シネマの窓

カテゴリ「シネマの窓」の記事

2005年12月 9日 (金)
ALWAYS 三丁目の夕日


 時代は1958年(昭和33年)、ところは東京、戦後の混乱期を経て経済の「高度成長期」へと大きく舵を切った時代。その渦中に生きる庶民のさりげない日常を画いている。
 時代の象徴である東京タワーの下から上へと建てられてゆく風景を遠景におき、下町の濃密な人間関係が織り成す喜怒哀楽を当時の風俗の中に塗りこめている。パターン化された人情ばなしであるが新鮮だ。気持ちのなかにあたたかいものが落ち込んでくる。
 集団就職で都会に出てくる地方の子供たち、三種の神器(テレビ、冷蔵庫、洗濯機)と呼ばれた電化製品が家庭に進入し始めたころ、貧しくも懸命に生きる人々の哀歓を画面いっぱいに詰め込んでいる。
 47年後のいま、私たちは大きな忘れ物をあの時、あの場所に置いてきたのではなかろうか。

(於いて:ハーバーランド シネモザイク)
製作:2005「ALWAYS 三丁目の夕日」製作委員会
監督:山崎 貴
出演:吉岡 秀隆、堤 真一、小雪、堀北 真希、もたいまさこ
2005年/133分shine
投稿者 愉悠舎 日時 2005年12月 9日 (金) シネマの窓 | 個別ページ


2006年1月26日 (木)
死んだらあかん!平和への願いを込めて、「男たちの大和/YAMATO」

 一人の女が鹿児島県枕崎にやってくる。そこで老いた漁師神尾と出会う、女は大和が沈んだ地点へ「行かねばならぬ」という、女の養父内田が神尾と運命を共にした大和の乗組員であったことを知り、神尾は自分の船でアルバイトをしている少年をともない、三人で東シナ海へ舵を取る。そこから物語りは60年前にさかのぼる。

 大和に乗込んだ神尾を含む年少兵たちと、内田ら上官の心温まる交流を軸に物語りは展開する。
 一方で、軍隊の醜さや悲惨さも映し出す。暴力的制裁が横行する艦内、艦上での葬送シーン、最期を迎える兵士たちの所作、遺体安置所の設置、「死に方用意」、等々。
 死に行くものが同僚や部下に生き延びよとさとすむなしさ、死を前に「負けて日本が目覚める、そのための出撃だ」と、死に方用意を説く青年士官、戦争の持つ不条理を我々に訴えている。
 そして、彼らの背後には愛する家族や恋人がいた、それぞれの女たちがそれぞれの国訛りで発する「死んだらあかん!」の叫びは戦争を憎み、平和を愛する女たちの不戦の誓いであろう。男たちの大和は女たちの大和でもある。

 ラストシーン、神尾老人に代わって少年が舵を取る、少年に未来と希望を託し、それぞれの戦後は終わる。

 男たちの大和は戦争に巻き込まれてゆく名もなき多くの兵士や、その家族たちに視点を置いている。ひとたび戦争が起こればその犠牲となるのはこうした庶民である。庶民はいつも戦争反対である。

(於いて:三宮センター街 三宮東映劇場)製作:「男たちの大和 YAMATO」製作委員会
原作:辺見じゅん「決定版 男たちの大和(上・下)」(ハルキ文庫刊)
監督:佐藤純彌
出演:反町隆史、中村獅童、松山ケンイチ、内野謙太、
   橋爪遼、渡辺 大、崎本大海、仲代達矢
2005年/146分  
投稿者 愉悠舎 日時 2006年1月26日 (木) シネマの窓 | 個別ページ


2006年2月 2日 (木)
博士の愛した数式

 新任数学教師ルートは高校生を前に自己紹介をする。なぜ数学教師になったかと、19年前の1985年に出会った数学者のことを、黒板に数字を描きながら語り始める。

 10歳のルートは母と二人で暮らしている。
 シングルマザーで家政婦をしている母は、交通事故の後遺症のため記憶が80分しか持続できなく、義姉の世話になっている数学者のもとに派遣される。
 そこへルートが通うようになる。
 母子はその数学者を博士と呼び、三人の交流が始まる。
 夫の死後博士に複雑な思いを寄せる未亡人の義姉が絡み、美しい風景のなかにゆったりとした日々が流れてゆく。
 記憶の持続が困難な博士は、数字を使って記憶の欠落を埋めようとする。
 少年をルートと呼び、数字の暖かさ美しさを母子に説く、1とその数以外に約数がない素数の孤高や、すべてをかくまうルート(√)の寛大さ等々、そして博士は数学は心だと言う、母子と博士のあいだに通うぬくみにジーンとくる。
 数学を、学問を修めることは金儲けの計算をするためにあるのではない、人に対する思いやりや、気高さを育むことである、博士はこう私たちに語りかけている。

 自己紹介を終わった教師に生徒の一人が声をかける「ありがとう」、心にしみるさわやかな作品である。

(於いて:三宮 国際松竹)
製作:「博士の愛した数式」製作委員会
監督:小泉堯史
原作:小川洋子
キャスト:寺尾聰(博士)  深津絵里(家政婦)
     吉岡秀隆(ルート)浅岡ルリ子(未亡人)
2005年/117分
投稿者 愉悠舎 日時 2006年2月 2日 (木) シネマの窓 | 個別ページ


2006年2月 8日 (水)
単騎、千里を走る。

 東京から遠く離れた漁村で、漁師として暮らしていた高田に息子・健一が病に倒れているとの報に接する。
 上京した高田を息子は拒否する。
 健一の妻・理恵から渡されたビデオテープ、その中に健一が中国で舞踏家の李加民に語りかける、「来年、李さんの“千里走単騎”を撮りに来る」という場面にひっかかる。
 余命いくばくもない息子に替わって中国に向かう高田、紆余曲折を経て李加民の演じる「単騎、千里を走る」をビデオに収めるまでの物語である。
 「単騎、千里を走る」は京劇が演じる仮面劇のひとつで「三国志」にそのみなもとを発している。
 「単騎千里を走る」を撮るまでに高田が出会う人々との心の交流、人間が人間と目を見つめあいながらしか生まれない琴線の触れ合いを、雲南省麗江の素朴な風景・風俗の中にうまく溶け込ませている。中でも高田を歓迎する戸外での宴会は桁違いの大陸文化の壮大さを見る。

 はなしの進め方にに荒っぽさや、無理な展開が多々見られはするが、それでも観るものを充分に納得させるのは、国は違えども一期一会の巡り合いに全力でぶつかってゆくシンプルな人間の、真摯な姿に圧倒されるからであろう。

 人が人に寄りかかってゆこうとするとき、その息づかい、その肌触りを共有しなければ何も生まれない、牧歌的な中国西南部の風物の中でそれが際立つ。

(於いて:三宮 OS三劇)
製作:Elite Group(2004) Enterpries Inc.
製作協力:東宝映画
監督:張芸謀(チャン・イーモウ)
日本編監督:降旗康男
キャスト:高倉健(高田)、中井貴一(高田の息子 健一)、寺島しのぶ(健一の妻 理恵)
2005年/中国・日本/107分
投稿者 愉悠舎 日時 2006年2月 8日 (水) シネマの窓 | 個別ページ


2006年2月14日 (火)
いつか読書する日

 山に囲まれた坂の多い町に生きる、ごく普通の女の話である。
 大場美奈子の作文が読み上げられる中学時代、彼女は一生この町で生きてゆく決意をする。
 そして現代、美奈子は朝、牛乳配達を終えるとスーパーのレジにむかう、夜、家に帰り本に囲まれた部屋でひとり過ごす。
 50歳になった美奈子は今日もきのうと同じ時を紡いでゆく。美奈子はその昔、今も同じ町で暮らす男性、高梨槐多との苦い過去がある。高梨には命を限られた妻がいる、美奈子は高梨に対する想いを山あいの谷間に封じ込めて、牛乳ビンの触れ合う音とともに坂道を駆け上る。

 生まれた町を離れないと誓った美奈子は、どんなことがあってもこの町から逃げない。人は現状の生活からの脱出を求めて遠心力を働かせる。美奈子はこの町や現状に対して、それを受け止め、その中心部に向かおうとする求心力で生きる。その生き方は小さいが深い、そして美しい。

 亡くなった母の友人である皆川敏子は美奈子に問いかける「別の生き方があったのに」、美奈子は応える「私はそう思わないことにしている」と、この町と自らの来し方をきっぱりと肯定する姿勢は凄烈だ。
 凡庸に生ききるということは、非凡な才能がいるのかもしれない。

 美奈子の夢は「この町のみんなに牛乳を配ること」である。壮大な夢に向かって美奈子は、この日本のどこかで今日も靴音を響かせていることだろう。
 (於いて:新開地アートビレッジセンター)

製作:パラダイス・カフェ パグポイント・ジャパン
監督:緒方明
出演:田中裕子、岸部一徳、仁科亜季子、渡辺美佐子、上田耕一
2004年/127分
投稿者 愉悠舎 日時 2006年2月14日 (火) シネマの窓 | 個別ページ


2006年2月16日 (木)
ホテル・ルワンダ

 話題の作品「ホテル・ルワンダ」が関西に上陸したので早速観に行った。
 「アフリカのシンドラー」と呼ばれたポール・ルセサバギナがルワンダにおける民族紛争の渦中で、1200人余りの人々を虐殺から救った、事実にもとづいた物語である。

 ヨーロッパ列強の植民地政策によりフツ族とツチ族の確執が永く続いたルワンダ、1994年、虐殺の犠牲者は100万人に達した。

 ルワンダのベルギー系四つ星ホテルで働くポールは優秀なホテルマンで、黒人としては稀な支配人の地位を確保し、将来に望みをつないでいた。ポールはフツ族だが妻・タチアナがツチ族のため、家族は危険にさらされていた。
 家族だけでも脱出させようとしたポールだが彼を頼ってホテルに避難してくる大勢の人々を見捨てることができず、けっきょく彼らと運命をともにする。ホテルマンとしてやしなってきた知と力を駆使し、虐殺者たちに立ち向かってゆく、それも「世界」から見放された中で・・・。
 英、仏、米国はルワンダにメリットなしとして、ルワンダの状況を黙殺する。農民と湖で漁をする漁民が大半のルワンダには、もはや収奪するなにものもないということだろうか。それで思い出すのはイラクに侵攻したアメリカが「非協力的な態度をとった国には、復興事業を請け負わせない」といったことである。列強が介入する戦争は当事国の利益のみが優先される。

 ポールはいわば被虐殺側に身を置く人間である。妻や子供たちの身を守るだけでも至難のことである。ナチに身を置き、ナチの虐殺から千数百人の命を救ったシンドラーよりも、ある意味過酷な条件下での闘いを強いられたといえるかもしれない。しかしながら、孤立無援のなかで闘ったシンドラーと違って、この修羅場の外へ人々を送り出せば、護ってくれる人々がいるという希望が、決して強くない立場のポールの心を衝く動機になったのではなかろうか。

 西欧の塵あくたに染まった人間がその身を省みず、救いを求める同胞に手を差し伸べるに至った崇高な精神を、なんの気負いもなく描いている。

 いつの時代にも、いついかなる場所においても、人間の尊厳を踏みにじるものに対して、身を挺して立ち向かう人々のいることに心をつよくする。

(於いて:109シネマズHAT神戸 No.10)
キャスト
ポール・ルセサバギナ:ドン・チードル
タチアナ・ルセサバギナ:ソフィー・オコネドー
スタッフ
製作:A・キットマン・ホー、テリー・ジョージ
脚本:ケア・ピアソン、テリー・ジョージ
監督:テリー・ジョージ
原題:HOTEL RWANDA
協力:『ホテル・ルワンダ』日本公開を応援する会
2004年/イギリス・イタリア・南アフリカ/122分
投稿者 愉悠舎 日時 2006年2月16日 (木) シネマの窓 | 個別ページ


2006年2月28日 (火)
マラソン

  昨年ヒットした韓国映画の再映が明石、芦屋と廻り今日、神戸にやってきた。
 自閉症の息子とその母が障害を乗越え、フルマラソンに挑む実話に基づいた物語である。
 自閉症の障害を持つチョウォンは「走る」才能を母・キョンスクに見いだされ、走る喜びを知る。マラソンを通して息子の自立を願うキョンスクは、厳しさと時には過保護なまでの愛情を注ぎながら、子との二人三脚の旅に出る。
 かつて名ランナーとしてその名をはせ、今は身を持ち崩しているチョンウクにコーチを懇願し、渋々引き受けたチョンウクがチョウォンの才能に惹かれ、自らも立ち直ってゆく。
 チョウォンに目を向けすぎるキョンスクとチョウォンの弟や夫との行き違い、それでも深いところで通じ合っている家族の絆、それらが心地よい調和を見せながら物語が進んでゆく。
 自閉症の子は他者に無関心と言われる中で、ともに走り終えたチョンウクにチョウォンが、自分のペットボトルを差し出すシーンに、人が人に愛情を持って接すれば応える人間の可能性を確信する。それは自閉症や心を閉ざしている子を持つ多くの親や、人を信じようとする者に大きな勇気を与えてくれる。
 「息子より一日でも長く生きる」ことをよすがとするキョンスクの思いを超えて、チョウォンは引き止める母の手を解き、42.195Kmを駆け出してゆく。
 母はその時はじめて子から自立する。
 ソウルを流れる漢江(ハンガン)の風景や、チョウォンがフルマラソンを走る春川(チュンチョン)の川沿いの風景が素晴らしい。

(於いて:神戸文化ホール)
(スタッフ)
製作:シネ・ライン・ツー
監督:チョン・ユンチョル
(キャスト)
ユン・チョウォン:チョ・スンウ
キョンスク(母親):キム・ミスク
ソン・チョンウク(コーチ):イ・ギヨン
2005年/韓国/117分
投稿者 愉悠舎 日時 2006年2月28日 (火) シネマの窓 | 個別ページ


2006年3月 3日 (金)
ミュンヘン

 1972年、ミュンヘン・オリンピックの開催中にイスラエル選手村がパレスチナゲリラに襲われ、多くの犠牲者を出した事件を題材に、スピルバーグ監督がテロの絶えない現代社会を鋭く告発している。

 イスラエル政府は報復のために暗殺団を世界に放つ、その首謀者であるアヴナー(エリック・バナ)をはじめ5人の暗殺者たちの行動と心理を緻密に画いている。
 アヴナーは家族や親を犠牲にして任務にあたる。暗殺を成しえると、今度は殺された側に後継者がでてくる。果てしない報 復劇がいつ果てるともなく繰り返される。アヴナーはこのような任務に疑問を持ち、イスラエル政府にも反抗するようになる。

 殺し合いを繰り返しても得るものは何もない、真の解決から遠くなるばかりである。世界のあちらこちらで繰り返されるテロや殺戮は失うものばかりである。

 ユダヤ系のスピルバーグ監督がイスラエルより、むしろパレスチナに気持ちを置いているように映ったのは意外である。

 スピルバーグ監督が扱ったこの種の社会的な作品を見たのは「シンドラーのリスト(1994年)」、「プライベート・ライアン(1998年)」に続いて3作目だが、前者と比べて裡(うち)に重なり合って沈んでゆく澱のような重苦しさを感じた。

(於いて:109シネマズHAT神戸 No.10)
監督:スティーヴン・スピルバーグ
出演: エリック・バナ 、他
2005年/米国/164分
投稿者 愉悠舎 日時 2006年3月 3日 (金) シネマの窓 | 個別ページ


2006年3月15日 (水)
るにん

 のっけからショッキングなシーンである。丸籠に入った流人が崖の上から海へ突き落とされる。死刑の執行である。この場に同席を強要された中に、江戸吉原で火付けをし流人となった豊菊(松坂慶子)がいた。自らの密告で死罪となった流人の最期を豊菊はうつろな目をして眺めていた。

 流刑地八丈島で流人は五人ほどに組み分けされ、自給自足に近い生活を送る、そのための島内移動は認められている。ここには支配維持の五人組制度があり、連座責任を課す相互監視と密告が渦巻いていた。

 豊菊はご赦免を受けて江戸へ戻るため、生き延びる手段として体を売り、あるときは密告に活路を見出そうとする。
 そんな折、博徒の罪で喜三郎(西島千博)が流されてくる。喜三郎は海を見渡せる場所で潮の流れを見続ける。流人仲間の武士・近藤富蔵(島田雅彦)から波荒い瀬を渡れる時期のあることも教えられる。
 島抜けに失敗して死罪にあった花鳥(麻里也)らを目の当たりにした豊菊は、島抜けを決意し喜三郎らとともにしじまをついて船を漕ぐ。

 底辺に生きる流人の哀歓を群像として画ききっている。奥田瑛二氏の監督2作目、完成度の高い作品に仕上がっている。氏の次作が待ち遠しい。

 映画館の前で見たポスターが、主人公の結末を予測する斬殺の場面であった。ネタばれのようなラストシーンをポスターに使用していることに好感を持った。映画はストーリではない、内容なのだ。

(於いて:109シネマズHAT神戸 No.2)
監督: 奥田瑛二
出演: 松坂慶子,西島千博,小沢まゆ,麻里也,島田雅彦
企画・製作:ゼロ・ピクチュアズ
原案:團紀彦
脚本:成島出
音楽:三枝成彰
公開: 2006/1
2004年/日本/149分
投稿者 愉悠舎 日時 2006年3月15日 (水) シネマの窓 | 個別ページ


2006年3月19日 (日)
手紙

 2002年の製作、03年の上映作品である。再映の上掲ホール、神戸の長田へ出かけた。

 代々続く郵便局の家族と、その周辺の人々の日常を、コンパクトな35mmのフィルムに映している。

 世襲制が温存されている反民主主義的な特定郵便局の存在を、無批判的に画いているものの、人の心を手から手へ運ぶ郵便配達員とその家族の暮らしとありようを、やさしく見つめているカメラアイに共感を覚える。

 金沢の郊外二俣町、ここに暮らす大森恒一(古谷一行)は代々続く郵便局を父・大森源司(小林桂樹)から譲り受けず、足の不自由な妹・二三子(丸山秀美)に託し、金沢市内の郵便局で配達員の仕事を続ける。恒一の妻・早穂子(風吹ジュン)は東京からこの町にやってきて恒一と結婚し、今はスクールバスの運転手をしている。恒一の家族はもう一人、東京でミュージシャンを目指す音信不通の息子・武志(神部冬馬)がいる。
 心優しき家族と、家族をとりまく人々が手紙を通して織り成す心の触れ合いを、恒一が届ける「手紙」を媒介に紡いでゆく。

 手紙とは手で書く紙である、人の多くが手紙を書かなくなって久しい、隣の人にEメールで会話する世の中である。気持ちの伝わらない時代に気持ちを届けようとする人がいる。
 さあ みんな~、パソコンの手を休めて出かけよう、あなたへの手紙を受け取りに・・・。

(於いて:新長田ピフレホール)
監督:松尾昭典(元日活株式会社監督)
出演:古谷一行、風吹ジュン、小林桂樹、辰巳琢郎、矢崎滋、田中隆三、丸山秀美、川上麻衣子、長門裕之、菅井きん、神部冬馬、斉藤洋介
音楽:三枝成彰
脚本:渡辺喜則
製作:「手紙」製作実行委員会/�ビジュアルアート研究所
2002年/日本/ビスタサイズ/106分
投稿者 愉悠舎 日時 2006年3月19日 (日) シネマの窓 | 個別ページ