事件簿
2014年3月 2日 (日)
3.1独立運動
今から95年前の1919年(大正8年)の3月1日、朝鮮全土を揺るがす一大民族運動が起こった。3.1独立運動である。私の母は「万歳事件」と呼んでいた。
併合後、朝鮮総督府は武断政治を敷き、陸軍内の秩序維持を図る憲兵に警察の役割を負わせる憲兵警察制度を執っていた。
このような総督府に対するプロテスト運動として、キリスト教徒をはじめとする宗教者やそれに呼応した一般民衆が声を挙げ、やがて運動は朝鮮全土に拡がり、3月1日の大示威行動へ結実していった。
朝鮮全土に「独立万歳(マンセ)」の声が響き渡り、京城(ソウル)のバゴダ公園で3月1日の午後、「独立宣言書」が読み挙げられた。(下記)
運動に参加した朝鮮人民は100万を超えた。
しかし、日本帝国の強権は7500人有余の尊い命を奪った。その中には多くのキリスト教徒がいた。
当時、私の祖母・ツヤはキリスト教の布教を、祖父・義貞は総督府の警察官吏として朝鮮に赴いていた。
この事件をきっかけにツヤは心身に疲弊を来たした。
事後処理に当たった義貞は、事件が一段落した2年後、警察官吏の職を辞し、帰国した。
95年前のきのうの事である。
「万歳事件」で犠牲になられた多くの方々に心より哀悼の意を表します。
独立宣言全文

われわれはここにわが朝鮮国が独立国であること、および朝鮮人が自由民であることを宣言する。これをもって世界万邦に告げ、人類平等の大義を克明し、これをもって子孫万代に教え、民族自存の正当なる権利を永遠に有せしむるものである。半万年の歴史の権利によってこれを宣言し、二千万民衆の忠誠を合わせてこれを明らかにし、民族の恒久一筋の自由の発展のためにこれを主張し、人類の良心の発露にもとづいた世界改造の大機運に順応し、並進させるためにこれを提起するものである。これは天の明命、時代の大勢、全人類の共存同生の権利の正当な発動である。天下の何ものといえどもこれを抑制することはできない。旧時代の遺物である侵略主義、強権主義の犠牲となって、有史以来幾千年を重ね、はじめて異民族による箝制の痛苦を嘗めてからここに10年が過ぎた。彼らはわが生存の権利をどれほど剥奪したであろうか。精神上の発展にどれほど障礙となったであろうか。民族の尊厳と栄光をどれほど毀損したであろうか。新鋭と独創によって世界文化の大潮流に寄与、裨補(ひほ)できる機縁をわれらはどれほど遺失したであろうか。
ああ旧来の抑鬱を宣揚せんとすれば、時下の苦痛を擺脱せんとすれば、将来の脅威を芟除せんとすれば、民族的良心と国家的廉義の圧縮、銷残とを興起、伸長せんとすれば、各個人の人格の正当な発達を遂げんとすれば、憐れむべき子弟たちに苦恥的な財産を遺与せざらんとすれば、子々孫々永久完全な慶福を尊迎せんとすれば、その最大急務は民族の独立を確実なものにすることにある。二千万人民のおのおのが方寸の刃を懐にし、人類の通性と時代の良心が正義の軍と人道の干戈とをもって援護する今日、吾人が進んで取ればどんな強権でも挫けないものがあろうか。退いて事をなせばどんな志であれ、のばせない志があろうか。
丙子修好条規以来、種々の金石の盟約を偽ったとして、日本の信のないことを咎めようとするものではない。学者は講壇で、政治家は実際においてわが祖宗の世業を植民地的なものとみなし、わが文化民族を野蛮人なみに遇し、もっぱら征服者の快楽を貪っている。わが久遠の社会の基礎と卓越した民族の心理とを無視するものとして、日本の少義を責めんとするものではない。自己を策励するのに急なわれわれには、他人を懲弁する暇はない。今日われわれがなさねばならないことは、ただ自己の建設だけである。決して他を破壊するものではない。厳粛な良心の命令によって自家の新運命を開拓しようとするものである。決して旧怨および一時的な感情によって他を嫉逐、排斥するものではない。旧思想、旧勢力に束縛され日本の為政者の功名心の犠牲となっている、不自然でまた不合理な錯誤状態を改善、匡正して、自然でまた合理的な正経の大源に帰そうとするものである。当初から民族的な要求として出されたものではない両国併合の結果が、畢竟、姑息的威圧と差別的不平等と統計数字上の虚飾のもとで、利害相反する両民族間に永遠に和合することのできない怨恨の溝を、ますます深くさせている今日までの実績をみよ。勇明、果敢をもって旧来の誤りを正し、真正なる理解と同情とを基本とする友好の新局面を打開することが、彼我の間に禍いを遠ざけ、祝福をもたらす捷径であることを明知すべきではないか。憤りを含み怨みを抱いている二千万の民を、威力をもって拘束することは、ただに東洋永遠の平和を保障するゆえんでないだけでなく、これによって、東洋安危の主軸である4億の中国人民の日本に対する危懼と猜疑とをますます濃厚にさせ、その結果として東洋全局の共倒れ、同時に滅亡の悲運を招くであろうことは明らかである。今日わが朝鮮の独立は朝鮮人をして正当なる生活の繁栄を遂げさせると同時に、日本をして邪道より出でて東洋の支持者としての重責を全うさせるものであり、中国をして夢寐にも忘れえない不安や恐怖から脱出させるものである。また東洋の平和を重要な一部とする世界の平和、人類の幸福に必要なる階梯となさしめるものである。これがどうして区々とした感情の問題であろうか。
ああ、新天地は眼前に展開せられた。威力の時代は去り道義の時代がきた。過去の全世紀にわたって錬磨され、長く養われてきた人道的精神は、まさに新文明の曙光を人類の歴史に投射しはじめた。新春は世界にめぐりきて、万物の回蘇をうながしつつある。凍氷、寒雪に呼吸を閉蟄していたのが一時の勢いであるとすれば、和風、暖陽に気脈を振るいのばすこともまた一時の勢いである。天地の復運に際し、世界変潮に乗じたわれわれは何らの躊躇もなく、何らの忌憚することもない。わが固有の自由権を護り、旺盛に生きる楽しみを享けられるよう、わが自足の独創力を発揮して春風に満ちた大界に民族的精華を結紐すべきである。
われわれはここに奮起した。良心はわれわれとともにあり、真理はわれわれとともに進む。男女老少の別なく陰鬱な古巣から活発に起来して、万民群衆とともに欣快なる復活を成し遂げようとするものである。千百世の祖霊はわれらを蔭ながらたすけ、全世界の気運はわれらを外から護っている。着手がすなわち成功である。ただ前方の光明に向かって邁進するだけである。
公 約 3 章
一、今日われわれのこの挙は、正義、人道、生存、尊栄のためにする民族的要求すなわち自由の精神を発揮するものであって、決して排他的感情に逸走してはならない。
一、最後の一人まで、最後の一刻まで、民族の正当なる意思を快く発表せよ。
一、一切の行動はもっとも秩序を尊重し、われわれえの主張と態度をしてあくまで光明正大にせよ。
朝鮮建国4252年3月1日
朝鮮民族代表
「万歳事件を知っていますか」木村悦子(平凡社)
投稿時刻 19時51分 事件簿 | 個別ページ
2010年7月21日 (水)
月下の侵略者・余聞2
長編記録映画『月下の侵略者--文禄・慶長の役と「耳塚」』を観る前にフロントで買った同映画のパンフレット(NPO法人ハヌルハウス/映像ハヌルビデオプロジェクト発行 ¥500)から映画に出てくる用語の解説を記載(画像は別)、作成は李義則
氏

○ 妙香山(ミョヒャンサン)
朝鮮半島北部・平安道・慈江道の境に位置する妙高脈の主峰。標高1909m。朝鮮名山の一つ。朝鮮建国神話の主人公檀君の生誕地といわれる。

○ 普賢寺(ポヒョンサ)
妙香山麓にあり、高麗時代創建の古寺、朝鮮五大寺の一つ。壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の時、休静(西山大師)は、ここで義兵を組織した。四溟堂(松雲大師)らが輩出している。

○ 景福宮(キョンブックグン)
朝鮮王朝最初の王宮、太祖李成桂によって、1395年建立。12万6000坪の敷地に200棟を超える殿閣があり、栄華を極めたが、壬辰倭乱(文禄・慶長の役)により焼失した。

○ 南大門(崇礼門)(ナムデムン)
壬辰倭乱(文禄・慶長の役)にも焼失せず、李朝500年の偉容を誇り、韓国。国宝第1号。2008年放火により焼失、現在再建中。北方義州に通じる門。現在南大門市場はソウル観光のスポットとして有名。

○ 東大門(興仁門)(トンデムン)
南方釜山に通じる門。当時の城壁が一部残されている。現在は門の周囲に広がる東大門市場は観光スポットして有名。
Sturtle_boat

○ 亀甲船(コブクソン)
李舜臣将軍が創案し、1592年に建造。2階建、木造船。150人乗船可能。左右に16個の櫓と二つの帆、屋根に鋭い先が上に向けたくぎが無数に打ち込んである。日本水軍に壊減的な打撃を与え戦局の転機をもたらした。

○ 昌徳宮(チヤンドォクグン)
1405年 朝鮮王第三代太宗の時、離宮として建立。壬辰倭乱(文禄・慶長の役)で焼失。 1609年再建され景福宮が再建されるまでの約250年間、正宮として使用された。

○ 南原城(ナムウォンソン)
14万5千の倭軍によって、慶長2年(1597年 )8月15日陥落。明・朝鮮軍、庶民合わせて、1万人が玉砕したとされている。僧慶念の「朝鮮日々記」に「八月十六日、南原城の男女残りなく打ち捨て生捕るものなし」と記されている。 南原城で殺された朝鮮人、明人の鼻が切り取られ、鼻目録が添えられてたくさんの鼻が秀吉の元に送られた。
○ 名護屋城
文禄・慶長の役の本陣として1591年、秀吉が九州諸大名に築城させた。5層7階の天守閣のはか、櫓、書院、数奇屋、諸侯の陣屋などが展開する雄大なものであった。秀吉はここに一年数ヶ月滞在し、淀殿はここで秀頼を懐妊したと伝えられる。
○ 倭城
壬辰倭乱(文禄・慶長の役)に際して日本軍が朝鮮南部に築城した城郭。朝鮮の巴城を占領して日本式に一部改築をした城。本城、支城、端城を合わせると30を越したといわれる。釜山倭城を中心拠点として、朝鮮半島の東海岸から西海岸主に慶尚道に築城された。【おもな倭城と築城者】釜山倭城・毛利輝元、東米倭城・吉川広家、機張倭城・黒田長政、西生浦倭城・加藤清正、金海竹島倭城・鍋島直茂、熊川倭城・小早川隆景、永登浦倭城・島津義弘、泗川倭城・毛利吉成、南海倭城・脇坂安治、順天倭城・宇喜多秀
○ 仮途入明 (仮道入明)
明に侵攻する日本の軍勢に朝鮮の道をかすという意味。日本の独善的な押し付けで朝鮮を圧迫した。
○ 義兵
日本軍の朝鮮侵攻により朝鮮軍は連戦連敗を重ねた結果、官軍の無能がその起爆剤となった。日本に対する伝統的優越感・郷土愛・儒教的な勤王精神がこれに加わり義兵活動として噴出した。義兵は両班から僧侶・賤民までの多様な階層から構成された。義兵の総数は、
2万2600余名と推算される。代表的な義兵長には郭再祐、高敬命、趙憲、金千鎰などがおり、僧兵には、西山大師(休静)、四溟堂(惟政)らがいる。義兵は、官軍と共同戦線を張ることによって日本軍に大きな打撃を与えた。
○ 火計り(ひばかり)
主に慶長の役で西国大名に連行された朝鮮陶工たちは、陶土、釉薬、窯道具をもって船に乗り込んでいる。各大名の命により、窯を築き、朝鮮から持ってきた陶土と窯道具と釉薬を使い朝鮮陶工が焼いた茶碗などの陶磁器を、火だけが日本のものという意味から、火計りと呼ばれた。
○ 壬辰(文禄)役の三大捷(テジョブ)
大捷とは勝利すること。権慄将軍の幸州大捷、李舜臣将軍の閑山大捷。金時敏将軍の晋州大捷を壬辰(文禄)役の三大捷という。

○ 四涙堂(惟政)(サミョンダン)
李朝中期の名僧、号を松雲大師(または四溟堂)。慶尚道密陽生まれ。西山大師(休静)の弟子。壬辰倭乱の時、僧徒をもって義兵を組織し、各地に転戦。西生浦城に在番の加藤清正と和平交渉で3回会談している。1605年国書を持って京都にのぼり、徳川家康に接見。国交回復に尽力、帰国時1600の捕虜を従えて帰国。1544-1610
○ 西山大師(休静)(ソサンテサ)
李朝中期の名僧。号を西山大師という。壬辰倭乱の時、妙香山を根拠として、僧徒5000名をもって義兵を組織し、北進してきた日本軍を撃退し武功をたてた。当時73歳の休静は老躯を駆って全国の叢林に檄を発して国難の危急に挺身を訴えた。
○ 李舜臣(イスンシン)
1591年全羅左道水軍節度使となる。壬辰倭乱の時、亀甲始をつくり、当時斬り込みを中心とした接舷戦法が基本となっていた海戦で、火砲戦法を用い、玉浦、閑山島沖等の海戦で日本水軍に連戦連勝した。1598年11月露梁海戦で流れ弾に当たり戦死。忠清南道牙山市塩崎巴岩里の顕忠砥祠(史第155号)に李舜臣の遺物「乱中日記」などが展示されてい。1545-1598

○ 郭再祐(カクチェウ)
慶尚右道宣寧、丈禄元年(1592年)日本軍の攻撃に対する防衛の決起を呼びかけ50余人の村人を集めて、最初の抗日義兵を組織した。地の利を生かしたゲリラ戦で日本軍を潰乱させ、郭再祐の名は全国各地に伝わり義兵抗戦に弾みをつけた。
○ 高敬命(コギョンミョン)
全羅道光州の人で傑出した文人。6000人の義兵を組織して、1592年6月漢城の奪還をめざして北上途中、小早川隆景の全羅道侵入の報を受け、小早川隊の本陣、錦山巴城を攻撃したが、息子と共にあえなく戦死。錦山郊外の七百義塚に祀られている。
○ 権慄 幸州山城の戦い
壬辰倭乱の時、光州牧使(地方官)全羅道巡察使(各道統括官職)。1593年2月12日、夜明6時、宇喜多秀家率いる3万人の兵をソウル西の幸州山城で迎え撃ち、権慄将軍(1573‐1599)率いる官軍、僧兵、婦女子も戦闘に加わり、死闘を繰り広げたが、12時間の攻防の末、日本軍は1万余名の死傷者を出し敗北した。
○ 姜沆(カンハン)
朝鮮中期の文臣、晋州の人。朝鮮屈指の大儒学者。李退渓、李栗谷の学派を継ぐ。慶長の役(1597)で藤堂高虎水軍の捕虜となる。大洲城に幽閉され後、京都伏見城に送られる。相国寺の禅僧藤原惺窩と交友をむすび朝鮮儒学を伝える。1600年帰国、日本の内情を伝えた「看羊録」を著す。京都方広寺の耳塚のことなど記録にとどめている。1567-1618。
○ 沙也可(さやか)
文禄の役で加藤清正の右先鋒将として釜山に上陸後、3000名の部下とともに朝鮮軍に投降。朝鮮兵として日本軍と戦う。火縄銃の製作技術を朝鮮に伝授。1593年、朝鮮名金忠善を贈られる。晩年、慶尚北道達城郡友鹿洞に定住。現在の大邱広域市達城郡嘉昌面友鹿里の鹿洞書院には講堂、記念館、向陽門、などがあり、慕夏堂(号)文集、親筆、贈職教旨、火縄銃などの遺物が展示されている。現十四世孫金在錫氏は鹿洞書院を運営。1571-1642。
Nonge

○ 論介(ノンゲ)
李朝時代の妓生で、壬辰丁酉倭乱(文禄・慶長の役)の義妓。1593年6月、晋州城を攻め落とした日本軍は城の南を流れる南江をのぞむ矗石楼で酒宴を開いた。各地から集められた妓生の一人、長水生まれの論介は、日本の武将、毛谷村六助を南江に立つ岩の上に誘い出し、抱きかかえて南江に身を投じた。以来、この岩を義岩と称し、矗石楼の奥に論介祀堂を建て、毎年6月には祭事を行っている。?_1593。
投稿時刻 20時19分 事件簿 | 個別ページ
2010年7月20日 (火)
月下の侵略者・余聞1
長編記録映画『月下の侵略者--文禄・慶長の役と「耳塚」』を観る前にフロントで買った同映画のパンフレット(NPO法人ハヌルハウス/映像ハヌルビデオプロジェクト発行 ¥500)から中 智(プロデューサー)、上田 正昭(アジア史学会会長/京都大学名誉教授)
、加賀乙彦(作家)、尹達世(姫路獨協大学非常勤講師)の各氏がこの映画への思いを綴っているので転記し掲載する。(画像を除く)
光と風と声が・・・・・・長編記録映画『月下の侵略者--文禄・慶長の役と「耳塚」』が完成した。 中 智(プロデューサー)

4年前の秋、前田監督から電話が入った。「耳塚」を撮りたい、ついてはプロデューサーとして補佐せよ、と。
秀吉の朝鮮侵略を、知られざる「事実」の積み重ねで実証しようというのである。膨大な資料収集と日本、韓国、北朝鮮、中国にオールロケする構想。製作予算6,000万円。聞いていて、秀吉の明征服の野望に劣らぬ無謀な企画のようで、クラクラと目眩すら覚えた。
ほとんどの日本人は「耳塚」の存在も、その意味も知らない。 秀吉は太閤さんと呼ばれ、百姓から成りあがった庶民の人気者だ。これは多くは明治以降の国策として、政府が秀吉を英雄に仕立てあげ、演出したものだった。江戸時代には秀吉はタブーだったのである。
明治政府が秀吉を英雄化した理由の一つが、1910年に日本が韓国を併合する道筋への序章だったのではあるまいか。奇しくも来年は日本の韓国併合100年目にあたる。幾多の韓国独立を目指した志士たちの恨が聞こえてくるようだ。また、日本でも今、大きなうねりが生じようとしている。歴史の一大転換期なのだ。このタイミングに「耳塚」の映画が完成し、公開されるということは、なにやら因縁めいた必然性と、手応えを実感せざるを得ない。
「無知は罪である」という。知らなかった、教えられなかった、ではなく、真実を知ろうと努力することが重要なのだ。長年にわたって、日本と朝鮮半島の文化・歴史を映像によって追究してきた前田憲二監督の、これは歴史の集大成ともいえる作品である。日本人の「無知」を「耳塚」によって覚醒させようとの試みである。
映画のタイトルの「月下の侵略者」について一言。韓国では、月を不吉なものの象徴にとらえる風俗があるという。日本でも出雲や石見地方では乙女が満月を見ることを忌み嫌う風習が今でも残っている。英語の「ルナ」(月)の派生語「ルナテイック」は、「狂気じみた」という意だ。「月下の侵略者」のタイトルには、「月」に対するこのようなイメージが込められている。
さて、この映画は日韓両国の、熱き思いをもった人々の、多大なるご支援によって完成された。そして、今や公開も市民による草の根的上映運動として展開されようとしている。おそらく時間の経過とともに、この作品の評価はさらなる高まりを見せることだろう。400年前の過去を描いているように見えるが、実は現代への強烈なメッセージを意図して製作されたものであることに、観客の皆さんにぜひ気付いてほしい。 2009年盛夏
長編記録映画『月下の侵略者--文禄・慶長の役と「耳塚」』 上映運動のみのりを期待する 上田正昭(アジア史学会会長/京都大学名誉教授)
朝鮮通信使の第8次(1711年)と第9次(1719年)に、真文役として活躍した対馬藩の藩儒の雨森芳洲が享保13年(1728年)の12月20日に、朝鮮外交の心得を52項目にわたってまとめた『交隣提醒』には、豊臣秀吉の文禄(壬辰)・慶長(丁酉)の役(倭乱)について、次のように明記している。
朝鮮通信使に京都の方広寺大仏へ立ち寄ることを求めているならわしが、いかに「我が国の不学無識」を露見することになるかを諄々と説き、「耳塚とても豊臣家無名の師を起し、両国無数の人民を殺害せられたる事に候」と、みごとに指摘しているのがそれである。
18世紀前半の封建体制のなかで、雨森芳洲のように豊臣秀吉らの朝鮮侵略を、大義名分の全くない戦争とはっきり断言した人物はまれである。しかも、「両国無数の人民を殺害」と、敵・味方あわせての悲惨ないくさであったことを述べているのもさすがであった。
豊臣秀吉が天正14年(1586)に創建した方広寺大仏へ、朝鮮通信使を立ち寄らせることじたいが「不学無識」であり、近くに「鼻塚」(「耳塚」)があることを熟知しての方広寺参詣は、友好親善の外交に反する行為であった。
慶長2年(1597)の9月、大仏前で行われた「大明朝鮮闘死之衆」の施餓鬼供養が「慈救」でもなければ、「鼻塚」の造営が「慈仁」でもなかったことは、このたびの多年におよぶ前田憲二監督をはじめとする方々の労苦の結晶『月下の侵略者
―文禄・慶長の役と「耳塚」 ―』に明らかである。
雨森芳洲は『交隣提醒』のおわりの部分で、誠信の交わりと申す事、人々申す事に候へども、多くは字義(その言葉の意味)を分明に仕まつらざる事これあり候」と記して、「誠信と申し候は、実意と申す事にて、互に欺かず事を争はず、真実を以て、交わり候を誠信とは申し候」と述べている。
この「誠信の交わり」を、今の「国際化」あるいは「善隣友好」という言葉とおきかえても、立派に通用する卓言である。史実にもとづき、丹念な取材を前提とした映画「月下の侵略者」は、壬辰・丁酉倭乱の実像と「耳塚」の本質に迫る傑作である。
敵・味方をこえた「怨親平等」のあるべき姿をめざし、まことの善隣友好に大きく寄与するその上映運動が内外のうねりとなってすばらしいみのりを結ぶことを、こころから期待する。
『月下の侵略者』を観て 緻密な現地取材による残虐の再現 加賀乙彦(作家)
文禄・慶長の役については、鎮海の小西行長の倭城を観た思い出がある。鎮海はプサンの近くにあり、日本軍の要塞が今に残っている。行長はカトリック教徒であったので、昔の城砦がそっくり残り、ミサをあげた場所もそっくり保存されていて、強烈な印象を残した。しかし、この戦争の全体については、今回前田憲二の『月下の侵略者』で初めて知ったことが多い。
冒頭、秀吉の出自についての映像があり、彼が天下とみなした日本列島の覇者となって、明征服という途方もない妄想にとりつかれていく過程が示される。明を征服するためには朝鮮を屈伏させねばならず、ここに日本と朝鮮との戦争が始まる。不意をつかれた朝鮮は王を始め政府は北に逃亡するが、次第に民衆の反日抗戦によって日本軍を圧迫していく。この戦争の激戦地の現地取材によって、昔をしのぶように創られているこの映画の世界に私はたちまち引き入れられた。
日本軍は戦果のあかしとして朝鮮人の鼻をそいで秀吉に送った。首のかわりである。それを耳と称して日本各地に耳塚ができた。戦果としての首は日本国内では名のある武将を主としていたのだが、朝鮮では、一般民衆を殺して、それを戦果とみなしたのだ。なんという残虐な行為であったろう。鼻では美しくないから耳としたごまかしも、礼にかなってはいない。
秀吉という一人の権力者の高慢な思い込みによって、朝鮮の人々は苦しめられ、辱められた。しかもその行為は、キリシタン大名小西行長と、日蓮宗徒の加藤清正によって遂行されたのだ。
ソウルからさらに北の平壌に王が逃げていき、やがて朝鮮民衆と明軍の逆襲となる。この現地調査に北朝鮮が協力している様子がほほえましかった。それほどまでに秀吉の暴挙に対する怒りは大きかったのだ。
戦争という陰惨な史実を追いながら、前田監督のカメラは田園ののどかな風景、農作業の様子などを平和な現在としてとらえている。この対比が、鮮やかな映像となって観ている者の心をなごやかにしてくれる。
一方では日本で行われている伏見城、衆楽第の豪華な生活が回顧されている。春の宴は陰惨な朝鮮での残虐を、かえって際立たせている。巨大な耳塚が、その矛盾した人間の心の象徴として迫ってくる。
朝鮮水軍の逆襲が、亀甲船をあやつる李舜臣将軍の果敢な戦いぶりだ。日本の水軍はつぎつぎにうちやぶられ、兵糧の輸送も兵員の補充もできなくなり、追い詰められていった。私はこの亀甲船の再生船を鎮海で見たが、じつに堅牢で精巧な船であった。
前田憲二監督の映画はこの亀甲船の存在を納得のいく迫力で描いていた。

日本に拉致された陶工、医師、儒学者がどの地方に送られたかを、映画は執拗な足跡調査で追っていく。最後は秀吉にかかわりを持つ阿弥陀峰や豊国神社や方広寺と、李舜臣将軍の壮烈な戦死、韓国国内に数多くある彼の像を対比させている。
観終わって私は、秀吉という一人の独裁者が行った残酷な戦争のおぞましさ、無意味さ、耳塚の欺瞞が、ずっしりと心の底溜まった思いをした。そして、これほどの面倒で複雑な取材をして、文禄・慶長の役の真実をあばきだしてくれた映画の力に感動した。
「やきもの戦争」と「人さらい戦争」 尹達世(姫路獨協大学非常勤講師)
「たった一人を殺すだけでも天下の一大事とすべきだというのに、罪もない異国の幾千万もの民を殺し、土地を奪ってわが富とするなど、極悪非道の極みではないか。国内でもし誰かが民家に押し入って妻子家僕を脅し財宝を強奪すれば、これを強盗と見なし強奪者を征伐し、その罪を罰するではないか。太閤は異国に押し入り、人の妻子家僕を暴殺し、家国を乱奪して我が物として所有しようとしている、あるいはそれを許している。これはまさに盗賊の所業ではないか。大臣武将を異国に送り、盗賊行為を犯させ、わが神国を盗賊国にしようするとはなんと恥ずべきことか」。
これは江戸時代中期、津軽藩の勘定奉行であり、思想家であった乳井貢の豊臣秀吉の朝鮮侵略戦争批判の書である。その戦争の本質を語るのには、たいへん分かりやすい一文である。
四百年前、秀吉は一方的に侵略戦争をはじめ、多くの罪なき民衆を殺戮し、村を焼き尽くし、田畑を不毛にした。そのため当時の朝鮮人はかれらを対等な「敵」とは呼ばずに「賊」と見なし、両班や民衆は郷土を守るため「義兵」として立ち上がった。義兵という概念は日本にはなく、したがって日本の辞書にも載っていない。
江戸時代前期の儒学者、貝原益軒は用兵について「義兵、応兵、貪兵、騎兵、忿兵の五種あり。義兵と応兵とは君子の用いる所であるが、豊臣氏が朝鮮に戦争を起こしたのは貪兵と騎兵を兼ねあわせたものであり、これを用いるものは好戦争者である。これは天道、悪を憎む所であり、そのいきつく所は滅亡なり」と述べている。
ちなみに義兵とは『漢書』によれば、「乱を救い、暴を誅する」兵ということであるが、故郷を守るという大義のために戦った民衆兵である。また貪兵とは「人の土地、家宝を利する者」、また騎兵とは「国家の大なるを侍み、民人の衆きを衿り、敵に威を見さんと欲する者」ということである。「義兵」は明治の朝鮮侵略にも再び登場した。いずれも日本の侵略に対してだけ使われた言葉であることは、いま一度考えなければならない問題でもある。
益軒のいう通り、この戦争は軍事的には秀吉軍の完全な敗北に終ったけれども、朝鮮では「倭賊」を撃退した勝利の喜びはまったくなかった。戦場が朝鮮の国内だけで行われたため、あまりにも荒廃した国土が残っただけであったからである。一方、日本も本来の目的であった領土の獲得は一握りも得ず、十万人にものぼる軍兵や徴発された民衆が死傷した。そのため国内はまたもや内乱が起こり、その結果、豊臣政権はあっけなく崩壊した。しかし、日本はこの戦争によって朝鮮の当時の高い文化・技術の導入に成功した。残念ながら他民族の優れた文化が戦争を通じて伝わることは歴史上、世界各地で見られたことであった。
私の小さい頃にはまだ「朝鮮征伐」ということばが飛び交っていたが、「やきもの戦争」などという表現も目につくようになった。なぜ「やきもの戦争」なのか。それはこの戦争によって「やきものJに関してはまだ後進国だった日本に先進国朝鮮と同じ陶器や磁器が出現したからである。とりわけ後進圏だった西国の諸藩で「やきもの」が一斉に開花した。まさに当時としては先端技術の導入であった。
しかし、秀吉や彼に従った武将たちは「やきもの」を求めて渡海したのではなかったろう。あくまで「やきもの」は戦争の副産物であった。この戦争を「やきもの戦争」などと限定して名づけてしまうことはこの戦争を美化し、さらに戦争の本質を歪曲してしまうのではないかと思ったものである。
秀吉軍はこの戦争で貴重な文化財を手当たりしだい掠奪し、持ち帰ってきた。そればかりではなく痛ましいのは、何万人ともいわれる朝鮮人を拉致してきたことである。日本に連れ帰った人々は知識人や技能者だけでなく、無名の農民、非力な女性や子どもたちまで含まれている。それもその範囲は驚くことに九州などの西国だけでなく、東北にまでいたる全国的な規模なのである。これらを見ると「やきもの戦争」というよりは、むしろ「人さらい戦争」というべきかも知れない。近代の朝鮮侵略と植民地政策の原形がすでに四百年前に出現していたことを見逃してはならない。
投稿時刻 17時16分 事件簿 | 個別ページ
2010年7月19日 (月)
月下の侵略者(文禄・慶長のの役と耳塚)
鬱陶しい梅雨も明けカラッとした夏日和がやってきた。

神戸の長田にあるビブレホールで、上映時間2時間48分の長編記録映画『月下の夏-文禄・慶長の役と「耳塚」-(前田憲二 監督作品)』を観た。
映画は豊臣秀吉の朝鮮出兵を、その傷跡を残す現地にカメラを向け、史実に基き丹念に画いている。
この記録映画は明治維新後、時の日本政府によって美化され、今日もなお続いている秀吉像に鉄槌を下すものとして、また秀吉の推し進めた朝鮮侵略が1910年の「韓国併合」への道を開いたものとして観ることができる。
映画は7章からなり、各々の内容は以下の通りである。(作品パンフレットより)
第一章
秀吉は何処で生まれ、育ち、どのような性格の人物であったか、謎の多い部分にまで光を当てた。行商の少年時代。信長に仕えた時代。大陸征服への野望をもった時代を描き、明謀略への道筋を引く。そのため、1590年代の明という巨大国家はどんな国であったのか?それを把握するため中国・紫禁城を中心にロケ、明朝の権力や、その奥深さなどを記録した。
第二章
朝鮮侵略前期を中心に「仮途入明」を求め釜山上陸から倭城築城、東莱城乱入、等々をつぶさに描いた。なかでも「東莱府殉節図」を微細に撮影。東莱府使宋象賢軍と一般人の城を守り、それを攻撃する倭軍、逃げ惑う人々、などの様子が手にとるようにわかる。そして、ソウルを目指す倭軍。ソウル南大門の雄美な威厳と風格。衛兵たちの儀式。東大門、景福宮、昌慶宮、昌徳宮を描き、歴史学者に「壬辰丁酉倭乱」(文禄・慶長の役)とは、何だったのかを証言いただき、往時の朝鮮の舞を再現し、王と奴婢の立場の違いと、内乱の勃発。寺党と呼ばれた放浪芸人集団の生活の実態についてを取材。
そして両班による義兵隊の組織。その先頭に立った慶尚道、大邱の郭再祐と、そ御後子孫、義兵たちの慰霊墓と壬辰倭乱館。その上で全羅道の光州鴨川村へ入り、6千人の義兵を率いた高敬命宅を訪ね、17代目の高元熙氏にインタビュー。霊廟、位牌、高敬命褒忠祠、七百義塚等々を検証。また李舜臣将軍の足跡を玉浦海戦場に訪ね、海戦のあり方を通して、朝鮮水軍の勝利への道筋を考察ー。
第三章
平壌の烈しい攻防を中心に描く。大同江での和解会談。妓生・桂月香と大同門。朝鮮国王の平壌脱出。そして平壌の街と農村での農作業。大同門の前では歴史学者にインタビューし、朝鮮共和国の立場から秀吉軍について語っていただく。
また平安南道妙香山普賢寺を訪ね、その寺の御住職慧定スニムから、西山大師と、松雲大師(四溟堂)の関係。修行した普賢寺での四溟堂の遺品、壬辰倭乱における四溟堂の活躍について等々をインタビュー。
また、平壌の攻防の地となったモランボン山激戦場要塞を緻密にロケ。また、秀吉がおね(北政所・高台院)に送った手紙を撮ることで、秀吉が病にかかっていたことや倭城を朝鮮半島南部に構築している現状を知り、朝鮮倭城を確認すべく加藤清正が築城した西生浦倭城を記録。倭城築城の意味について迫った。
第四章
女たちの戦い、そして降倭の現実を探る。ソウル漢江に沿う幸州山城を取材。その上で、二度にわたる激戦地、慶尚道の晋州城を現地学芸員の案内でロケ。義妓論介の存在。兵士と民間人七万人が殺戮された事実を巾広く取材。
また、世界遺産に登録されている仏国寺を訪ね、倭軍によって崩壊された木造建築物や国宝の 釈迦塔、多宝塔などを撮影した。
その一方で、倭軍兵士らは戦闘に疲れ果て降倭してゆくが、その核となる人物、沙也可を慶尚北道達城郡友鹿里に追った。
第五章
伏見城、聚楽第、どのような背景で造られたのか京を訪ねる。秀吉と淀、秀頼の誕生と、秀次の切腹。そして秀吉が逆上するプロセスを春爛漫のなかで撮影。
第六章
第二次朝鮮侵略の核となった全羅道南原城を中心に描く。-鼻切りの現実を戦国武将らの書状で紹介。そして従軍僧として現地での出来事をつぶさに記録し「朝鮮日々記」を遺した大分臼杵の僧・慶念を訪ね御子孫にインタビュ-。
また倭国へ拉致された儒学者・姜沆のふるさとを全羅南道靈光に訪ね、連行された愛媛県大洲では、姜沆の足跡を追う。
また、朝鮮半島最西南端に位置する珍島を訪ね、海戦で滅んだ倭人たちの墓を取材。珍島では、李舜臣将軍が島の女性たちに士気を鼓舞するようにカンガンスウォルヒという円舞を奨めたと伝えられるが、その芸能を取材。その上で、多島海では3万8千人余の鼻削ぎがあったと伝えられるが、その現場を記録。
蔚山倭城では、倭軍が全滅。その苛酷な現地報告と明、朝鮮、倭国の死者1万6千人をだした戦争の空しさを、忠義祠や深山の寺をとおして描く。
第七章
ここでは耳塚にスポットをあて、そして拉致された朝鮮人たちのその後を追う-。
京の耳塚では、歴史学者・上田正昭氏にインタビュー、氏は耳塚の内実、善隣友好を称える。
秀吉の墓と、その死についてを阿弥陀峰や、豊国神社、方広寺を追う。一方、露梁津で、流れ弾によって死に至った李舜臣将軍を悼み、忠清南道牙山市の忠武公顕忠祠を取材。
その上で、日本へと拉致された陶工、医師、若い男女の足跡を在日ライターと共に各地へ取材。 岡山では「千人鼻塚」と呼称される鼻塚を撮影。また、戦后処理のため朝廷の命を受け、渡日した松雲大師(四溟堂)の足跡を京や、韓国伽耶山海印寺に求めた。
作品の最終部では、明十三陵墓と京の耳塚、そして鴨川を捉えることで、文禄・慶長の役とは、なにを意味した戦争だったのかを考察した。
文禄・慶長の役略年表(PDF)(月下の侵略者パンフレットより抜粋)↓
投稿時刻 19時48分 事件簿 | 個別ページ
2010年3月 2日 (火)
堤岩里(チェアムリ)事件
3.1独立運動の最中、堤岩里(チェアムリ)教会を、憲兵(日本軍)が焼討ち、キリスト教徒を殺害した事件。その時、祖父は江原道(カンウォンド)通川(トンチョン)警察署長、通川は北朝鮮の東海岸の都市・元山(ウォンサン)に隣接し、金剛山に近い。クリスチャンの祖母の悲しみを推し量ることも今は叶わぬ。
「ソウルの西南、水原(スウオン)から西南へ22km、京畿道革城郡郷南面堤岩里(キョンギド ファソングン ヒャン ナムション)で日本人憲兵により村のキリスト教徒23人が殺された。
堤岩里教会設立は1905年、1919年の3.1独立運動の33人の宣言署名者のうち16人がキリスト教徒、キリスト教徒の安鐘厚(アンデョンフ)は抗日運動を計画、1919年4月5日発安(パラン)に市が立つ日デモを計画、大勢の朝鮮人が発安駐在所前で「万歳(マンセ)」と叫ぶ。水原駐在の第78連隊、有田俊夫中尉が憲兵1個連隊を率い、発安駐在所長らと堤岩里にやってきて「5日市場でひどい仕打ちをしたので謝りたい15歳以上の男子教徒は集まれ」、21人の信徒が集まり、「しばうらく待て」と言って外へ出る。憲兵たちは礼拝堂の戸に板を張って封鎖し、周りにガソリンをかけ外から一斉射撃、抜刀・・・23人、さらに500メートル離れた古州里(コジュリ)天道教6人を山中に連れ出し銃殺した。」( 観光コースでない 韓国 歩いて見る日韓・歴史の現場 1994年第一刷発行 小林慶二・福井理文 )
投稿時刻 17時22分 事件簿 | 個別ページ
2010年2月 5日 (金)
韓国併合に関する条約
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1910年8月、「韓国併合ニ関スル条約」に基づいて日本は、韓国統治の総仕上げを行った。日韓併合に関しての実態は種々論議の呼ぶところであるが、これによって韓国は日本の植民地的支配のくびきに繋がれる。
祖父の残した記録に「韓国併合記念之證」なるものがある。明治四十五年勅令五十六号に依り韓国併合記念章を授与せらり、とし「韓国併合記念章制定ノ件(明治45年勅令第56号)の第3条に以下の文言がある。
第三条、記念章ハ左ニ掲クル者ニ之ヲ授与ス
一 韓国併合ノ事業ニ直接関与シタル者及韓国併合ノ事業ニ伴フ要務ニ関与シタル者
二 韓国併合ノ際朝鮮ニ在勤シタル官吏及官吏待遇者並韓国併合ノ際ニ於ケル韓国政府ノ官吏及官吏待遇者
三 従前日韓関係ニ於テ成績アリタル者
とあり、祖父の授与は第3条2項によるものであろう。
「併合」当時の朝鮮の人口は1313万人(朝鮮総督府調査)、警察関係者は7,712名。その内、朝鮮人は4,440名であった。
韓国併合ニ関スル条約(明治四十三年条約第四号)
日本国皇帝陛下及韓国皇帝陛下ハ両国間ノ特殊ニシテ親密ナル関係ヲ願ヒ相互ノ幸福ヲ増進シ東洋ノ平和ヲ永久ニ確保セムコトヲ欲シ此ノ目的ヲセムカ為ニハ韓国ヲ日本帝国ニ併合スルニ如カサルコトヲ確信シ茲ニ両国間ニ併合条約ヲ締結スルコトニ決シ之カ為日本国皇帝陛下ハ統監子爵寺内正毅ヲ韓国皇帝陛下ハ内閣総理大臣李完用ヲ各其ノ全権委員ニ任命セリ因テ右全権委員ハ会同協議ノ上左ノ諸条ヲ協定セリ
第一条 韓国皇帝陛下ハ韓国全部ニ関スル一切ノ統治権ヲ完全且永久ニ日本国皇帝陛ニ譲与ス
第二条 日本国皇帝陛下ハ前条ニ掲ケタル譲与ヲ受諾シ且全然韓国ヲ日本帝国ニ併合スルコトヲ承諾ス
第三条 日本国皇帝陛下ハ韓国皇帝陛下太皇帝陛下皇太子殿下並其ノ后妃及後裔ヲシテ各其ノ地位ニ応シ相当ナル尊称威厳及名誉ヲ享有セシメ且之ヲ保持スルニ十分ナル歳費ヲ供給スヘキコトヲ約ス
第四条 日本国皇帝陛下ハ前条以外ノ韓国皇族及其ノ後裔ニ対シ各相当ノ名誉及待遇ヲ享有セシメ且之ヲ維持スルニ必要ナル資金ヲ供与スルコトヲ約ス
第五条 日本国皇帝陛下ハ勲功アル漢人ニシテ特ニ表彰ヲ為スヲ適当ナリト認メタル者ニ対シ栄爵ヲ授ケ且恩金ヲ与フヘシ
第六条 日本国政府ハ前記併合ノ結果トシテ全然韓国ノ施政ヲ担任シ同地ニ施行スル法規ヲ遵守スル韓人ノ身体及財産ニ対シ十分ナル保護ヲ与へ且其ノ福利ノ増進ヲ図ルヘシ
第七条 日本国政府ハ誠意忠実ニ新制度ヲ尊重スル韓人ニシテ相当ノ資格アル者ヲ事情ノ許ス限リ韓国ニ於ケル帝国官吏ニ登用スヘシ
第八条 本条約ハ日本国皇帝陛下及韓国皇帝陛下ノ裁可ヲ経タルモノニシテ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス
右証拠トシテ両全権委員ハ本条約ニ記名調印スルモノナリ
明治四十三年八月二十二日
統監 子爵寺内正毅
隆熙四年八月二十二日
内閣総理大臣 李完用
………………………
条約を読み易くすると;
日本国皇帝陛下及韓国皇帝陛下は両国間の特殊にして親密なる関係を顧ひ、相互の幸福を増進し東洋の平和を永久に確保せむことを欲し、此の目的を達せむが為には韓国を日本帝国に併合するに如(し)かざることを確信し、茲(ここ)に両国間に併合条約を締結することに決し、之が為日本国皇帝陛下は統監子爵寺内正毅を、韓国皇帝陛下は内閣総理大臣李完用を各其の全権委員に任命せり。因(より)て右全権委員は会同協議の上左の諸条を協定せり。
第一条 韓国皇帝陛下は韓国全部に関する一切の統治権を完全且永久に日本国皇帝陛下に譲与す。
第二条 日本国皇帝陛下は前条に掲げたる譲与を受諾し且全然韓国を日本帝国に併合することを承諾す。
第三条 日本国皇帝陛下は韓国皇帝陛下、太皇帝陛下、皇太子殿下並其の后妃(こうひ)及後裔(こうえい)をして各其の地位に応じ相当なる尊称、威厳及名誉を享有せしめ且之を保持するに十分なる歳費を供給すべきことを約す。
第四条 日本国皇帝陛下は前条以外の韓国皇族及其の後裔に対し、各相当の名誉及待遇を享有せしめ且之を維持するに必要なる資金を供与することを約す。
第五条 日本国皇帝陛下は勲功ある韓人にして特に表彰を為すを適当なりと認めたる者に対し栄爵を授け且恩金を与ふべし。
第六条 日本国政府は前記併合の結果として全然韓国の施政を担任し、同地に施行する法規を遵守する韓人の身体及財産に対し十分なる保護を与へ且其の福利の増進を図るべし。
第七条 日本国政府は誠意忠実に新制度を尊重する韓人にして相当の資格ある者を事情の許す限り韓国に於ける帝国官吏に登用すべし。
第八条 本条約は日本国皇帝陛下及韓国皇帝陛下の裁可を経たるものにして、公布の日より之を施行す。右証拠として両全権委員は本条約に記名調印するものなり。
投稿時刻 13時27分 事件簿 | 個別ページ