カテゴリ「身辺雑記(無題)」の記事
2005年11月 2日 (水)
原風景
ブログの書き始めに先月撮った写真の中から、石鎚山の高峰を選んだ。
私はこの山の頂を遠くに臨みながら少年期をはぐくんだ。
この麓(ふもと)を国道11号線が走っている、ここは旧遍路道である。
春になると、白装束と手甲脚絆に身を固めたお遍路さんが行き交う。この道で、多くのお遍路さんを見やりながら多感な時期を過ごした。
その中で忘れられない光景のひとつに、母娘づれのお遍路さんがいる。
私の家の近くに迷い込んだふたりは、激しく降る雨をよけて民家の軒先にいた。年端のいかない娘をかばいながら、その母は握り締めた一円紙幣を両の手で懸命にしわを伸ばした。間断なく降る雨が母娘の足元に跳ねた。空はもう暮れようとしていた。
母娘は今日の宿を何処に求めたのだろうか・・・。
投稿者 愉悠舎 日時 2005年11月 2日 (水) 身辺雑記(無題) | 個別ページ
2006年1月 1日 (日)
めでたさも・・・
謹賀新年、とは言うものの暗い世相を反映して、気持ちの落ち着かない年明けとなった。
むしろ、「門松は 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」(一休禅師?)や「めでたさも 中くらいなり おらが春」(小林一茶)の句に気持ちが動く。
昨年は暗いニュースがこれでもかこれでもかとメディアを通してあふれ出た。「JR福知山線の電車脱線事故」、「幼女が被害にあった痛ましい数々の事件」、「欠陥マンション事件」等々、今年もこれらに似た事件が続くのかと思うと気持ちの落としどころに迷う。
今年もこの種の事件に歯止めがかかりそうもない、事件の根っこを取り除く大手術を施さない限りどうにもならないが、さてどうしたものか。
今年もわが家族はいたって平凡な新年を迎えた。ここ五、六年の間に母が逝き、娘は結婚して県外に出た。昨年は15年もの長いあいだ我が家に居着いていた猫が亡くなった。家からいなくなったそれぞれの家族に対する想いは、他人とは違った格別なものがある。私と家族の間にながれた葛藤の日々は、年月とともに徐々に膨らんでくる。
去った家族に取り残された私たち、連れ合い、愚息そして犬のジュン、ジュンは今年16年目を迎える。生まれて間もない子犬をもらってきたとき、娘が「北の国から」のTVドラマの主人公の名前を充てた。
今年残された三人と一匹のうち愚息は「わが道」を行き、私とは行動をともにしない。
連れ合いとジュンがここしばらくの道連れになりそうだ。
2006年が少しでも明るく、平和な社会になるように願ってやまない。
投稿者 愉悠舎 日時 2006年1月 1日 (日) 身辺雑記(無題) | 個別ページ
2006年1月13日 (金)
阪神杭瀬駅(其の壱)
阪神電車の杭瀬駅は兵庫県の東のはしに位置する。すぐそばを神崎川が流れ、橋を渡れば大阪市西淀川区である。
阪神間の下町を走る阪神電車沿線の中でも、その匂いをかぎとるのに手間のかからない、根っからの下町である。
私がこの駅を行き交った1970年代の初頭はまだ高架になっていなかった。駅に降り立つと尼崎の工場街から吹きよせてくる鉄錆の臭いに、ナッパ服の工場労働者の姿が絡み合う、異臭に満ち溢れた街であった。
30年を経た今、この駅頭に佇むと往時の匂いは漂ってこない、こざっぱりとした駅舎のたたずまいがこの街の雰囲気をそこねているのかもしれない。
それでも阪神電車の杭瀬駅は大阪にもっとも近い駅である。
投稿者 愉悠舎 日時 2006年1月13日 (金) 身辺雑記(無題) | 個別ページ
2006年1月17日 (火)
1.17、神戸の壁
阪神・淡路大震災から11年が経過した。愉悠舎に近い淡路志筑のしづかホール横に「神戸の壁」が移設されている。もともと神戸・長田の公設市場に防火壁として設けられていた。震災をくぐりぬけ、その後区画整理により取り壊される運命になり当地に引き取られてきたものだ。なぜこの地にあるのかわからないが、とにかく行き延びてここにある。
その壁を今日17日訪れた。あの日も今日と同じ火曜日であった。
壁に向かって黙祷した。
壁の横に次のような碑文が刻まれていた。『「神戸の壁隠れ文字の由来」、「神戸の壁」最上部のコンクリートが落下しそうになっていたのを取り外した。その中に、1927年建設当時に、左官が書いたと思われる隠れ文字を発見した。文字は「西ヤ東モタレカケテ 南クル人 北ガル」東西南北の語呂合わせを使い、市場の繁栄を祈ったものであろう。竣工にあたりこの地の繁栄を願い、現物は津名町で保存し、復元したものは、神戸・長田で展示している。2000年1月16日』。
61年前の神戸大空襲、11年前の震災と二つの大きな災禍を経験した壁は、はるか神戸を望みながら、何をかたりかけているのだろうか。
1月17日はしずかに時を刻みたい。
投稿者 愉悠舎 日時 2006年1月17日 (火) 身辺雑記(無題) | 個別ページ
2006年5月 1日 (月)
5月1日に想う
5月1日は世界がベトナムに沸いた日である。
1975年5月1日のメディアは前日、ベトナム解放軍がサイゴンに入城し、ベトナム南部が解放され、永かったベトナム戦争(1960年〜1975年)の終結を興奮交じりに報じた。
あれから25年後の2000年の秋、私はベトナムを訪れた。サイゴンはホーチミン市になり、戦禍をくぐって来た国土に根をはる人々の笑顔がまぶしかった。メコンはあの日のようにとうとうたる流れをたたえていた。アオザイの裾が風になびいていた。
解放軍がサイゴン市内からトンニャット宮殿(旧大統領官邸)に向かったこの通り(写真)を見渡せる宮殿のバルコニーに立った。そして、しばしの夢に浸った。
「60年安保に間に合わなかった少年」はベトナム戦争を生きた。
5月1日はメーデーである。
メーデーの始まりは、1886年のきょう、アメリカでシカゴの労働者が8時間労働制を求めてゼネストとデモを行ったことに端を発している。日本では1920年(大正9年)に上野公園で第1回のメーデーが開かれた。
近年、日本最大の労働組合組織、「連合(日本労働組合総連合会)」の中央メーデーは5月1日を避け、前倒しの日にち設定で行っている。メーデーは労働者が権力にプロテストする示威行為の日である。「闘い」の旗を降ろして久しい連合にとって、5月1日に人を集めることにためらいがあるのか、それとも労働者の心を彼方に葬り去った運動に恥じらいでも感じているのだろうか、権力に取り込まれてしまった「連合」の面目躍如といったところだろう。
5月1日は娘の誕生日である。
前日、神戸の小さな病院に入院した妻のそばで、てもちぶさたにしていた私をみた看護師さんが「いてもなにもならへんから帰っとき」と言われ、家に帰った。そのよく日未明、子供が生まれた夢を見た。その最中、電話で夢を中断された、娘の誕生であった。
それ以来妻は私のことを「薄情者」と言い続けている、そのときそばにいなかったために・・・。
投稿者 愉悠舎 日時 2006年5月 1日 (月) 身辺雑記(無題) | 個別ページ
2006年6月27日 (火)
梅雨の合い間
梅雨の合い間をぬって、海岸線の輪郭が浮き上がった。数日前に見た海沿いの風景なのに、随分ときが経ったような気がしてならない。
日曜日から月曜日にかけて知人が愉悠舎を訪れ、昨日の午前中神戸へ帰って行ったあと、そぼ降る雨の大阪湾を眺めながら日がな一日を過ごした。大阪湾は白くもやって何も視界に入ってこない。見えない海をもやのむこうに見ていると、処してきた過去に思いを巡らしてしまう。
生活のために稼がなくなって早いものであと3ヶ月で二年になる。「生活のために働く」ことを辞めるということは、こういうことなのかを実感する一年半余りであった。それは「誰にも遠慮がいらない」、「誰をも傷つけない」、「誰ともケンカしなくて済む」の「三つの誰」にひたれる日々であり、自らの意思以外に束縛される何ものも存在しないということである。
私のように何も持たない人間がまっとうに働いて得る金銭は、家族が生きて行くに等しいだけの稼ぎしかない。
その私でさえ、日銭を得んがために、周りに気兼ねし、人を傷つけ、不本意ながらケンカもする。
一企業に雇われ、企業の命令で、利潤の獲得に奉仕させられる。その過程で生起する人間世界の軋轢や、薄汚い手法による利得などは、きれい事で済まされるものではなかった。
莫大な金を投資で稼いだ人間が、その稼ぎ方を咎められ、逮捕される寸前に「お金儲けが悪いことですか」と、臆面もなく言い切った男がいた。大阪の道頓堀に近い島之内に育ち、阪神電車で神戸の学校に通った人間がいた。
私はそういう言葉を何のためらいもなく吐ける人間を、受け入れる事ができない。
投稿者 愉悠舎 日時 2006年6月27日 (火) 身辺雑記(無題) | 個別ページ
2006年7月11日 (火)
或る、孤高の作家
今朝、知人から一通のメールが届いた。訃報の知らせであった。
知らせてくれた女性は、かつて故人と同じ職場で働き、いつの日か故人との再会を楽しみに日々の生活に励んでいた。
サンケイのホームページから次の記事を拝借した。
『北川荘平氏(作家、文芸評論家)
北川荘平氏(きたがわ・そうへい=作家、文芸評論家)8日、肺炎のため死去、75歳。・・・ 「水の壁」が昭和33年の芥川賞と直木賞に同時ノミネートされたほか、「企業の伝説」「企業の過去帳」「白い塔」の3作品も直木賞候補に挙がった。 07/11
05:00 (産経新聞、ホームページより)』
北川氏と最後に会ったのは、氏がまだ勤め人としての生活を送っていた頃で、もう20年も前のことになる。その日私は出張で東京からの帰り、新大阪に降りた。知人に食事を誘った、「いま、北川さんといっしょ、どう〜」、私は道頓堀と大阪城の中ほどにある空堀商店街(写真)に向かった。このあたりは戦災の被害をあまり受けなかったので、今も戦前の面影が残る「懐かしい」街である。商店街の中にある居酒屋でしばしの談笑に時を忘れた。
氏は勤め人生活のストレスから体調のすぐれない日々を永年送っていた。その後、閑職に移り心身ともに健康になったと喜んでいた。閑職に追われて体調を持ち直すとは、なんと贅沢なことかと感じ入るが、大企業で企業のために働くことが、いかに氏の人生感覚からずれていたかがうかがえる。
私の拙文にもらった氏からの批評の数々は、私の財産として心の本棚にうず高く積まれている。
「文章は形容詞から腐ってゆく」、「いつも遠景から入っている、古典的手法だ」、「テニスのラケットで球を打つように、タメて打て」、「漢字が多すぎて硬質だ」、「平易に書け、平易な文章ほど難しい」、・・・。
人づてによると水泳界のスキャンダルを扱った「水の壁」が芥川賞と直木賞のダブル候補になったとき、どちらの選考委員も「これは直木賞(芥川賞)を受賞するだろう」と言ってはずし、結局どちらも受賞を逃したと聞いた。そのとき芥川賞を受賞したのは大江健三郎の「飼育」であり、直木賞のそれは山崎豊子の「花のれん」であったことも氏にとって不運であった。
氏が作家を志した頃のいきさつや勤め人生活から作家へ脱却し得なかった事情は、朋友高橋和巳のことを「文藝春秋」に書いた「小説・高橋和巳」(※)に詳しく述べられている。
時代を、そして文壇を憂いた孤高の作家だった。
(※)『高橋和巳の青春とその時代』(文春文庫)
投稿者 愉悠舎 日時 2006年7月11日 (火) 身辺雑記(無題) | 個別ページ
2006年10月 4日 (水)
まもなくブログ開設から一年
ブログを始めたのは2005年11月2日である。その日から11ヶ月が過ぎた。
私のブログはもともとホームページ(ウエブ版)を補完する目的で始めた。一年ほどでブログを止めようとも考えていた。
ウエブ版を含めてごく少数の友人・知人にしかその存在を知らせてこなかった。それでも今日現在、私の拙いブログへのアクセス数が12000件を超えた。ひと月に1000件以上のアクセスは私にとって小さくない数字である。
この一年間のアクセス数を一日で超えるようなブログも少なくないようであるが、それらに比べると取るに足らない数字である。しかし、私にとって月1000件は重い数字である。
私が外に向かって文章という表現方法を使う場合、たった一人のひとに語りかけている。一人でも読んでくれるひとのいることを信じて書く。そう思って書かなければ「こんな、しんどい」作業は継続できない。
読んでくれる人のいる幸せを感じながら、今後も続けて行こうと思う、肩の力を抜いて・・・。
投稿者 愉悠舎 日時 2006年10月 4日 (水) 身辺雑記(無題) | 個別ページ
2006年10月 8日 (日)
阪急十三駅
阪急十三(じゅうそう)駅は阪急の主要路線神戸線、京都線及び宝塚線の分岐駅である。梅田を出た特急電車は、まもなく十三駅のホームに滑り込む。
西口を降りると左右に飲み屋街が伸び、さらに交差点をわたると、ここも左右にさまざまな店のたたずまいが広がる。
ここは大阪有数の歓楽街として人々の欲望を飲み込んできた街である。ミナミとも違う、ましてキタの盛り場とも違う、色濃い風景とむせかえうごめく人間のため息が、淀川のみなもに揺れる街である。
駅の近く、ごった煮のような下町の、低い軒先が並ぶ一角に義妹の経営するスナックがある。
先日、近くのビルから引っ越してきた。その開店祝いに行った。
十三は義妹たちが暮らす町である。
投稿者 愉悠舎 日時 2006年10月 8日 (日) 身辺雑記(無題) | 個別ページ
2006年11月25日 (土)
灰谷健次郎氏逝く
一昨日、カーラジオで灰谷健次郎氏の逝去を知った。
氏と直接お会いして話をさせてもらったことはないが、土の匂いがする風貌に親しみを感じていた。灰谷氏の作品は風貌に似合わず「綺麗」な作品を書いていた。
文学学校に通っていた頃、氏の講義を受けたことがあった。受講生のひとりが灰谷氏の文学を「甘い」と批判したとき、氏は戸惑いとためらいを見せながら遠慮がちに反論していたのを、昨日のように思い出す。 灰谷氏の文学は「優しさ」であった。そこを突き抜ける「厳しさ」を指摘されていたのか、あるいは「理想」を語ることの難しさを、氏に訴えていたのかも知れない。
灰谷氏の作品「太陽の子」の舞台になった神戸の下町は、生活の糧を得るために、勤め人暮らしをしてきた私の職場から、すぐのところにある。露地裏の沖縄料理店「てだのふぁ・おきなわ亭」に生きる小学6年生の「ふうちゃん」と、その家族や周りの人々の明るく切ない日々を描いたものである。
灰谷氏はこの界隈を次のように描写している。
「造船所の正面にいたるまでの界隈は労働者相手の大衆食堂や酒場が軒をつらねている。すぐそばに市場があるので、早朝からとびかっているにぎやかな声は終日消えることがなく、夜は夜で、酔っぱらいの歌声やわめき声がおそくまできこえて、いったいこの町はいつ眠るときがあるかと思うほどだった。
・・・そこから南は、露地が格子もように通っている。つきあたりは港である。港には小さな造船所、船具店、倉庫などが目白押しにならんでいた。海はおびただしいはしけ、ダグボートの類で埋まってしまっていた」。(太陽の子 灰谷健次郎)
私の神戸の家から臨める丘陵地帯の団地に、灰谷氏が1983年に教師時代の仲間と「太陽の子保育園」を建てた。「自然との対話」を理念に掲げ、手造りの人間教育に力を注いでいた。
灰谷健次郎氏は1934年(昭和9年)、神戸市生まれ、享年七十二歳の生涯であった。氏のご冥福を祈る。
2006.11.25日 愉悠舎番人
投稿者 愉悠舎 日時 2006年11月25日 (土) 身辺雑記(無題) | 個別ページ
