝来
 ツヤは幼年期洗礼を受けキリスト教徒となった。彼女が寄り添ったのはキリスト教の中のロシア正教である。ロシア正教とは何なのか。

 キリスト教は聖書(Bible)を教典とする。聖書を教典としている宗教はキリスト教の他に、ユダヤ教とイスラム教がある。聖書には「旧約聖書」と「新約聖書」があり、キリスト教は両方を正典としているが、ユダヤ教は「旧約聖書」を唯一の「聖書」としている。また、イスラム教は両方の一部とコーランを教典としているが、内容に矛盾のある場合はコーランが優先される。

 キリスト教には、西方教会と東方教会の二種類の大きな流れがあり、東方教会は、正教と東方諸教会とに、西方教会はカトリックとプロテスタント等に分かれる。現在、キリスト教は上記の他にも教派が存在し、「異端」と呼ばれている教派もある。しかし、正教、カトリック、プロテスタントの三つの系統が大きな流れと言ってよい。

 正教会(Orthodox Church)はギリシャ正教もしくは東方教会とも呼ばれている。正教会は国名や地域名を冠したものが多く、ロシア正教会、ギリシャ正教会、ルーマニア正教会、日本正教会・・・、と呼ばれているがこれらは正教会の組織名であり、それぞれが違った教派ではない。しかし、シリア正教会、エチオピア正教会等も「正教会」を名乗っているが、ギリシャ正教と呼ばれる正教会とは別の東方諸教会教派に属している。

 正教会のうち、日本にはロシア正教会が最初に伝来した。1861年( 文久元年)、ニコライが函館にやって来たのに始まる。

 1868年(慶応4年)、日本人でニコライから最初に洗礼を受けた日本人三人の内の一人、パウェル沢辺琢磨は土佐藩士で坂本竜馬の従兄弟にあたり、函館で剣術を教えていた時ニコライに出会い、後に司祭となっている。司祭となった琢磨は1875年(明治8年)頃から各地で多くのクリスチャンを育てている。先日、NHKの大河ドラマ「竜馬伝」でその人のことをやっていたようだったとワイフから聞いた。ここで興味を覚えるのは1859年生まれのツヤの母・モトヨの元にロシア正教を持ち運んだ人物として沢辺琢磨が浮上してくる。ロシア正教が本格的に伝道者の育成に取り掛かった時期を明治8年とすると、モトヨは16歳になっており四国で琢磨に接していることは想像に難くない。一つにはモトヨが四国で最初にロシア正教の伝道を始めた一人であり、その伝道者を育てる活動に就ける者は琢磨ら数が限られていた。二つは坂本一族の在所である土佐の高知とモトヨを生んだ好井及び伊藤一族の在所、東伊予は屹立した四国山脈とはいえ、背と腹で接する「お向かい」さんであり、土佐街道を通して昔から交流のあった地域である。琢磨がクリスチャンの育成に、生まれ育った在所の周辺を目指すのは自然であろう。



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