文学に視る時代の風景
2012年5月15日 (火)
半島へ、ふたたび

拉致被害者のひとり蓮池薫氏が、北朝鮮と地続きの南へ初めて降り立ったときの印象をつづったドキュメント作品である。
1957年(昭和32年)、新潟に生まれた著者は1978年(昭和53年)に北朝鮮の工作員により拉致され、24年間北朝鮮での生活を余儀なくされ、2002年(平成14年)帰国を果たした。
2009年(平成21年)6月、表題の単行本が発刊され、2011年(平成23年)秋、文庫本として改定発行した。
「『ああ、見て、あれ、朝鮮半島じゃない!』家内の声に、急いで飛行機の窓から覗き見る。」、作品の書き出しである。
24年間すべての自由を奪われた北での生活を、南の地から見つめてみようと蓮池夫妻は韓国への旅に出る。8日間の旅で得たものを振り返りつつ綴る作者の思いは北へ、日本へ、そして南へと駆け巡る。拉致された当初、日本へ戻れる思いを断ち、北に「順応」し、家族を持ってからは家族のためにだけ懸命に生きてきた作者だが、心のどこかに望郷の念を抱いていたと、旅を通して振り返る。
氏は単行本の発刊後二度韓国を訪れている。昨年発行された文庫本のあとがきに「・・韓国を二度訪れた・・・なかでも江原道の束草(ソクチョ)から軍事境界線の統一展望台に上り、北朝鮮の金剛山一帯を一望したときのことは今も忘れられない。二十数年前、ピョンヤンから金剛山に行き、景勝地のひとつである三日浦(サミルポ)の海岸から人知れず韓国の地へと目を遣っていた。あのときは胸の高まりを他人に知られまいと苦労した。ところが、その、鳥になってでも生きたかった韓国の地に自分が立ち、反対側から三日浦の海を見下ろしている。夢のようだった。・・・これからも韓国は、私にとって自分の半生を振り返らせ、新たな未来へと叱咤激励してくれる地であり続けるだろう。」
朝鮮半島に身を寄せた日本人は、時に触れ半島に心を託す。
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2011年10月 5日 (水)
族譜・李朝残影 梶山季之著

「族譜・李朝残影 梶山季之著」に収めれた2編より「族譜」を取り上げる。
族譜とは、漢族、朝鮮民族や大越民族(ベトナム)の間で、10世紀以降に広まった家系図の一種のことである。
1930年(昭和5年)生まれの作家・梶山李之は、父親が土木技師として朝鮮総督府に勤めていた関係で、戦後引き上げるまでの15年間、朝鮮の京城(ソウル)で過ごした。その時、見聞きした体験をもとに小説・「族譜(チョクボ)を書いた。
1940年(昭和15年)、徴用逃れのため道庁(朝鮮)の職に就いていた谷六郎は創氏改名の仕事を命じられる。
「創氏改名というのは、日本のとった植民地政策の一つで、朝鮮人や台湾人の姓名を、日本風に改めさせ、日本人になりきらせようという政策」(本文より)、で皇民化政策の一環として1939年(昭和14年)11月に朝鮮総督府は創氏改名の条文を公布した。
谷は創氏改名が遅れていた水原(スウォン)郡を担当させられる。遅れていた理由は、大地主の薜鎮英の存在である。薜は反日でも民族主義者でもない、二万石という膨大な一年間の収益小作米全部を朝鮮軍に献納し、平然としている親日家だった。
彼が創氏改名を嫌っていたため村民も創氏改名に応じない。谷は彼を説得するために京城駅から京釜線に乗り薜のもとへ行った。薜は一抱えもある大きな箱を持ってきた。ぎっしりと詰まった書類は「族譜(チョクボ)」だった。薜一族の伝統と誇りを護りながら書き加えてきたものを絶やしては祖先に申し訳が立たない、創始改名は勘弁してください、薜は断固として応じなかった。谷はなおも説得するが、姓だけはとしぶる薜に谷は薜鎮英の希望通り、薜を「マサキ」とでも日本風に読ませ、創氏改名の手続きを薜にとって貰うことにした。
谷がいとまを告げようとすると、薜の娘・玉順が、「『座敷に朝鮮料理を用意しましたから』と、人づきあいが悪いと言われている谷にしては珍しく薜の人柄に惹かれて座敷に入った。案内されたのは、八畳ぐらいの温突(オンドル)の部屋である。すでにテーブルが出され、料理や皿などが並べられてあった。酒は薬酒だった。五勺はたっぷり入りそうな、大きな盃で飲むのである。・・・温突に赤い絨毯を敷いただけの、何の飾りもない室なのだが、薜鎮英が小声で披露しはじめた朝鮮民謡に聴きとれていると、なるほど朝鮮だ。というような感動がひしひしと胸に迫ってくる。『トラジー』という有名な民謡で、なんでも桔梗の根という意味だそうである。・・・その唄の節まわしは、ひどく哀調がこもっていて、それは亡国の民の、流浪の民の旋律だった」(本文より)。
面事務所に提出した「薜(マサキ)英一」の創氏改名届けは却下された。
谷は再び薜家を訪ね、三晩をかけ説得に当ったが翻意には至らなかった。谷は当初、創氏改名に深い疑問を持っていなかったが、薜鎮英を通して、朝鮮総督府は日本人を作ろうとしているのだ。身も心も日本化し、族譜だの朝鮮人の民族意識を葬り去るための政策だ。自分はそれに加担しているのだという自責の念に谷は駆られる。
そのため、玉順の婚約者・金田北萬も反日の嫌疑をかけられ、官憲の拷問を受け獄舎につながれる。釈放後、志願兵訓練所に入れられ、そこで真の民族主義者に成長し、同志たちと共謀し、集団脱走をはかり、ずっと先に捕らえられて獄死する。
谷らは5月一ぱいで創氏改名の仕事を終え、国語常用運動という任務に就かされた。そんな折、玉順から父親の訃報を受け取った。
谷は道庁を辞し、玉順を訪ねた。薜鎮英の死は谷の予期した通り自殺だった。彼には5人の孫がいた。学校で先生から創氏改名をしない者は学校に来なくてもよいとまで言われ、悲嘆にくれる孫たちのために薜鎮英は創氏改名の決意をし、孫たちが学校へ行くのを見送って面事務所に出かけ、「名前はまだ考えてない」と、「草壁」とだけ書き、その夜、石を抱いて投身した。谷宛の遺書は、「・・・・・私一代にて、伝統ある薜一族の族譜も無用の長物となりたるは、誠に残念なれど、さりとてこの資料を焼却するにも忍び難く候。就きては、よき理解者たる貴下に、その取捨を一任したく、でき得れば京城帝大にでも寄贈方、お骨折り下さらば幸甚これに過ぎたるはなく・・・・・・」(本文より)と、したためてあった。
この小説の終わりを次のように結んでいる
「僕(谷)はそれから三月ばかりして出征した。大東亜戦争がはじまっていた。大袈裟な見送りは嫌だからと、義兄たちや絵の仲間に断って、ただ一人で、僕は列車に乗った。そして三等車の座席でぽつねんと、発車までの時間を過ごした。窓ぎわには、僕と同じように赤紙をもらった人々が家族や職場の仲間に別れを告げている。でも、僕は一人ぼっちだった。(これでいいのだ)と思っていた。なにも悲しくはなかった。どこか贖罪に似た、寧ろ晴々とした気持ちすらあった。」(本文より)
本書は岩波現代文庫(2007年8月17日 第1版発行)だが、本書の底本は「わが鎮魂歌/李朝残影他」(梶山李之自選作品集⑧、 集英社 1973年)を用いている。
投稿時刻 18時21分 文学に視る時代の風景 | 個別ページ
2010年11月13日 (土)
三たびの海峡・帚木蓬生(ははきぎ ほうせい)著

大韓海峡(対馬海峡・筆者)に屏風を立て、向こう側の記憶を封印し、釜山で生きて来た男が四十数年ぶりに海峡を越えた。彼に渡航を促したのは日本に暮らす同胞からの手紙だった。手紙の末尾には「一九九X年三・一蜂起記念の日に」と、添えられていた。「三・一運動は、一九一九年三月一日、日本の朝鮮支配に反対して朝鮮全土でおこった抗日独立運動である。主要都市で『独立宣言書』が読み上げられ、数十万人単位のデモ隊が『大韓独立万歳』を叫んだ。日本軍はこれを武力で弾圧したが、民族独立の精神はこのとき揺るぎないものになった」と、男・河時根(ハー・シグン)は語る。手紙の内容は、彼が徴用で九州の炭鉱で働いていた時、河と同胞に屈辱と虐待の限りを尽くした日本人、その人物が戦後汚職により私服を肥やし、今また市長に立候補し、同胞が眠るボタ山を更地にして再開発をもくろんでいると言うものである。彼は手紙に触発されて三たび海峡を渡る決心をする。
河は慶尚北道(キョウンサンプクド)尚州(サンジェ)に生まれ、昭和16年17歳のとき、病弱な親に代わり強制連行により九州の高辻炭鉱(大辻炭鉱・筆者)に連れて来られる。そこで目にした日本人の横暴、その日本人に媚びる同胞、彼らに辱められ再び海峡を越えられなかった同胞、苦難の炭鉱時代を辛うじて生き延びた河は、日本の敗戦により二たび海峡を渡る。日本人の妻を伴って故郷の土を踏むも、半島の風は日本人に冷たかった。身重な妻は彼のもとを去り、河も故郷を捨て釜山に生きた。
河が体験した日本での塗炭の苦しみを、同胞の胸の中に、朝鮮半島の山河に塗りこめていた過去の苦い記憶の扉を、辱めを受けた日本人の、姑息に生きる姿を目の当たりにし、重い扉を開く。
河は生まれ育った半島を述懐する。
「・・・当時村のはずれを川が流れ、川向こうはなだらかな山になっていた。隣町までは四、五キロあって、村を出た道はやがて川に沿って流れを下り、町に合流する。道の両側に繁るポプラが、夏の日照りには木陰をつくり、冬には風の勢いをいくらかそいでくれた。川には土橋が一本かかっていた。橋杭が大方腐りかけていて、人ひとり通るときでさえも不気味に揺れた。洪水が出ればいつか流されると言われながら、まだ持ちこたえているのは、私たちの村の危ない運命を象徴するかのようだった。・・・耕地の大半は稲田になっていたが、私たちの口に米がはいるのは、盆と正月と、それに病気になったときぐらいだった。洪水や寒波で凶作にでもなれば、秋の収穫はすべて供出してしまい、手許に米は残らない。種モミさえも没収され、種蒔き時には高利でそれを借りる。それがまた利子を生んだ。普段でも六割の小作料と一割の地税が差し引かれ、手取りは三割にすぎなかった。換金するためには、その手持ちの米を売り渡さなければならない。主食は麦飯ならまだ良いほうで、主に粟飯とヒエで、ときどきコーリャンやトウモロコシが加わった。
貧しきは年々、度を増した。私が十歳になってからだけでも、毎年二、三軒の家が村から消えていった。彼らは、山奥深くはいって焼畑で食いつなぐ火田民か、ソウルや大田(テジョン)、大邸(テグ)で日雇い仕事を探す士幕民か、最悪の場合は乞食になった。・・・しかし、そんな貧相な村ではあっても、私は家の裏の土手に咲いていた紫の色のアカシアの花や、春の風になびくポプラの木、新緑が美しい柳の枝を、懐かしく思い出す。村には湧き水もあって、石垣で囲った共同の井戸からは甘露のような水がいつも溢れ出ていた。小さい頃、母はよくそこへ私を連れていってくれた。いつも五、六人の女たちが集まり、ひょうたんを割って作ったパカジで水を汲み、オンペギのなかで着物を洗ったり、洗濯棒で布を叩いたり、灰汁で漂白したり、麦を研いだりしながら世間話をするのだ。時には、子供に理解できない卑猥な言葉を並べて、それこそ一分も二分も笑いころげた。麦の研ぎ汁はふくべに入れて大事に持ち帰り、ニワトリや牛の飲料水にした。・・・村にはチョングポ売りもやって来た。緑豆の煮汁を凍らせた物にすぎなかったが、私には異国の貴い味に感じられた。頭に載せて売り歩く姿を見かけると母親にねだったものだ。糠餅の香ばしい味も忘れることができない。糠にくず米を混ぜて塗り固め、藁火で焼いた何の変哲もない食い物なのに、今でもその匂いをかぎ、歯をたてるだけで五十年前の村のたたずまいや暮らしぶりを想い起こすことができる。」(新潮文庫より)
めぐり来る季節の中で、朝鮮半島は今、どのような佇まいをみせているのだろうか。
投稿時刻 10時08分 文学に視る時代の風景 | 個別ページ
2010年2月10日 (水)
北の詩人・松本清張 著

「一九四五年の十月、林和(リムファ)はパコダ広場を過(よぎ)っていた。ソウル(京城)の屋根の上に湖のような空がひろがり、空気が冷たく乾燥していた。地面に砂が舞っている日だった」、この文章で始まる「北の詩人」は実在の革命詩人、林和をモデルに松本清張が小説化したものである。
林和は解放の予感に沸く1945年10月のソウルで、以前労働組合の事務所か何かで、顔を合わせた男から声をかけられる。肺病に効く薬ほしさにその男の誘いに乗り、言われるまゝに左翼運動内部の資料を提供する。だんだん深みに入って行くその先にアメリカ軍の存在があった。一方で、文学運動の指導者として、左翼運動を引っ張ってもいた。李承晩(イスンマン)に代表される右派が台頭してきた南で、アメリカ軍政庁と関係のあるアメリカ人牧師から「あなたはもう南にはいられない、危険だ。あなたは南では目立ちすぎた、軍政庁があなたを捕らえないとも限らない。北へ行きなさい、これからは北以外にあなたの任務はない」、アメリカの指令に従って北にもぐるか、拒絶して死を択ぶか、林和は北への道を択んだ。
北へ向かう日、小説は次のように描写している。
「夜は冷えた。星がきれいに冴えている。十一月に入っていた。林和は歩いていた。肩が冷える。開城(ケソン)を過ぎたのが二時間ぐらい前だ。鉄道線路がずっと向うにあるが、むろん汽車は走っていない。広い平野だ。空が広かった。・・・・・林和は、いま、これが自由な立場で歩けたら、と思う。昼間だと、この辺の景色は素晴しいに違いなかった。彼は田園が好きだった。貧しい農家の点在する風景を人間的な詩にうたいたかった。それこそ、虐待の中に生き抜いてきた民族の詩を黄昏の色の中でうたいたい。革命とか、抵抗とかいう字句を一切使わずに、心からうたう詩を書きたい……」。
「暗い過去」の経歴を引きづりながら1947年北に渡り、1953年「米帝のスパイ」容疑として朝鮮民主主義人民共和国最高裁判所軍事裁判部において死刑に処せられた。
林和が裁判で述べた「暗い過去」とは、
林和は1908年、馬山(マサン)の貧農の家に生まれた、4、5歳のとき父が商いに成功し17、18歳頃までは余裕のある環境で育った。1921年からソウルの普成(ポソン)中学に通い、その頃から文学に興味を覚え詩を書き始める。1926年12月頃には李箕永、韓雪野などと共に朝鮮プロレタリア芸術同盟(カップ)に加入し、1928年7月頃よりカップ中央委員として活動、1935年4月頃からは書記長として朝鮮文学指導部の一人となった。その一年前共に活動してきた李箕永、韓雪野ら幹部が全羅北道(チョルラプクド)において検挙された。この時林和も検挙されるが獄中であったため、これから己が身に降りかかる日本官憲の弾圧に恐怖した。1936年6月頃京畿道警察部主任の日本人警部斎賀に林和が署名したカップ解散の宣言書を提出した。その後プロレタリア文学の立場を離れ純文学を主張する。以後日帝の「時局」に協力し、1939年9月には「言葉を移植する」という日本語論文を『京城日報』に発表して朝鮮人作家に日本精神を注ぎ込もうとした。1940年6月頃より1942年12月頃まで映画会社の「高麗映画社」文芸部の嘱託として働きながら、朝鮮軍司令部報道部で製作した日本の宣伝映画『キミとボク』の対話を直接校正した。1943年1月より1944年12月頃まで「朝鮮映画文化研究所」の嘱託をしていた、ここでは『朝鮮映画年鑑』、『朝鮮映画発達史』を編集し、朝鮮文学及び映画の発達のためには日本と合同するのが正当であることを強調した。
林和が行ったことのない、まだ見ぬ山の向こうの北に想いを馳せる場面がある。
「ソウル近郊を流れている漢江(ハンガン)の河原に立つと、北に山脈(やまなみ)が連なって見える。その山の向うに『北の国』がある。山の多い国だった。高い山の名前も知っている。まだ見たこともない、その山の容(かたち)や谷間の町が、空の下に想像された。しかし、今はそこに行くことができない、彼はいつもうすれた山の色から、その涯(はて)までつづく地形に空想を走らせる。白頭山がニ七四〇メートル、冠帽峰がニ五四〇メートル、胞胎山がニ四四〇メートル、狼林山がニ〇一〇メートル……この高い山々の間に、淋しい村や里がへばりついている。林和は楸哥嶺、狄踰嶺などという名前を聞いただけでも詩情が激しく動く。その山峡を流れている白い川と、そのほとりにうずくまっている黴(かび)のような部落が空想の中に浮かぶ。やはり緑のない、茶褐色の、重く沈んだ色彩の中だった。それは、北の政治も南の闘争もない静かなよどんだ風景であった」。
林和は凍てついた冬を、彼の住む漢江近くに想う。
「寒い新年が来た。漢江は凍り、トラックや牛車で対岸と往来できるようになった。あらゆる液体が凍った。温突(オンドル)の火が乏しいので、室内で流れた水が五分と経たないうち白く霜を吹く。燃料はなかった。石炭の配給も少なかった。ヤミ市場では薪一把が大そうな値段を呼んだ。山に行っても雪のために焚き木が取れなかった」。
1934年に詠った一編の詩が小説冒頭の前に掲載されている、次のような詩が・・・。
「いま この まっ青な鳥は 力なく はばたき 息も 絶えだえに 冷えてゆく胸をいだき 暗い恐怖 絶望の吐息にふるえている ――どこにも道がない (暗黒の谷間で<林和『暗黒の精神>』)」
被抑圧の時代、朝鮮に生まれ育ち、時代と権力に翻弄された一詩人の魂は今も半島を彷徨っている。
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