
ブログ開設に寄せて(亭々の朝鮮半島)
今年、2010年は「韓国併合」から100年を経る。
私の祖父は「韓国併合」を前にした1907年(明治40年)、朝鮮半島に渡った。
釜山(プサン)に降り立った祖父は京城(現ソウル)に入り、その後各地を転々とした。
植民地を統治する警察官吏として、その任を全うするため、ソウルから北へそして南へと朝鮮半島を渡り歩いた。 朝鮮最後の任地は春川(チュンチョン)であった。1921年(大正10年)、栄達半ばにして退職願いを、後に2.26事件で凶弾に倒れた斎藤実朝鮮総督に出した。
退官した祖父はクリスチャンの妻と幼い四人の子供を連れ、再び海峡を越えた。
帰国した祖父はその後一度も官職に就くことなく生涯を終えた。
内地に帰った祖父は途中広島県の宮島に長逗留し、四国の松山へ帰りたいという妻の願いを押し切って、妻の故郷近くの新居浜へ降り立った。そこで米屋を営み生計を立てた。
祖父は米屋を他人に任せ、買い込んだ小舟と猟犬ポインターを伴侶に、釣りと猟に明け暮れ、暗い時代を生き継いだ。
日本の敗色が濃くなった1943年(昭和18年)、クリスチャンの祖母は寒さ厳しい朝鮮での生活とキリスト教徒の心労が重なり、加えて四人の娘を嫁がせた安堵からか55年の生を閉じ、天に召された。
祖母の遺言に次なる一文がある「父ちゃん(祖父)三十有余年の永い年月弱い私をいたわって、大事にして、私の為に、あの置位も捨て、内地に帰ってからは、つらい色々な事件を私と共に堪えて忍んで下さった・・・」、-つらい色々な事件-とは何なのか、祖父母の痛苦をたぐり寄せたい。
祖父は私が小学生六年の夏まで生きていてくれた。祖父は何も語らずただ黙って私を見護り続けてくれた。一度だって私を叱ったことがなかった。瞳の奥に宿した穏やかな微笑みしか今は甦ってこない。今、祖父の思いに耽る(ふける)とき、祖父は自分の生をどう生きたのか、己が時代に何をしたのか、何があったのか知りたくなる。そして、何ゆえに朝鮮半島に渡ったのか。
ここにもう一つの「朝鮮半島」がある。昨年暮れ私の友人から一通の手紙が届いた。朝鮮を故国とする父を持つその人は、今病床にある父の記憶を書き添えていた。その父は私の祖父が朝鮮を去る少し前の1919年(大正8年)慶尚北道(キョンサンクド)義城(ウィソン)郡に生まれ、16歳で一人満州へ、そこでチフスを患い死に場所を故国に求め義城に舞い戻る。
日本統治下の故郷で創氏改名を強要され日本語も教えられた。1940年、21歳で海峡を越え日本へ、樺太の三井鉱山で働き、終戦を筑豊で迎える。 戦後まもなく故国へ向かうに船に乗り込んだ金(キン)さんは、朝鮮での惨めな生活が嫌で翻意して一人下船した。釜山へ向かうはずだった帰国船はなぜか舞鶴へ立ち寄り、入港直前なぞの沈没、多くの同胞は海のもくずと消えた。半島を捨てた金さんは以後日本各地を転々とし、ようやく落ち着き先を神戸の近くに得た時には、齢(よわい)五十の半ばを超えていた。
「韓国併合」から100年経つ現在、日本政府は植民地的支配の愚行を明確に謝っていない。そればかりか、かつて他国の領土とそこに生きる人々の人権を踏みにじった苦い過去を正当化する動きも強まっている。ただ私には、祖父の朝鮮での14年は重荷である、重荷と言うよりも負い目となって私を苛(さいな)む。この桎梏を解くため、祖父や祖母そして金一圭(日本名:金本正一)さんの生きた朝鮮半島に「添い寝」が叶うならば私の本懐である。 2010年1月

咲くケシは紅く寂しく(「韓国併合」100年に想う)(2010.8.22 記)
今日、8月22日は「韓国併合」から100年の節目である。
併合前後の暗い谷間を日本人として、半島の端から端を渡り歩いた一組の夫婦がいた。一人は敬虔なクリスチャンとして、もう一人は朝鮮総督府の官憲として・・・、彼らの血を受け継ぐものとして「韓国併合」を、そして日本が半島を支配した半世紀を俯瞰すれば、キリスト教徒への干渉と弾圧の苦い歳月である。それは、朝鮮半島の夜に転々と灯る乏しいあかりの谷間に、ひときわ黒ずんだ滓(おり)の様にも映る。
私の祖父・義貞は「韓国併合」前後の14年間を朝鮮半島で過ごした。祖母・ツヤは11年間を・・・。 義貞は1875年(明治8年)元伊予松山藩の下級藩士の次男として松山に生まれる。薩・長・土・肥の藩閥政治が闊歩する明治の時代、かつて「朝敵」であった下級藩士の次男坊など「ゴミ」のようなもので、上の学校に行く財力もコネもない。日清戦争後の1896年(明治29年)、志願兵として「陸軍要塞砲兵射撃学校」に入る。同学校を卒業後、京都・大阪・神戸を護る要塞、紀淡海峡を挟む「由良要塞砲兵連隊」の守備に就く。そこで5年の兵役を終え、予備役に編入される。職を失った義貞は1902年(明治35年)2月、大阪に職を求め、難波警察署の巡査として再出発する、26歳の時である。
日露戦争の勃発により、1904年(明治37年)09月、補充兵として「善通寺野戦砲兵第十一連隊補充大隊」ヘ編入され、松山及び丸亀の俘虜収容所にて戦役に就く。俘虜収容所時代、義貞は自らの意思により一人のロシア人兵士を逃がした。日露戦争の終結により召集を解かれ巡査の職に戻るも、勉学の夢絶ち難く特科生として関西大学に学び、修法学士の称号を得、仙台におもむき、裁判所書記登用試験を受け合格するも、その矢先韓国統監府へ出向を命じられ渡朝する。
朝鮮に渡った義貞は京畿道(キョンギド)水原(スウォン)を皮切りに14年間の間朝鮮半島を転々とする。途中、「韓国併合」直後の1910年(明治43年)10月、その後の義貞の運命を大きく変えた真鍋ツヤと結婚する。ツヤはロシア正教の草創期を四国の西条で支えた母モトヨに伴われ、下関から釜山への連絡船に乗った。海峡に垂れ込む雲はどんよりと波間に寄りかかっていた。
釜山で義貞に出会ったツヤはソウルから南東へ100キロ余りの忠清北道(チュンチョンプクド)清州(チュンジョ)に行き義貞との生活を始めた。義貞は韓国統監府・朝鮮総督府の命を受け、半島を北へ東へ、そして南へと行き交った。途中、1912年(明治45年)6月、一雇用人の義貞は官吏に任用された。その道すがらツヤはキリスト教の伝道に専心した。
1919年(大正8年)、朝鮮半島に独立運動の機運が高まる中、「万歳事件」や数々の悲劇にツヤは心に深い傷を負った。中でも、提岩里(チェアムリ)の提岩教会で陸軍憲兵隊が起こしたキリスト教徒への虐殺はツヤの弱い躰に重い十字架を背負わせた。翌、1920年(大正9年)10月、ツヤと「日本帝国」の狭間で苦しんだ義貞は心をわずらった。同年12月、陸軍憲兵分隊が去った後に置かれた江原道(カンウォンド)の要所、春川(チュンチョン)警察署長として職務に耐えるも、翌年の夏、異動を機にツヤの心情を想い、朝鮮総督府を去った。
内地に帰った義貞はツヤと4人の娘たちのためにだけ「戦争の時代」を生き、戦後は私たち孫もそれに加わった。1956年(昭和31年)7月7日の朝、生涯清貧を貫いた義貞は長女・道子と孫二人の傍で永の眠りについた。
死床の横で私の作った七夕飾りの短冊が笹の枝に揺られていた。庭で紫の朝顔が咲き始めていた。在りし日、義貞はその小さな庭に咲かせたケシの花をよく眺めていた。朝鮮半島に広く栽培されていた禁断の花、ケシの花を・・・。