ツヤ・その周辺
2016年6月23日 (木)
余聞・鐘の鳴る丘少年の家
♭緑の丘の赤い屋根 とんがり帽子の時計台 鐘が鳴ります キンコンカン♭・・・
社会事業に尽力した真鍋頼一はあの鐘の鳴る丘とも関係が深い。
「鐘の鳴る丘少年の家」に関わっていた頼一を偲び、「少年の家」の園長が頼一の伝記発刊に当たり「真鍋先生の思い出」を寄せている。
その中で興味を引くのは「少年の家」で育ち後に功を成した少年が、ツヤ・頼一の同郷の往生院(おうじょういん)村の出自である。
・真鍋先生の思い出 品川 博

私が初めて真鍋先生にお会いしたのは多分昭和37年だったと思います。
下北沢の教会で前橋教会の森下徹造先生とご一緒にお会い致しました。・鐘の鳴る丘少年の家がCCFに加入できたのは真鍋先生のお力添えあったからなのです。その時はそのご挨拶に伺ったように記憶しております。
CCFに加入致しましてからは時々お目にかかっておりましたが、昭和43年に鐘の鳴る丘の二十周年の祝賀式典のために記念碑を作る事になりその記念碑に聖句を刻る事になりました。その聖句を真鍋先生に揮毫をお願いしましたところ快く引き受けて下さり、その後何回か自宅にお伺いして見ておるところでマタイ伝第七章の七節より八節までを書いて下さったのです。
求めよさらば与えられん
尋ねよさらば見出さん
門を叩けさらば開かれん
昭和四十三年四月二十一日遠く岡山から池田隆政、厚子ご夫妻お父様の池田宣政氏始め真鍋先生は奥様とご一緒に見えました。お客様は1000名を越える誠に盛大な祝典でした。
式と共に記念碑の除幕式が行われ少年の家の卒業生の子供即ち二世たちの可愛い子供が除幕しました。
先生は大変に喜んで下さり私も良い記念と共にご恩返しが少し出来た様で嬉しく存じました。
私が育てた戦災孤児伊藤幸男はアメリカの大学を卒業して、現在アメリカで活躍中で最も大きな成功者ですが不思議な事に本籍地が四国の往生院村で真鍋先生と同じ村で先生が存命中ならどんなにか喜んだことと思います。その後ご逝去の時は葬儀にも参列しましたがお父様を失った様な悲しみでした。
聞くところによれば先生の書かれたものは他には殆どないとの事、良い記念になったと今、私達の心の中に生きている先生の良き証しとして大切に保存したいと存じます。
昭和五十年五月 (鐘の鳴る丘少年の家園長)
鐘の鳴る丘
鐘の鳴る丘少年の家(かねのなるおかしょうねんのいえ)は群馬県前橋市堀越町にある児童養護施設。法人名「社会福祉法人 鐘の鳴る丘愛誠会」。1947年、菊田一夫作のラジオドラマ「鐘の鳴る丘」に感銘を受けた初代園長の品川博が創立した(養護施設認可は1948年)。1972年から特別養護老人ホームも併設する。
施設の建物には「鐘の鳴る丘」の物語に合わせた、赤いとんがり屋根の時計台がある。
孤児収容施設の職員だった品川博は、子供たちにより良い環境を与えるため、当時話題のNHKラジオドラマ「鐘の鳴る丘」のような施設の設立を目指して1947年に独立した。品川は5人の孤児と郷里の群馬県で生活を始めるが、ほどなく運営に窮し、「鐘の鳴る丘」の主人公の加賀美修平に相談すべくNHKを訪ねる。品川は加賀美が架空の人物と知って愕然とするが、そこにたまたま作者の菊田一夫が居合わせたことにより菊田の助力を受けられることになった。
品川の活動が菊田らによって紹介されることにより、ようやく資金も集まり、1948年9月、晴れて養護施設として認可され、群馬県前橋市に「少年の家」がスタートした。はじめは8畳2間だったという。(
Wikipedia 最終更新日 2014.10.30)
投稿時刻 20時55分 ツヤ・その周辺 | 個別ページ
2016年6月 9日 (木)
愛読書・道子
今は亡き、私の母・道子は生前よく言っていた。
「神は心のなかにしかいない」。
母の言っていた意味を私なりに理解はしていても、ズボラな私はその深み拡がりの緒にもついていない。
母が亡くなった時、母が長年お世話になった鈴蘭台教会(日本キリスト改革派教会)の入船牧師に告別式全般をお願いした。その時、入船牧師とキリスト教について話す機会があった。
私は生意気にも「キリスト教とはヒューマニズム・・・」、と。
その言葉に対して入船牧師はいたく感動された。
「ときどき談笑しましょう」と。

その時、購入したのが画像左の聖書。
それから一年余り、入船牧師は肝臓がんに倒れた。
入船牧師の聖書はまだ読破せずにいる。
母の没後、母がよく紐解いていた書物が棚の一隅に並べてある(画像右)。
投稿時刻 16時13分 ツヤ・その周辺 | 個別ページ
2016年2月25日 (木)
ニコライ神学院から青山学院へ

大叔父・真鍋頼一は東京へ、祖母・ツヤは時を同じくして京都へ遊学した。
頼一は1902年(明治35年)9月、駿河台の日本ハリストス正教会神学院へ入学した。
正教会の神学生となった頼一は、3年生の時神学院を退学している。
ニコライ神学院を辞した理由を同僚の方が書き残している文章がある。
頼一の人となりを語るに相応しいエピソードであるので、以下にその全文を記す。
・神学生時代の真鍋頼一さんのエピソード
日本正教会理事兼機関紙「日本正教」編集長 真鍋歴山
日露戦争の直後、明治三十八年の九月に私は正教神学校(ニコライ神学校)に入学した。その時一級上のクラスに真鍋頼一さんがいた。同姓であり同じ郷里の四国の出身ということで私は特に親しみを感じた。
といってもそれは僅かな期間で、一年間の少しばかりに過ぎなかった。彼は突然退学して姿を消した。後で解ったことだが青山学院の神学部に転校していたということであった。
それから長い間三十年間も頼一さんと会うこともなく過ぎた。
世界大戦が終った昭和二十年ごろ私はニコライ堂教団を代表してキリスト教連合会のメンバーとして今泉老牧師等と共に対米軍又は日本当局などに交渉していた。そんなことで銀座の聖書会館ビルにしばしば出入りするようになった。そこの事務所で久しぶりに頼一さんにお目にかかった。
それから以後米軍の援助物資の配給その他公私共にずっとお世話を受けることになった。殊に晩年は同窓のよしみでいろいろと親しいおつき合いをさせて頂いた。
× × ×
さて頼一さんが何故ニコライ神学校を退学したか、そのいきさつをお話ししたい。
話は六十年もの大昔のことで多くの人はこの世を去り、恐らく記憶しているのは私一人かと思われるので遠い青年時代を追走しながら老人の昔噺しと思ってお聴き願いたい。
頼一さんが十八才の神学校三年終の時であった。フトした事から病気となった。遠い四国の郷里に帰省するよりはと伊豆の修善寺温泉に静養することとなった。
旅館は菊屋という豪華な一流ホテルで貧乏神学生の泊まれる所ではなかった。当時宮様とか一流紳士のみの旅館であったから・・・・・・
所が菊屋の主人野田さんは早くからニコライ大主教のファンであって洗礼を受け熱心な正教信者であった。今も当時野田さんは独力で建てたという立派な聖堂があるが、修善寺の主なる人は皆様の導きで正教信者となっていた。そんな訳で神学生の頼一さんを喜んでお世話したものと思う。
その菊屋旅館には年頃の娘さん三人があった。彼女等は皆ニコライ神学校女子部に入学していた。二番娘の菊子嬢も夏休みで帰省していた。中でも美人で才女であったが頼一さんとは忽ち親しくなり長い夏休み中二人はいつの間にか相愛の仲となっていた。
長いような短いような(二人にとって)夏休みも終りそれぞれ学校の寄宿舎に帰えった。両人の間には綿々たる文通のあったことはいうまでもない。どんなに隠しても厳格な寄宿舎生活の中ではいつとはなく学生間の評判となった。
当時ニコライ神学校男子部だけでも100人に近い神学生がいた。中には一人や二人は変な性格の者もあった。七年生に青木精一君というのがあり後に衆議院議員となり政務次官にもなった男がいた。
彼は丁度頼一さんの寮の寮長であったがおせっかい焼きで或る日ひそかに頼一さんの机から菊子さんからの手紙を取り出した。彼の考では神学者にあるまじ事として校長や舎監に持ち出し問題にするつもりであった。神学生の大部分は頼一さんに味方していた。美しいプラトニックな恋愛に心から拍手を送っていたので青木氏の態度を大に非難したものであった。
こんにちとは違い明治時代の学生は男女七才にして席を同うせず式の教育を受けていた。殊に厳格な神学生生活として男女の交際を罪悪視する者も少くなかった。
神学校当局としては特に校則を破ったという訳ではなく相手は又良家の子女であり問題にするつもりはなかった。
単調で半ば修道院のようなキリスト旧教の神学校内で頼一さんたちの恋愛問題は噂の種となり評判となった。頼一さんとしては内心面白くなかったであろうことはいうまでもない。友人にも相談せず頼一さんは突然退学して姿を消した。
× × ×
聞く所によると菊子嬢は世話する人があり某海軍将校に嫁したが余り幸福な生活ではなかったいうことである。美人薄命早くこの世を去り、菊屋の娘三人の中の末娘の折香さんが今も修善寺町に帰って生きているが彼女も既に八十四才の老女となっている。
先年アメリカから見えたビショップのペンジャミン師を案内し修善寺教会を訪ね二、三日菊屋に滞在し私もお供したが同姓同業同年輩なので修善寺の年寄り信者の二、三の者は私を頼一さんとまちがえ菊子さんの「あの人が」見えられたと噂させられ、とんだ名誉(?)ある話の種となったことがあった。しかし恐らくこんにちでは例の折香さん以外真相を覚えている人は生き残っていないだろう。
頼一さんは生存中、同窓会などで『私はニコライを追放された者だから・・・・・・』などと笑って冗談を言っていたのを想い出す。
一九七四年初夏
(真鍋頼一先生の生涯 青山学院)
投稿時刻 07時53分 ツヤ・その周辺 | 個別ページ
2016年1月25日 (月)
少女・ツヤその時代
ツヤの兄・頼一が志を立て上京するまで、常に頼一に寄り添い、兄の庇護の下に育ったツヤの少女時代。
ツヤの少女時代を知るよすがとして青山学院発行の真鍋頼一伝より該当部分を抜粋し、以下に掲載する。
なお、同文は過去にも掲載したが今回、同部分の全文を掲載する。
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(1)時代
興亡盛衰、目まぐるしく変転する戦国時代に、この四国地方は長宗我部元親のとった和戦両用の構えの一領具足の巧妙な戦法が活用された。農民はひと度戦雲急を告げるや、鍬の柄に武器、兵糧、草履などをくくりつけて、いざ出勤命令とばかり、農具を投げ捨てて具足一領、馬一匹を持って戦場にのぞんだ。
この戦法によって、この四国地方も長宗我部元親の統制の時代は比較的平穏を保つことができたのである。
真鍋頼一は、こうした平穏な国土と時代とを背景として育くみそだてられて行ったのであった。
(2)家系

真鍋頼一の祖父は四国伊予の国新居浜に近い海岸町の西条に住み、元村上十兵衛といった。その後伊藤家を継いでから伊藤十兵衛といった。西条では町奉行の勘定方を仰せつけられ西条常心の農事の監督をしていた。その後、廃藩置県となってからは西条の町の情勢は一変して財政の基盤が動揺するようになった。
伊藤十兵衛は勘定方とはいえ、ご多分に洩れず、その暮らしむきは決して生やさしいものではなかった。初めのうちは下駄商を営んでいたが、生来身につけたことでもなく、慣れないことどもが多く、失敗が度重なった。
こうした中で、妻のヤスは傾いた家を復興しようとして、不慣れながらも百姓に従事してみた。一方年頃の娘、元代は真鍋家の幸之助に嫁いでいったが、それとても資産のない幸之助に身柄一つで嫁いだわけで、その生活は決して楽ではなく、その日の暮らしにも窮した程であった。
明治二十九年といえば、日本国中は日清戦争の大捷で沸いたときであった。
話は昔にもどるが、当時、西条で諸大名や武士に金銭の融通や、両替をしているいわゆるおかけやの矢野一族と真鍋家とは昔ながらの深いつながりがあった。その関係から、幸之助は、この矢野家の次男誉三郎を新居浜の旧家白石家に入婿のあっせんをしたことがあった。この花嫁の従弟に当たるのが加藤恵義といい、さきの白石誉三郎(明治十年)と真鍋頼一(明治二十年)とで、「三人従兄弟」といわれ、しばしば引きあいに出される程の親しい間柄であった。
その頃、伊藤十兵衛は醸造業を開始したが、別段これといって商術に長じているわけでもないが、商売が順調にすすんで家計を元に興せる状態になった。
さきに元代を嫁に娶った幸之助は気弱な性格で、男一匹自分から労苦を背負って立つ程の度胸のもち主ではなかった。
こんなことから、いま時、醸造業で順調にすすみかけた嫁方の伊藤家に頼ってゆき、醸造米をかける水車の仕事に当らせてもらった。幸之助の住んでいる所は西条から二里程奥に入った伊予の国新居郡往生院津越という出会いの小部落で、そこにある一軒家であった。頼一は父幸之助、母元代の三男として明治二十年五月七日に生れたが兄の憲一と綾助の二人は父の水車の仕事に従事していた。少年頼一は兄等の従事している仕事を傍で見ていて時に手伝いをさせられたので、いつの間にか仕事を覚えてしまった。
一家で従事している水車の米つき仕事も次第にはかどってゆくようになり、暮しもそれについてゆくようになったが、その矢先、思いもよらない長雨で川が氾濫してしまい、惜しいことに折角の水車が流されてしまった。幸之助としてはこの水車に暮らしの全部をかけていただけに、生来のひ弱な幸之助は途方に暮れてしまった。しかし、この幸之助の性格と打ってかわった女丈夫な妻の元代は健気にも水車を失った小屋の中で気落した顔を子らに見せまいとして、敢えて晴れやかな面持をして、手ずから米つきをはじめたのであった。
(3)少年 頼一
後日、頼一は「自分は少年時代大名のような生活をしたが、また、貧乏な暮しをしたこともある」と家族の者に語ったこともある。こうした気丈夫な母に教育されつつ、逆境の中にも少年頼一は小学校にゆく年頃となった。頼一は加茂川を渡って、家から一里程先の小学校に通った。
標高一九八二メートル、西日本最高の石鎚山を後方に背負い、加茂川の清流を前に臨んだ静寂の境地は晴耕雨読を楽しむ老人には快適かも知れないが、近隣に友もない小学低学年がただ独り、一里余り北上して学校に行くのだが、架橋が流れた時などは着物を脱いで教科書と一緒に頭にのせて腰までつかる川に入らなければならないこともあった。しかし少年頼り一はただの一度も弱音を吐いたり、不平がましいことを言ったことはなかった。
少年頼一が尋常小学三年を卒え、高等小学校に入る頃になったとき、頼一は突然両親に大町村に転居して欲しいと言い出した。その理由は自分のことではなく今年新しく入学した妹ツヤが可哀想だからということである。このことは日頃から両親も感じていたことでもあったし、また今、直接頼一からの申しででもあるので、真鍋家は間もなく往生院津越から西条町の南端の大町村(現在の西条市)に転居した。そこは尋常小学校が近かったので妹ツヤと頼一が通うのに余り不便は感じなかった。その後、四月になってからは、そこから少し離れた西条の高等小学校校舎に通うようになった。
(4)日本ハリストス正教会に通う
当時は日清戦争大捷の二年後のこととて、世を挙げて軍人礼賛の気運に包まれていた。頼一はその頃、町にあるハリストス正教会に妹ツヤを連れて通った。そのため友だちからは「ヤソきちがい」と呼ばれた。しかし、頼一は自分が教会に通っていることを受持ちの先生にハッキリと報告した。平素頼一が品行や学力でも他の生徒に劣らず模範生であったので、先生からもそのことについてはとがめられなかった。こうして、頼一と妹ツヤとが教会に通っているうち、教会に関心をもつ者も出るようになり、お蔭で教会に出席する生徒が段々にふえて言った。
明治三十五年一月、少年頼一が十五才になったとき、たまたま徳島市楽脇町にあるハリストス正教会の杉本神父がこの西条町のハリストス正教会に巡回に来られた。頼一と妹ツヤとはその教会で行われた礼拝でキリスト教の信徒となるため洗礼を受けた。
実は、受洗の前夜、父幸之助は二人が明日キリスト教の受洗するときき二人を前に置いて「頼一、そなたは強く、たくましい子になっておくれ、ツヤよ、そなたはやさしくたくましい子になっておくれ、ふたりとも信仰の初一念を通しておくれ、それだけが親の願いだ。昔、有馬、高山、小西など立派なキリシタン大名が沢山いたそうな、わしはヤソ教のことはよく知らないが一旦入信した上は通し切ることこそ大切と思う」(加藤恭亮記引用)と、懇々と言ってきかすのであった。
十五の少年頼一と妹ツヤの決意も偉かったが、世間態を恐れず、二人の子らの壮挙を見守った両親の態度もまた崇高だあったといわねばならない。
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(真鍋頼一先生の生涯 青山学院 1979年11月19日発行)
この年、母・元代の強い勧めで頼一は東京のハリストス正教会神学院に、妹・ツヤは京都正教女学校に遊学する。
投稿時刻 22時00分 ツヤ・その周辺 | 個別ページ
2014年10月25日 (土)
女の一生(文学座公演)を観て

記)「女の一生」の布引けいは1889年(明治22年)の生れで、筆者の祖母も同年の生れである。ケイは先の終戦を生きて迎えたが祖母は終戦を待たずに逝った。二人は同時代を重ねるように生きた。明治生れの女の典型として、拙ブログ・「愚人章・覚え書」から以下を転載する。
「誰が選んでくれたものでもない。自分で選んだ道ですもの・・・」。
文学座公演の「女の一生」を観た。
故・杉村春子の代表作で上演回数947回を超える作品は、杉村春子の意向で平淑恵が受け継いだ。平淑恵の演じる「女の一生」は今回で277回(筆者計算)となる。
「・・・明治の末より第二次世界大戦終了時までの『時代を生き抜く≪女性≫の生き方』を描く普遍的なテーマが人々の共感を呼ぶ本作。来年は『女の一生』初演からちょうど70年。終戦からの日本の歴史とクロスオーバーする今回の上演は見逃せません。」(文学座HPより)
1905年(明治38年)、ロシアと戦争。旅順攻略に酔う提灯行列の最中、布引けいは堤家に迷い込んで来る。
布引けい16歳のときである。
堤家の主人シズに見込まれたケイは堤家の長男・伸太郎と結婚する。ケイは次男・栄二に惹かれていたが、その想いを断ち切り堤家のため、身を粉にして働く。
世は移り大正の初め、ケイの周りも大きく変る。シズは死に、栄二は大陸へ。
堤家はケイの働きにより大きな商社へ発展。
そして昭和、会社の発展とは裏腹にケイと伸太郎の間は冷えて行き、ケイの方針についてゆけない伸太郎は家を出る。
二人の娘・知栄はケイに隠れて伸太郎の家に足しげく通う。
そんな折、突然栄二が現われる。ケイは栄二を冷たくあしらい、左翼運動の咎(とが)で栄二を追って来た官憲の手に栄二を渡す。
知栄はそんな母をとがめ父のもとに。
戦争が激しくなり、ケイも堤家の会社も時代の波に翻弄される。
突然ケイを尋ねてきた伸太郎は、夫を戦争に取られた知栄とその子供をケイに託し、安心したのかその場で倒れ、ケイに看取られながら息を引き取る。
終戦、焦土と化した東京の堤家の焼け跡でケイは刑務所を出て堤の家を尋ねてきた栄二に再開する。
廃墟の中に立つ二人は、新しい日本への希望と再生を次代の人たちに託す。
明治・大正・昭和の激動を生き抜いた日本女性の典型を杉村春子の演技を受け継ぐ平淑恵が「布引けい」を見事に演じきっている。

(於いて 神戸文化ホール・中 10/24日)
投稿時刻 20時34分 ツヤ・その周辺 | 個別ページ
2014年8月 1日 (金)
記憶の中のツヤ

義貞・ツヤの四女博子が逝って、来月で一年になる。
祖父母に寄り添って生き、祖父母の息づかいを傍で嗅ぎとった最後の人だった。
人は偶然が幾重にも重なり合ってこの世に生れ出る。
今、義貞・ツヤに連なるわれ等が在るのも偶然の産物である。無限に近い偶然の中で、われ等をこの世に送り出す大きなインパクトとなったのが博子の誕生である。
生れ来る娘と心労の重なったツヤを思い、義貞は朝鮮総督府を捨てる決意をした。
もし、博子が「三・一独立運動」後に生れていなければ、義貞は朝鮮半島に留まり続け、その後の人生を大きく変えていったであろう。
義貞の背中を強く押したのは私の叔母・博子だった。
叔母は周りの人たちをいつくしみ、周りの人々に慕われつつ、その生涯を全うした。
(2013年9月14日8時14分召天 <92歳 >)
博子叔母が2005年に「日本キリスト改革派 新居浜教会」に寄せた一文を、遺族の許しを得て以下に掲載する。
「私の信仰の継承」
佐伯博子
私は大正10年の生まれですから現在84歳です。
私の信仰を振り返って見ますと、幼い頃、母が寝かしつけてくれる時の一言の祈りに始まり、やがて一年生になって朝、家を出る時の一言の祈りと生活の中での全てその折々に祈ってくれたことにより、いつも神様は共にいてくださる、大丈夫だとの思いの中に育ってきたものと思っています。
母の祈りは、私が結婚して家を出る時が最後でした。
私の家は、安政生れの母方の祖母が西条に住まっておりました。
当時の西条には、祖母が親しんできたロシア正教の聖ハリスト教会がありました。
明治22年生まれの母は、義務教育を終えると兄と共に故郷を離れ、兄は東京へ、母は京都正教女学校に学びました。
結婚後の母は、私が生れると母の父母のもと、新居浜に父・姉3人と共に計6人で朝鮮から帰ってきました。
当時の新居浜にはまだ教会がなく、住友に勤務する方々による教友会があり、民家を借りて集会所として、時々組合教会の牧師が見えておりましたので、祖母はその集りに加わっていました。
その中心人物であった矢内原忠雄(※1)さん・黒崎幸吉(※2)さんの二人は会社との間に問題が起こり新居浜を去られました。
その後、住友関係の方々の子供たちのために、民家で幼稚園を始めたのが泉幼稚園の始まりです。
その後、住友より磯浦に用地が用意され、幼稚園と教友会の集会所となりましたが、昭和20年7月の米軍による空襲を受けすっかり無くなってしまいました。
さて、これは私が物心のついた頃のことですから、大正の終わりから昭和の始めのことですが、母は一人で我が家で日曜学校を開き、近所の子供たちが集まってきていました。
昭和の始めにホーリネスの牧師が来られ町の方に民家を借りて住んでおりましたので、週一回、私の家で夜の伝道集会を持っていました。
いつも私が案内に行かされ、解っても解らなくても座らされていましたが、大抵は眠り込んでいたようです。
これは、私が女学校2・3年になる頃までですから、10年近く続いていたと思いますが、その間病人があったり、母が倒れたりして休んだ時もありました。
この間、昭和の初めの頃にはカトリック教会ができ、宣教師の方とシスターが母を訪ねてこられ、当時としては珍しい姿に皆が驚いていたことを覚えています。
母に連れられて初めてカトリック教会を訪ねたとき、祭壇の様子などに驚いたことが思い出されるのです。
その後、アライアンス教会もでき、時々若い桑原牧師が訪ねてこられました。
昭和11年9月に、丹原教会を5年計画で新居浜に移転させたいので面倒を見て欲しいとの依頼が、日本メソジスト教会よりありました。
教会は昭和12年5月16日に第一回目の礼拝がもたれ昭和17年11月までの間に、牧師が3人代わり、礼拝出席者は15・6名でした。
私は、この間に受洗したのです。
当時の藤田牧師の媒酌・司式によって新会堂で結婚式の予定でしたが間に合わず、昭和17年10月17日に私の家で結婚式を挙げ上京しました。
この時、最後のお祈りをしてくれた母は、12月に病に倒れ翌年1月に天に召されました。
上京した私は日本メソジストの牛込教会に出席していましたが、段々と戦争が激しくなってきた昭和19年の秋頃、長女を身籠っていた私は、妊産婦を疎開させるという国の政策によって、田舎のない者は千葉の方に集団疎開させることになっていましたが、丁度兄が東京に出張してきましたので一緒に新居浜に連れて帰ってもらったのです。
昭和20年の空襲によって牛込教会は焼失しましたが、本当にすばらしい会堂で、座っているだけで心が洗われるようでした。
現在、私はここにありますが、信仰は教派や教会ではないと信じています。
投稿時刻 06時37分 ツヤ・その周辺 | 個別ページ
2014年4月23日 (水)
銃後の守り
ツヤの晩年はキリスト教徒としての活動の他に、1931年(昭和6年)の満州事変から1945年太平洋戦争が終わるまで、いわゆる十五年戦争の時代に「銃後の守り」を務めた。
日清戦争から日露戦争にかけて国は前線を支える後方部隊を地方に隈なく組織した。
その一環として銃後支援を掲げる愛国婦人会が1901年(明治34年)2月6日に設立。
その前、社会活動を目的とする女性の運動組織としては日本キリスト教婦人矯風会等の団体が既に日本にあった。
その後、戦争を後方支援する女性団体は上記組織の他に、昭和に入って文部省の肝いりにより大日本連合婦人会、陸軍の後押しを受けた大日本国防婦人会が結成された。1932年(昭和7年)に大阪で生まれた大日本国防婦人会は二年後には100万人を超える組織になった。
ツヤは大日本国防婦人会の活動を愛媛県にて行なった。
戦時下、愛媛県における大日本国防婦人会の活動は「愛媛県生涯学習センターデーターベース・「愛媛の記憶」・愛媛県史 社会経済6 社会 3 愛媛の婦人問題 第二章 戦時下の婦人 三 国防婦人会」にその詳細が記されている。文章の最後は次の一文で締めくくられている。
国防婦人会の解散
昭和一七年三月一四日午後一時半から大日本国防婦人会愛媛地方本部の解散式が連隊内練兵場で行われた。県内各分会長、役員ら約一、○○○名が参集し、高度国防国家建設のため、他の婦人会と共に発展的解散をとげ、異名同心ともいう大日本婦人会愛媛支部として再出発することになった。昭和一一年一月三〇日、この場所で発会式をあげて以来六年間の活動の幕を閉じたのである。
1942年(昭和17年)、三つの婦人会組織は大日本婦人会として軍の方針を追認する翼賛体制に組み込まれ、日本は破滅への道をひた走る。
ツヤはその一年後、召天。

投稿時刻 21時17分 ツヤ・その周辺 | 個別ページ
2013年12月 2日 (月)
ツヤ・その女学校・その京都


ツヤ
・1902年(明治35年)1月 京都正教女学校開校、募集に応じツヤほか約20名が順次入学
・1908年(明治41年)4月17日 同校を卒業(第15号)
過日、京都に行った際、ツヤが学んだ場所を訪ねた。
京都御所の南、中京区柳馬場通二条上る六丁目 京都ハリストス正教会がその場所である。
教会の事務所で話を少し聞かせて貰った。学校開設当時の記録は殆んど存在しておらず、教会としても、記録を掘り起こし中とのこと。
そんな状況下、教会所有の1978年に発行された「京都ハリストス正教会開教100周年記念誌(1978年発行)」に京都正教女学校の黎明期の記事があり、その部分をコピーして頂き持ち帰った。
コピーの部分を以下に掲載する。
京都正教女学校の設立
正教時報(昭和35年10月10日第851号発行)
往時断片(シメオン三井道郎遺稿)より
荘厳美麗な聖堂が折角出来たとしても、定まった詠隊がなくては正教奉神礼の美を発揮することが出来ないし、また、関西地方正教信徒の女子を正教の教旨で涵養する必要も感じられたので、東京女子神学校教師中より高橋(安彦)五子姉を選抜して主任教師とし、これに八木理子姉(後の高久神父夫人)を助教師として随行させ明治三十四年十二月下旬京都に赴任せしめた。
その翌年三十五年一月より京都正教女学校を開校した。募集に応じた女生徒は約二十名であった。同女学校は年と共に益々発展し、関西における正教唯一の女学校として大いに望を嘱せられるに至った。然るに女学校設立より僅か十五、六年しか経たないのに欧州大戦の影響を受け、本会よりの校費の仕送りに杜絶えた結果、閉校のやむを得ざるに至ったことはかえすがえすも残念なことである。
「京都正教女学校」については当時の卒業生ナデジュダ沢部つた姉から学校生活の追想記などをご寄稿いただいたので京都教会百年史中でも最大の思い出であり、次の百年への夢として掲げさせていただきます。
京都正教女学校
ナデジュダ 沢 部 つ た
京都正教会の日誌に依ると京都府から女学校設立認可は明治三十五年年三月三日とある。この学校は日本ハリストス正教会に奉事する司祭、輔祭、伝教師等物質的に報いられることの少ない教役者の子女の教育機関として、ニコライ主教の御配慮によって設立された、女子の(五ヶ年制の)学校である。

一、信仰の教育 聖書、旧約聖書、教理教会史等
二、学業(一般高等学校の学科目 外国語はロシア語、其他茶の湯、編物等)
三、信者の子女としての日常生活の指導
当初募集のときは通学生も少しあったようであるが其後は全部寄宿生のみとなった。
教役者以外の信者の子女も少数在学を許された。其場合費用は父兄負担であった。
若い先生方、炊事婦二人も全部信者で起居を共にした。

・教師の方々
・三井神父様 御転任後は 目時神父様
・加納輔祭様 御転任後は 吉村伝教者
福音書の御講義、教理、旧約聖書、教会史、ロシア語等を担当して下さった。
・安彦先生 舎監
聖歌、国語、漢文、一般のコーラス、器楽指導(オルガン)
其他舎監として日常生活の指導
・其他の若先生 八木先生御退職後、
・平山先生(旧矢部)、蓮池先生、三田村先生、馬場先生、日比先生
国語、算数、体操、音楽、裁縫、ロシア語担任せられた。何れも信仰篤い先生方で、安彦先生に協力せられ生徒の生活指導をせられた。全部寄宿舎で生徒と共に起居せられた。現在東京に平山先生が御健在(94歳)、他の先生方は全部御永眠なされた。
・外部からの通勤の先生
幾何、代数、地理、歴史、絵画、習字、物理、化学、等皆大学院の方や教授、師範学校の教諭、美術学校の教授等。殊に物理、化学等の原先生は、博士号三つも持たれたプロテスタントの牧師であった。現在同窓生の小川田鶴師(眼科医)の恩師である。其他、作法・茶の湯の先生として村上源蔵先生(京都教会の村上兄の祖父母)等。
安彦先生は、私達に外部から御来校下さる先生方は皆立派な博学の方である。その先生方に教えて頂くのは幸せである。と申された。
生徒の人数も少ないのでよく行届いていたことと思う。
蓮池先生は、ロシア語、体操其他。
その体操の時間に徒手体操、又ダンス等習っていた。カドリール等、練習しているとその頃、東隣に商業学校があった。そこの生徒が塀に登って、坊主頭を並べて、のぞいている。「又のぞいているわ、いやになっちゃう」「もうやめましょう」と切上げになるとことがあった。私達はおとなしかった。
女学校の寄宿舎

寄宿舎の春は、大変美しい、中庭に桜の木と、かなり大きな連翹(レンギョウ)の木があって、同時に咲いた。入学した時は驚いたほど、きれいであったのを覚えている。
聖堂の北側に運動場があって、板塀の中に寄宿舎や教堂、食堂、湯殿、其他、先生方のお部屋等。今も聖堂の門の左側にその頃の教室の建物が残っていて、なつかしい。今は他人の住宅である。
・寄宿舎の一日
これは明治末から大正の初め頃
朝六時起床 寝具の片付、洗面、整髪、掃除
七時 - 広間に集まって御祈祷、その日の当番は前に出て、代表で祈祷本を読む。祈祷後「おはようございます」の挨拶。その時は、きっちり座して、手をついて正しいお辞儀をする。この躾は厳格である。
続いて - 食堂に行き一同食事 二人の炊事婦を助けて、食堂当番は二人、お運びや、お給仕等、皆が食事がすんでから炊事婦さんと一緒に食事をする。この当番は一週間交替である。
八時 - 授業始まる。
午前中の授業は、神父さんや輔祭さん他、内部の先生方
0時 - 昼食。
午後一時 - 午後は大体、外部から御来校の先生の授業である。三時に終る。
三時 - 五時まで 入浴週二回
入浴の時は、井戸水を一人宛釣瓶に二十杯汲上げて木製のタンクに入れる。その頃は、まだ水道は無かった。
洗濯は週二回、定められた日にする。勿論洗濯機等はない。盥(たらい)に洗濯板でゴシゴシの洗濯である。上級生に教えられて、新入の十二才も同様である。
午後五時 - 夕食。 食事の献立は、先生方グループと各クラス毎に、一週間分相談して表にして先生に出していた。
午後五時半 - 六時 自由時間 運動、散歩等(外出は出来ない)。
六時 - 九時 自習 各室正しく机を並べて、声を出さずに静粛に予習、復習をする。
九時 - 机を片付けて、寝床の用意。
広間に集まって、夕の祈祷。「おやすみなさいませ」の挨拶。
九時半 - 消燈。試験と謂えども、消燈である。
この時代は、今から六十年余以前である。今から思えば随分スパルタ式であった。過保護の現代から顧みれば厳しい躾であった。私の両親はこれを喜んだ。
・教会の行事に参加
毎土曜日の夕、日曜日の朝、其他教会の祭日、斎及受難週間等の御祈祷には、先生、生徒、全員参拝する。
御祈祷の始まる時、門番の加美長さんが七ッの鐘のハーモニーを美しく鳴らされる。私たちはこの音を誇りに思っていた。
鐘と共に、生徒一同聖堂に行く、堂内の右側が聖歌隊の並ぶところで、各パートの場所に着く。
一年生又は二年生が順に、堂役を努める。誦経は、上級生が、これも順に努める。聖体礼儀も厳かに、聖歌もうまく歌えた時等先生の御機嫌も良いし、我々も、すがすがしく、敬虔な気持ちになって祈るのである。やがて御祈祷も終り、又始めのように鐘が鳴って、我々も信者の方々も喜びに包まれて聖堂を辞す。当時同志社の学生等大勢参拝されて、時の吉村伝教者さんと討論等しておられて賑やかで、若さがいっぱいであった。
・日曜日の午後
日曜日の午後は楽しい半日である。
先ず、一週一度のおやつを買う。一人宛金二銭也。当番は各自に希望を聞いて、その希望は大体お芋であった。おせんべいも、あった。二人で当番が買いに行ってそれを分けて、のんびりと、頂きながら、ペチャペチャと。それから、散歩の外出である。外出は、クラス毎に、行き先を先生に申出て許可してもらって行くことになる。お金は誰も持たない、あまり遠出は出来ない。始めのうちは、御所へよく散歩に出たが、だんだん遠方へ行きたくなる。私たちのクラスは、南禅寺のインクラインのレンガの下(一寸エキゾチックなところ)又は下鴨の糺の森の鬱蒼とした流れのあるところ)、その頃は、ゴミもなく、豊に水が流れていた。私たちは好んで此処へ来た。その美しさは、もうなくなった。
帰りは電車賃を持っていないから遠方へは行かれない。
しかし、こんなこともあった。
或る時クラス四人でインクラインに行って逢坂山を越えると大津に行けると教わったので、次の日曜日、早速行って見たくて、行先を伝えば止められるので、一寸そこらへ散歩してくるような、顔をして出かけた。案外遠くて、大津にたどりついた時は生憎雨が降り出し、電車に乗るにも、お金は持たないし、途方にくれて、旅館の軒先で雨宿りしていると、そこの女中さんが、番傘二本出してくれて、これを、さしてお帰りと云ってくれた。でも、私達は遠方で、直ぐ返しに来られないからと遠慮したら、何時でもよいからとの事で、それを借りて、二人宛寄り添って、トボトボと京の町まで帰り漸く聖堂の門にたどり着いたら、帰りの遅いのを案じて、三田村先生、馬場先生が立って居られ、すっかり恐縮、安彦先生に謝りに行くやら、お小言頂戴するやら、とんだ失敗で次の日曜日、其親切な旅館に傘を返しがてら、先生達生徒皆で、三井寺へ遠足した時、私は風邪をひいて留守番でした。 (この稿、小川田鶴姉寄稿より)
春又は秋、遠足があって、先生、生徒一同、往復徒歩で比叡山へ、行きは白川口から、帰りはキララ坂の急坂から下山。その時は目時神父様も行かれた。
また、八瀬、大原など、乗物一切使わないで往復、歩いて、あの秋の空、みのりの畦道に彼岸花」を愛で、大原御幸の悲劇の寂光院等、忘れられない。翌朝は、脚が痛んで困ったこと等あった。
卒業前の秋に、矢部先生引率で吉野へ行った、これも秋だった。宿坊で宿泊したその夜の、名月の美しさ、思いでは尽きない。
降誕祭や復活祭の祈祷後は、露国義勇艦隊支店長のフェオドロフさんからロシアのお菓子のプレゼントがあって、皆楽しみにしていた。神父さんのお宅へ、お招き頂いたり、数々の思い出がある。
学年の終りには、お別れを悲しんで泣いて卒業の歌もとぎれたりしたものであった。(京都ハリストス正教会 開教100周年記念誌-1978- 昭和53年10月10日発行)
投稿時刻 01時29分 ツヤ・その周辺 | 個別ページ
2013年11月18日 (月)
ツヤの兄のことなど

ツヤを語るとき、ツヤの兄・頼一について触れなければならない。二人は血を分けた兄妹であると共に、同じ年、四国の西条から同じ志(こころざし)をたて、兄は東京へ、妹は京都を目指した同志でもある。
その後、1910年(明治43年)10月、ツヤは朝鮮半島へ向かった。21歳のときである。同じ年、頼一は神学校に学ぶ傍ら浅草の日本メソヂスト浅草教会に派遣された。頼一23歳の春である。
頼一が派遣された浅草教会は 「1886年メソジスト監督派教会の伝道により設立されたプロテスタント教会です。現在は、日本基督教団(所属教会約1700)に属しています。
東京下町に根をおろし、長い間キリスト教の伝道を続けてきました。」(日本基督教団 浅草教会 HPより)
と、今も浅草に在り、キリスト教の伝道を日夜続けている。
浅草教会の所蔵文の中に、頼一が同教会に寄せた一文と頼一について語った文章がある。
浅草教会の小島仰太牧師に上記文の掲載許可をお願いしたところ、快諾して頂いたので下記にその全文を記す。
「私が神学生として浅草教会に派遣されたのが明治43年(1910年)4月で相原英賢牧師の時であった。その当時教会の界隈は、如何にも下町的な古びた面影が残って居たようであった。教会堂は青黒い漆喰建て50坪位で内部は襖で仕切って片側は畳の室で祈祷室も瓦斯燈であった。教師館は裏で二階建て、後ろと横が墓場で庭に一寸した竹薮があったので夏は蚊に悩まされた。表通りは煉瓦を積み重ねた上に鉄格子のかき、横は杉の木で境していた。向こう側の家は低い黒屋根の鍛冶屋で朝から晩まで真っ黒な顔でトンチンカントンチンカンとやや音楽的な音をたてていたのが印象に残っている。朝拝は十四、五名で夕拝は更に少なかった。前田のじいさんが提燈を持ち私が門前に立って大声を上げて呼入をしたので、六、七十名が集まるようになった。
明治45年(1912年)3月、静岡で開かれた日本メソヂスト教会東部年会で、相原牧師は静岡県藤枝教会に転任になり、私は青山学院神学部を卒業して牛込教会に任命を受けたのである。
大正11年(1922年)3月、私は浅草教会牧師として赴任した。地理的環境には格別の変化がなかったように思われたが、教会は講義所となり教勢は進歩せず寧ろ劣って淋しい思いがした。只見るべきものは牧師館が建替えられていたことである。私が赴任するとまず第一に講義所から補助教会に昇格せしめ、教会前に毎夜出る屋台店や各種の飲食店が残物を垣に投げ込むので不潔であり、又夜の集会の妨げにもなるので鉄垣を取払い、しょうしゃな売店を数軒建て、街を明るくした。またこれとともに夜の集会に力を入れたので、朝夕の集会も多く集まるようになり、教会員も殖え財政も豊かになった。翌年4月に断然自給教会となったので、教会員は悦び愈活気づき之からだという矢先の9月、あの関東大震災となって有てる物悉くを消失したのである。殊に痛ましいのは教会員全部が罹災して四散したことである。教会は直ちに米国より寄贈の大天幕二張を建てて救済と伝道に努めた。幸いにしてヘッケルマン夫妻の熱心な又能力ある救助を得て昼夜にかけて活動したのである。只自給して僅六ヶ月目のことであるので財政の面で些か杞憂したのであるが、見事この峠を乗り越えて順調に前進することが出来たことは感謝である。私は稲毛に疎開したので毎日上京して夜遅くまで復興に努め、翌14年に総二階の相当大きな牧師館をも建築したのである。
昭和2年(1927年)3月の年会で私が牛込教会に転任することになった。牛込教会は私の恩顧する教会で役員達の熱心な招きを拒むことが出来なかった。浅草は土地柄私の気性にも合い苦心した教会であり、時々訪れる人々に強迫され苦湯を飲まされたりしたので漸次度胸も出来、年齢的にも活動期であったので離れ難い教会であった。私の生涯で最も印象に残る教会である。
私の教会時代に当時中学生だった中島武夫君が洗礼を受けて献身し青山学院神学部に入学して牧師となり、現在は小諸教会を牧しつつ和泉短期大学の学長として保母養成に努めて居る。今一人土合竹次郎君は早稲田大学の学生で受洗後青山学院神学部に入学しのち牛込教会で私をよく助けて呉れ、現在は秋田教会の牧師として東北の重鎮である。その二人が浅草教会出身であることは教会の誇りである。浅草教会創立八十年、この間明治、大正、昭和の三年代に亘って関係をもった私には懐かしい思い出深い教会である。」 (浅草教会への思い出 真鍋 頼一 浅草教会八十年史<1966年発行>より転載)
~浅草教会120年史より抜粋~
第14代 眞鍋頼一牧師
1922(大正11)年第15回東部年会は眞鍋頼一牧師を任命した。任命上は浅草教会講義所主任としてG.F.ドレーパー、担当者として眞鍋頼一牧師である。眞鍋牧師は1887年(明治20)年5月7日、愛媛県新居郡往生院村津越に生まれる。西條高等小学校を1902(明治35)年3月に卒業、その年の1月ハリストス正教会で受洗。1912(明治45)年3月青山学院神学部を卒業した。「80年の歩み」でも回顧しているように神学生時代には相原英賢牧師の下で、浅草教会での奉仕経験もあり、浅草教会には親近感を持っての赴任であったようだ。「アメリカ帰りでダブルのハイカラなモーニングを着、銀の鎖をチョッキのポケットに横に渡している先生のスタイルは先進的で、すてきなものであった。奥様は地味な人で、静かに思慮深く思いやりがあり、慕わしいママであった。土曜の午後など、熊沢桂、土屋政代、斎藤靖夫、中島武夫ら青年が教会に行き、色々と手伝った」(中島武夫記:眞鍋頼一先生の生涯
都田豊三郎編 青山学院 p.28)という。浅草では関東大震災の遭遇と小百合幼稚園の認可、教会堂と牧師館の再建という大事業をなし、1927(昭和2)年牛込教会に転任した。その後は頌栄教会の設立、メソヂスト教会社会局長、日本基督教団厚生局長、日本基督教団社会事業同盟理事長、青山学院第10代理事長などを歴任、1971(昭和46)年11月19日天に召された。葬儀は青山学院で行われた。
関東大震災と眞鍋牧師
眞鍋牧師は赴任早々、その回想文にあるように教会前に並ぶ屋台を立ち退けて、夜の集会に力を注いだ。青年会員と共に教会の表で太鼓を敲き、タンバリンを鳴らし、讃美歌「さまよう人々」を歌って路傍伝道を行った。眞鍋牧師のアメリカの話や前田善三郎兄や抱井信敏兄が代わる代わる証しをなし聴衆を教会へ誘った。そして教会の財政面も徐々に軌道にのり、齋藤、平、眞鍋の三代に亘る牧師や教会員たちの祈りと尽力によって、講義所時代もようやく終わりを告げ、補助教会へと教会資格を昇格した。(中略)この頃の礼拝出席者は朝が70名程度、夕方が60名程度の出席があり、会計予算も1,100円を計上できるようになっていた。(教界時報1652号 大正12年5月18日)
そうした中で、1923(大正12)年の春から夏にかけて、眞鍋牧師の子ども二人、恵三兄と和子姉が百日咳を患うこととなった。医師の転地療養の勧めで夫人と二人の子どもは千葉県の竹岡に転地し眞鍋牧師は浅草に留まっていた。8月29日にはたまたま竹岡に家族を訪ね、団欒のひと時を持った。9月2日が日曜日であったので、9月1日に浅草へ戻ろうとしていたちょうどその時、午前11時58分関東大震災が発生した。交通機関が寸断された中、眞鍋牧師は意を決して徒歩で浅草に向った。その時の様子を「遠く東京の夜空を焦がす東の雲をみつめながら房総の夜道をひたぶるに歩き続けた。眞鍋が千葉を通って翌日の明け方ようやく江戸川地域に辿りつくと、あの大東京の街は一変して、倒壊と燃焼で無残な修羅場となっていた。隅田川と思われる辺りに差しかかると水に浮かんだ焼け焦げた木片や、人間の死体など目を蔽わんばかりの有様であった。眞鍋は今もなお燻っている焼跡の瓦礫を踏みつけながら浅草の地に入り、ようやく教会の焼跡にたどり着いた。時刻は二日目の午後を過ぎていた。」(眞鍋頼一先生の生涯 p.31)。一人教会に残っていた眞鍋牧師のご母堂は教会員の小林義雄兄が救出し、上野公園へと導いていた。眞鍋牧師は上野公園でご母堂と再会したのだった。
頼一は1971年(昭和46年)11月19日没した、享年84歳。
投稿時刻 09時22分 ツヤ・その周辺 | 個別ページ
2013年10月10日 (木)
モトヨ 終焉の地

ロシア正教が日本にやって来たのは1861年(文久元年)、ニコライが函館にやって来たのに始まる。
その前年ツヤの母、モトヨ(元代)が生まれた。四国におけるロシア正教の草創期を支えたモトヨが、キリスト教に帰依したのは、ニコライが布教のため四国を巡回した1882年(明治15年)頃と考えられる。
モトヨの家に近い西条ハリストス教会もこの頃設立されたのであろう。この教会は日露戦争後なくなっている。
モトヨは四国中央市土居町上野木ノ川の眞鍋家の墓に夫・幸之助とともに眠っているが、モトヨ終焉の地は松山である。松山市大街道に在った長男憲一の家で、90年の生涯を閉じた。
6年前、大街道に在った家の周りを歩いたことがあった。その時の様子をもう一つの拙ブログに載せたことがあった。
それを以下に再掲する。
駆け足のマッチャマ(松山)
家族の一員「ジュン」を預けに新居浜へ行った。17年前生まれて間もない柴犬を貰ってきた。柴犬の母と父親のわからない犬の間に生まれた四匹のうち甘えん坊のため最後に残ってしまった一匹が、我が家にやってきた。大震災のとき、一日中全身で震えていた。ある日私が外出からの帰り、遠くから車のあとを追ってくる犬がいた。つないでおいた紐をちぎって外出していた「ジュン」だった。ジュンという名は当時放映されていたテレビドラマ「北の国から」の主人公の名を娘が甘えん坊に冠した。甘えん坊は今も甘えん坊である。三ヵ月半の別れに堪えれるか少し心配だ。
「ジュン」の様子に異変があれば直ちに駆けつけるということで、その日は四国にとどまることにした「ジュン」と同じ屋根の下に居たのでは意味がないと思い連れ合いと二人で松山へ行った。
松山について、大街道近くのホテルにその日の宿を求めた。夕食を大街道でとった帰り際、店の女将に大街道の昔ばなしを聞けた。女将は「あなたのおっしゃっている店はここ?」と、言って大街道にまつわる雑誌を持ってきてページをめくった。戦前の街の様子を画いたイラストマップがあった。私は無理をいって、その部分をコピーしてもらった。
大街道は四国随一の繁華街である。その通りの一角に私の祖母の兄夫婦が暮らしていた。マップには「まなべ三味線」とあるが、私の母は「真鍋の楽器屋」と言っていた。このマップに画かれた時代、女学校を出た母はここで花嫁修業をした。私がここをはじめて訪れた頃、「まなべ三味線」はもうなかった。楽器店を閉じ、他人に店を貸し、夫婦は二階で暮らしていた。高校時代、新居浜から大街道まで自転車を漕いだ。今は高速道路が走る「桜三里」と呼ばれる難所を越え、大街道を目指した。子供のいなかった母の伯父夫妻は満面に笑みを浮かべ私を迎えてくれた。夫妻が亡くなったあと、店は人手に渡ってしまった。
店を出て再び「まなべ三味線」の前に立った。店内の様子は往時と比べようもないが、店の右側にある階段は確かにあのときの階段のまゝだった。この階段を昇り、窓に腰をかけ手すりにもたれ、今もある隣の服部時計店の、大きな時計を横目に、通りをながい時間見ている私がいた。
翌日、車をホテルに置いて最近オープンした「坂の上の雲ミュージアム」に行った。正岡子規らを通して、日本資本主義の揺籃期を描いた司馬遼太郎の同名小説から名前をとったミュージアムは松山のまち全体を「屋根のない博物館」に見立てる機軸としての役割を負って誕生した。
平日にもかかわらず館内は多くの人で賑わっていた。司馬遼太郎や正岡子規に傾倒する人の多いのに驚いた。
昼食後、城山の北へ車を走らせた。愛媛大学の近く、千秋寺に先祖代々の墓がある。伊予松山藩に禄をはんだ下級武士の末裔である私は、今ある自分の血を思い墓前にこうべを垂れた。
千秋寺の近くにロシア人墓地があるので足を伸ばした。ここは日露戦争で捕虜になったロシア人が眠っている。松山で生まれ育った祖父は21歳のとき志願して陸軍要塞砲兵射撃学校に入校した。退役後再び召集され、日露戦争時松山俘虜収容所の任に就いている。捕虜となったロシア兵士たちとの交流がその後の祖父の人生を決めた。
この地を最期とした98名のロシア兵士の墓は故国ロシアを向いて建っている。
城山麓最後の目的地「一草庵」を訪ねた。民家のあいだを縫って坂を上り詰めたところにひっそりと陽を浴びて佇んでいた。漂白の俳人・種田山頭火、終焉の地である。放浪の身に「庵」は不自然であるが、友人の好意によりここで10ヶ月を過ごした山頭火の甘えを想うと何故か切ない。《うしろすがたのしぐれてゆくか》、私の好きな一句である。
高速道路へ入る手前に、この5月15日にオープンした「伊丹十三記念館」がある。国道33号線の脇にある記念館に立ち寄った。伊丹十三は亡くなるまえ、外国で映画を撮るための金を蓄えていた。女優の宮本信子はその金を使って夫・伊丹十三ゆかりの地・松山に十三への想いをこめて記念館をオープンした。
黒い建物の中で、伊丹十三が眉間にしわを寄せていた。
高速道路の途中で、「ジュン」の様子をきいた。大した問題もなさそうなので少し安心した。フロントガラスの向こうに瀬戸の海が広がっていた。(2007年6月7日)
投稿時刻 21時57分 ツヤ・その周辺 | 個別ページ
2013年8月27日 (火)
柳 宗悦(やなぎ むねよし)

日本帝国が朝鮮を統治下に置いた時代朝鮮の文化とそこに暮らす人々に心を寄せた日本人もいる。
その中に柳 宗悦(やなぎ むねよし)がいる。柳 宗悦はツヤと同じ1889年(明治22年)生まれである。
・柳 宗悦について
1919年(大正8年)3月1日に朝鮮半島で勃発した三・一独立運動に対する朝鮮総督府の弾圧に対し、「反抗する彼らよりも一層愚かなのは、圧迫する我々である」と批判した。当時、ほとんどの日本の文化人が朝鮮文化に興味を示さない中、朝鮮美術(とりわけ陶磁器など)に注目し、朝鮮の陶磁器や古美術を収集した。1924年(大正13年)には京城(現ソウル)に朝鮮民族美術館を設立した。
朝鮮民画など朝鮮半島の美術文化にも深い理解を寄せ、京城において道路拡張のため李氏朝鮮時代の旧王宮である景福宮光化門が取り壊されそうになると、これに反対抗議する評論『失はれんとする一朝鮮建築のために』を、雑誌『改造』に寄稿した。これが多大な反響を呼び、光化門は移築保存された。
1922年(大正11年)に私家版で和装本『朝鮮の美術』や、『朝鮮とその藝術』(叢文閣)を出版した。他の主な編著・著書に『今も続く朝鮮の工藝』(日本民藝協会、1947年、限定版)や、『朝鮮とその藝術 選集第4巻』(春秋社)がある。以上は『全集第6巻.朝鮮とその藝術
ほか57篇』に所収している。( Wikipedia 最終更新日 2013.08.03)
・コラム 朝鮮の芸術を愛した柳 宗悦
三・一独立運動が起こった時、民芸運動家の柳 宗悦(1889~1961)は、「朝鮮人を想ふ」(『読売新聞』(1919年5月20~24日)を書き、「朝鮮問題に対する公憤」を表明した。当時の日本人の朝鮮観の中で異彩を放つものであった。
「私は前にもいったやうに朝鮮に就いて何等の知識がある者ではないが、幸ひに私はその芸術に現れた朝鮮人の心の要求を味はう事によって、充分な情愛を所有する一人であるのを感じている。余は屢々想ふのであるが、或国の者が他国を理解する最も深い道は、科学や政治上の知識ではなく、宗教や芸術的な内面の理解であると想ふ。言い換へれば経済や法律の知識が吾々を他の国の心へ導くのではなくして、純な情愛に基く理解が、最も深くその国を内より味はしめるのであると考へてゐる。」
「我々日本人が今朝鮮の立場にゐると仮定してみたい。恐らく義憤好きな吾々日本人こそ最も多く暴動を企てる仲間であらう。或道徳家はこの時こそ志士、烈女の理想を果す時だと叫ぶであらう。わがことならぬ故に、只それを暴動だといって罵るのである。私はかかる反抗を賢い道だとも又賞むべき態度だとも思ってはゐない。併し彼等を只罵り、尚もそれを拘束する態度を、矛盾に充ちた醜い愚かな狭い心に過ぎぬと思ふのである。吾々の態度に矛盾がないとどうして言い得よう。今の世では政治は道徳の域にすら達してゐない。併しこれが政治への弁解とはならぬ。却って意識すべき恥辱でなければならぬ。反抗する彼等よりも一層愚かなのは圧迫する吾々である。」
柳 宗悦は、1921年6月には「朝鮮の友に贈る書」(『改造』)を発表、「正に日本にとっての兄弟である朝鮮は日本の奴隷であってはならぬ。それは朝鮮の不名誉であるよりも、日本にとっての恥辱である」という考えを持つようになる。
しかし、「彼が愛したのは、朝鮮の芸術と、その芸術を生み出した朝鮮人であり、独立を求めて闘う朝鮮人ではなかったのである」(高崎宗司)という評価に留意しつつ、「外国」を理解することは、どういうことかを教えてくれる人間として、今日生命を持っている。
・参考文献 柳 宗悦『朝鮮を思う』 筑紫書房、1984年 (奈良和夫)
・当コラムの出典:「知っておきたい韓国・朝鮮 青木書店 2000年5月30日 第1版代10冊発行」
投稿時刻 06時42分 ツヤ・その周辺 | 個別ページ