義貞・その周辺1

義貞・その周

2016年8月15日 (月)
深山重砲連隊弾薬庫跡

 過日、ワイフの親たちが眠る和歌山城下の寺(西要寺:右画像)に墓参を兼ねて小旅行をした。
 その折投宿した「休暇村紀州加太」の敷地内に第二次世界大戦中に使用していた弾薬庫跡が残っていた。

 弾薬庫跡が残っている深山(みやま)砲台は大阪湾防衛の目的で紀伊半島と淡路島の間の紀淡海峡周辺に設けられた由良要塞のひとつである。

 由良要塞は大きく分けて四つあり、そのひとつが加太・深山の要塞である。



 陸軍要塞砲兵射撃学校を卒業した義貞は由良要塞砲兵聯隊に編入され、そこで現役満期となり、1901年(明治34年)11月30日予備役に編入された。

加太・深山地区要塞

紀伊半島の加太町(現和歌山加太)を中心に北部の深山第一、第二砲台、男良谷(深山第三)砲台、城ヶ崎探照灯台、大川山堡塁、高森山保塁、南部の鉢巻山に配置された加太砲台、田倉崎砲台、東部の佐瀬川保塁、西ノ庄保塁からなる。
由良地区を運用する由良要塞重砲兵連隊とは別に、深山村(現和歌山市深山)に第4師団隷下の深山重砲兵連隊(後、重砲兵第5連隊『2代目』に改称、重砲兵第5連隊『初代』は野戦重砲兵第5連隊に改称)が置かれ、和歌山側の各砲台を運用。
同連隊は第4師団が出征後は中央直轄とされ、終戦時には大本営中部軍管区(中部軍管区司令部は第15方面軍司令部と兼務)直轄部隊であった。
この地区の保塁は、沿岸砲台群を内陸側からの陸上攻撃から防護する目的で設置された。
また、直接の要塞設備ではないが、この地区への補給は加太軽便鉄道(現南海加太線)が担っていた。( Wikipedia 最終更新日 2016.03.10))

深山重砲兵連隊
•深山砲台群:第二砲台跡は休暇村紀州加太となっており、煉瓦造りの棲息掩蔽部が1箇所残されている。第一、第三(男良谷)砲台は休暇村周辺の散策道(旧要塞内交通路)沿いに比較的良好な状態で保たれている。
•深山重砲兵連隊跡:休暇村加太遊園地となっている。将校集会所基礎、等が残されている。
◦加太砲台 :和歌山市立少年自然の家となっている。第一砲座、右翼観測所跡が現存、第四砲座は半分埋められ構内道路が設置されているが檣壁上部が一部露出している。半地下式の掩蔽棲息部は第一~二砲座間、第三~四砲座間のものが現存、施設の倉庫として使用されている。兵舎や倉庫群は現在も民家として使用されている。加太・田倉崎砲台は「少年自然の家」事務所へ当日簡単な申請をすれば見学可能。
◦田倉崎砲台:少年自然の家・家族の広場(アスレチック公園)となっている。一部公園遊具が設置され、砲床も植込みや池にされ、棲息掩蔽部の入り口は塞がれているが、檣壁など砲座の全体感は比較的残されている。右翼観測所は公園付属の展望台「見晴らしの丘」、左翼観測所は「小鳥の森」内に遺構が残る。
( Wikipedia 最終更新日 2016.03.10)

投稿時刻 08時43分 義貞・その周辺 | 個別ページ


2014年7月16日 (水)
義貞・ツヤ外伝

 先日、いとこの一人から父方の過去帖の一部を「何かの参考」にと送って来たので、系譜をまとめてみた。

 私が三才のとき、父は「胃潰瘍」でなくなった。いまでこそ、不治の病ではなくなったが、当時胃潰瘍は怖い病気だった。

 母・道子は男運に恵まれなかった。父とは二度目の結婚で、その前に結婚した相手を結核で亡くしている。
 前夫は結婚してから結核に罹り、祖父・義貞は離縁を主張したが、祖母・ツヤはキリスト教の人道的立場からそれを拒み、最後まで面倒を看た。

 母の二度目の夫・晴一が私の父である。
 晴一の父・鉄吉は住友の社員相手に洋服の仕立てを営み、新居浜の繁華街・「昭和通」にこの町で最初の洋服店を開業した。
 晴一は鉄吉のあとを継いで洋服の仕立て職人になった。

 父・晴一に連なる系譜を纏めた。(下記PDF)

  母・道子は1931年(昭和6年)3月23日、新居濱高等女学校(現在の新居浜西高等学校)を卒業し、一ヶ月後の4月、縁あって当時銀行に勤めていた横山末一と結婚する(新居郡金子村大字弐百参番戸主横山勘蔵四男昭和六年四月弐拾八日松澤義貞長女道子ト婿養子縁組婚姻届出仝月参拾日入籍  戸籍謄本より)。18歳の春であった。

 その後、末一は肺結核を患い、1936年(昭和11年)の12月25日に亡くなった。くしくも、その日はキリストの生誕日にあたる(昭和拾壱年拾弐月弐拾五日午前八時参拾分 戸籍謄本より)。
 寡婦となった道子にツヤは女の自立を説いた。ツヤの教えに従って道子は、松山及び鎌倉で看護婦・助産婦・保母の資格取得修行に励んだ。
 1943年(昭和18年)1月ツヤ召天と前後して道子は、私の父・晴一と再婚・入籍する(新居濱市乙百二十七番地戸主岡田敏夫弟昭和拾八年参月拾六日松澤義貞長女道子ト婿養子縁組婚姻届出同月入籍 戸籍謄本より)。(祖父母たちの子ら、より)

追補)
 送られてきた資料の中に、明治維新後成立した戸籍制度の最初の「戸籍表」があった。

「「戸籍法」明治4年4月4日大政官布告第170号・明治5年2月1日施行前年制定の戸籍法に基づいて、日本で初めての、本格的な戸籍制度が開始された。この年の干支が壬申(みずのえさる)であることから、この制度によってできた戸籍を、壬申戸籍(じんしんこせき)と呼ぶ。戸籍の編成単位は「戸」、本籍は住所地であり、身分とともに住所の登録を行ったことから、現在の住民票の役割も担っていた。なおこの戸籍は、「新平民」や「元えた」などの同和関係の旧身分(エタ穢多、非人)や、病歴、犯罪歴などの記載があることから、現在は各地方法務局の倉庫で一般の目に触れないように厳重に保管されている。ただし、法務省の公式発表では壬申戸籍は行政文書非該当とし一切開示しておらず、廃棄したことになっている。( Wikipedia 最終更新日 2014.05.30)

投稿時刻 07時41分 義貞・その周辺 | 個別ページ

2013年5月28日 (火)
半島を転々と・母たちの出生地

 朝鮮に渡った義貞は15年間をそこで過ごした。単身半島に足を踏み入れて15年、半島最後の地、春川(チュンチョン)を発つとき、ツヤと4人の娘を伴っての帰国だった。その間、義貞の母・クマ(天保14年7月生)を朝鮮へ呼び寄せている。クマは「北」の地、城津(ソンジン)で果てた。
 また、清州(チョンジュ)で生まれた長男・義敏を幼くして亡くし、私の母・道子(長女)と共に、この世に生を受けた次男・貞夫は二十日ほど生き、短い生を絶った。
 道子、それに続いて生まれた娘たち四人は幸いに、生きて日本の土を踏むことができた。

 半島を転々とした祖父母の子らはそれぞれ出生地が異なる。掲載の地図は祖父母が辿った道のりである。義貞は独り、ソウルを皮切りに水原(スウォン・京畿道<キョンギド>)から清洲(チョンジュ・忠清北道<チュンチョンプクト>)へ、そこでツヤとの生活を始める。
 そこから鎮南浦(チンナムポ・現 南浦)へ、鎮南浦は半島の西部に位置し、北側に平壌(ピョンヤン)を控える港町で、日清戦争後日本軍の拠点の一つとなった。

 鎮南浦で私の母・道子が生まれた。(北朝鮮・平安道鎮南浦府元塘面瀧井洞)

 鎮南浦から長連(チャンヨン)へ、長連は大同江(テドンガン)の南に位置し、大同江を挟んだ向こう側が鎮南浦である。

 次女・幸子生まれる。(北朝鮮・黄海南道<ファンヘナムド>殷栗<ウンニュル>群長連面東里)

 義貞は長連から城津へと異動する。
 城津(ソンジン)は北朝鮮の咸鏡北道(ハムギョンプクド)南端に位置し、朝鮮戦争後、人民軍司令官金策の名をとって金策(キムチェク)市に改称された。1899年(明治32年)に港を開き、穀物・魚類の輸出港として発展した。

 城津で三女・愛子生まれる。(北朝鮮・咸鏡北道<ハムギョンプクド>旧・城津群城津面本町51番地)

 城津を南下し通川(北朝鮮・江原道<カンウォンド>トンチョン)にやって来たのは1918年(大正7年)12月、通川は名峰・金剛(クムガン)山を抱く太白(テベク)山脈の東側、東海(トンヘ・日本海)沿岸に位置する。
 まだ「北」の地である。
 通川滞在時に半島を揺るがす3.1独立運動が起こった。

 独立運動の一年後、義貞は高城(韓国・江原道<カンウォンド>コソン)へ異動となる。
 現在、高城(コソン)は韓国内にある「統一展望台」の中で最も北に位置している。展望台からは金剛山が望まれる。

 そして、義貞最後の任務地となった春川(韓国・江原道<カンウォンド>チュンチョン)へやって来たのは1920年(大正9年)の厳しい冬へ向かう12月16日のことである。私の母・道子は当時、春川公立尋常高等小学校の一学年だった。
 今、春川は「冬のソナタ」のロケ地として知られている。

 四女・博子生まれる。(韓国・江原道<カンウォンド>春川郡春川面衛洞里148番地)

 博子が生まれた一ヶ月後の1921年(大正10年)7月末、一家は帰国の途についた。

 帰国直後の11月、時の首相・原敬が東京駅頭で大塚駅の駅員の凶刃に倒れた。大正の「閉塞の時代」にまた一つ暗い影を落とた。

投稿時刻 16時13分 義貞・その周辺 | 個別ページ


2013年3月13日 (水)
義貞渡朝の朝鮮事情・高宗の時代

 1907年(明治40年)に義貞は朝鮮へ赴任した。
 義貞が赴いた朝鮮は、当時どのような状況にあったのか、その辺の朝鮮事情を少し探ってみよう。

 1905年(明治38年)11月5日、韓国の高宗皇帝を慰問するためと称して、天皇は伊藤博文を京城(※1)(現ソウル)につかわした。
 そのとき、伊藤博文は第二次日韓条約《乙巳(いっし)保護条約》の調印に成功した。ここに韓国の外交権は完全に日本に握られた。
 外交権を奪われた韓国は国の主権を日本に奪われたに等しくなった。
 この「売国条約」に韓国の官僚、軍人、商人や一般の人々は条約の破棄を叫び、京城は騒然とした雰囲気に包まれた。
 京城市民の叫びに、一顧だにしなかった日本は韓国を統治するため、1905年(明治38年)12月21日、京城の南山(ナムサン)に統監府を設け、初代統監に伊藤博文を任命した。
 統監府は総務部、農商工部そして警務部から成り、伊藤博文統監は文官でありながら韓国に駐在する日本軍の統帥権をも得た。
 ここに韓国は実質的に日本の支配下に置かれた。
 警務部には警務課、保安課、衛生課をおいた。

 1907年(明治40年)6月、オランダのデン・ハーグで第二回万国平和会議が開催された。この会議に韓国皇帝高宗は密使を派遣し、自国の危機を訴えようとして、事前工作を行ったが、日本の全権大使・加藤高明に阻止され、会議での発言は実現しなかった(ハーグ密使事件)。
 高宗の行動に激怒した伊藤博文は皇帝に退位を迫った。
 あとを継いだ純宗(スンジョン)は韓国軍を解散するはめに追いやられ、その年の8月、韓国の軍隊は武装解除を余儀なくされた。

 韓国の植民地化を急速かつ性急に進めていった当時の日本の事情は、食料不足に陥りがちだった日本の現状を打破するため、穀物類等を韓国に頼る度合いを強め、そのため、食糧供給基地の確保が必要であったのと、「富国強兵」、「殖産興業」政策を推し進めてきた明治政府にとって、朝鮮半島に眠る豊富な鉱物資源は喉から手が出るほど欲しかったのであろう。

 日本帝国は上記の政策を遂行するに当り、司法権の確立が急務となり、法整備に必要な人材を日本から召集した。義貞もその一人として京城に呼び寄せられた。

 1907年(明治40年)9月30日、釜山から汽車で京城に降り立った義貞はその足で、韓国統監府内部部局警務部警務課のドアを開けた。
 韓国併合(1910年8月22日)の3年前のことである。

(※1)京城
「京城」(日本語読みで「けいじょう」朝鮮語読みで「キョンソン」)は韓国併合前から使われたソウルを指す名称の一つ、併合後に「京城」が公布・施行された。

・参考文献;「朝鮮総督府の歴史」(藪 景三 著、発行:明石書店 1996年9月20日第2刷)

投稿時刻 19時50分 義貞・その周辺 | 個別ページ


2013年1月22日 (火)
陸軍要塞砲兵射撃学校卒業生名簿

 陸軍要塞砲兵射撃学校は日本陸軍の軍学校(実施学校)のひとつである。
 陸軍士官学校のように陸軍の幹部を養成する学校ではなく、実戦部隊を育成する学校である。

 義貞は1897年(明治30年)の11月24日に射撃学校を卒業し、同26日に由良要塞砲兵連隊に赴任した。(官報4327号 明治30年12月02日、右及び下記)

官報4327号・明治30年・陸軍要塞砲兵射撃学校卒業生:sotugyohsei.pdfをダウンロード Pdf


陸軍要塞砲兵射撃学校:
 1889年(明治22年)3月27日、要塞砲兵幹部練習所が現在の千葉県市川市国府台に創設された。1896年(明治29)年5月15日、陸軍要塞砲兵射撃学校と改称し、翌年、神奈川県浦賀町馬堀の新校舎に移転した。1908年1月15日、陸軍重砲兵射撃学校と改称し、さらに1922年8月10日、陸軍重砲兵学校と改称した。

 対象は砲兵大尉から砲兵科下士官までで教育分野は、階級ごとに甲種、乙種、丙種、丁種と分かれ、射撃戦術、射撃術、砲塔術、観測術、通信術、要塞電灯術などが教えられた。(Wikipedia 更新日 2012年1月05日)

投稿時刻 21時31分 義貞・その周辺 | 個別ページ


2012年10月14日 (日)
墓標・秋山好古

 過日、松山へ帰った折、旧友に誘われて宿の近くに在る秋山好古の墓を訪ねた。
 好古の墓は道後温泉街の鶯谷町にある。友人の話によると好古の墓は東京の青山らしく、当地には分骨を納めているとのこと。

 好古を描いた司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」は日露戦争を巡る作者の歴史観を巡って、今も論議をよんでいるが、松山の風土と文化が好古を育んだことに間違いない。

 小説の主人公たち、秋山好古・真之そして正岡子規を祖父・義貞とくらぶべくもないが、同じ伊予松山藩の下級藩士の子として、彼らを「見上げる大兄」として祖父・義貞は幼年時代を過ごしたであろう。
 義貞は1875年(明治8年)4月8日、松山市豊坂町(現・柳井町)にて生を受ける。母の実家は愛媛県温泉郡一万町(現松山市)である。

 義貞が生まれた年の秋、秋山好古は大阪に出ている。1868年(慶応4年3月)生まれの好古の弟・真之は1886年(明治19年)10月海軍兵学校へ入学するため松山を離れた。
 正岡子規は1867年(慶応3年9月)に今の松山市花園町に生まれ、1883年(明治16年)に上京するまで松山で過ごした。

 子規の生まれ育った花園町と義貞の実家・柳井町は松山市駅を挟んで目と鼻の先にある。義貞の母の実家一万町と秋山兄弟の実家・歩行町もそう距離はない。
 義貞は松山の城下で秋山兄弟らを仰ぎ見ながら育ち、1896年(明治29年)9月に松山を離れた。

秋山好古
 安政6年(1859年)1月7日(1859年2月9日):伊予松山城下(現・愛媛県松山市歩行町)に松山藩士・秋山久敬、貞の三男として生まれる。名前の由来は論語の一節「信而好古」より。秋山家は足軽よりも一階級上の位で家禄10石程の下級武士(徒士身分)だった。藩校・明教館へ入学し、家計を支えつつ学ぶ。このころ、天保銭一枚(100文に相当)にて、銭湯の水汲み、釜焚き、番台の管理をやっていた。((Wikipedia 更新日 2012年08月09日)

投稿時刻 08時08分 義貞・その周辺 | 個別ページ

 



2012年6月14日 (木)
由良要塞砲兵連隊兵卒教科書

  義貞が由良の要塞砲兵連隊で陸軍砲兵二等軍曹(途中で一等軍曹へ)として兵役に就いた期間は1897年(明治30年)11月24日~1901年(明治34年)11月30日の4年間だった(22歳~26歳)。
 当時の徴兵制度は、中学校を卒業して志願すれば兵役期間が短縮された(最短で1年間)。義貞は由良で4年間兵役を努め満期除隊、のち予備役に編入されている。義貞が松山でどのような少年期を送ったのか?今のところ分っていないが、中学校等の高等教育を受けることなく、21歳のとき陸軍に志願したであろうと思われる。

 義貞が由良(現洲本市由良町)に赴任してきた時は、二等軍曹であった。
 軍曹(記1)は士官(将校)のもと、兵(兵卒)を統率する役割を担っていた。
 当時、由良要塞で兵卒用に使用していた教科書・「由良要塞砲兵連隊兵卒教科書」(上野 虎次郎〔著〕)を洲本の図書館でを見つけた。
 和紙に墨で書かれた42枚の教科書である。貸出し禁止の書物なので、少しだけコピーして持ち帰った。
 また図書館に出かけ、読んでみたいと思っている。

「由良要塞砲兵連隊兵卒教科書」の一部;↓


(記1);
 明治32年12月1日以降の軍曹の地位は:

 「下士官の階級の一つ。曹長の下位、伍長の上。判任官。初叙は正八位勲八等功七級。海軍においては二等兵曹(1942年以降は一等兵曹に改称)に相当する。階級呼称は王朝時代の蝦夷征伐に派遣された軍団において設けられた征夷軍曹に由来する。
 ちなみに伍長以上は職業軍人たる官吏(武官)として扱われ、国民の義務として兵役に服する兵とは区別された。士官(尉・佐・将官)と一般兵士(卒・伍)の中間階級に位置する。
 軍曹の位置づけはほぼ各国共通だが階級の並列には若干の差異もあり日本では曹長の下、伍長の上にあたる。功労ある軍曹は勤続20数年を経て、正八位勲七等に叙せられた。また、武功顕著な軍曹は軍人特有の栄典である功級では功七級以上功五級以下の級に叙せられた。任官区分では判任官 (官等は三等)。軍職は中隊長付分隊長(平時は内務班長)に相当した。
 平時の軍隊(特に昭和初期の支那事変勃発前まで)で上等兵以上になると帰郷の際には村長や顔役から一席設けられるといい、下士官への進級はよほどの優秀な人物でなければならなかったという。戦前当時の俸給は23円であった。またこの俸給は決して高禄とは言えないものであったが、営内居住で被服糧食とも現物支給かつ職業軍人には12年間勤続すれば支給される恩給制度があったため、それらを考慮すると現代の価値観でいう「中の上」に値する収入を得ていた。憲兵や軍楽部などの軍曹ないし軍曹相当者は営外居住であったが、営外居住者用の加俸があった。」((Wikipedia  最終更新 2012年5月4日)

投稿時刻 15時17分 義貞・その周辺 | 個別ページ


2012年1月21日 (土)
俘虜収容所

 1904年(明治37年)2月8日、日本はロシアに宣戦布告、開戦間もない3月18日、日本初のロシア兵俘虜収容所が松山に設立された。
 日露戦争のさなか、大阪の難波警察署にいた義貞は9月19日休職を命じられ、9月25日、戦時充員として臨時召集され、善通寺野戦砲兵第十一連隊補充大隊へ編入(第十一師団)された。
 その日より内地戦役に就き、9月30日、松山俘虜収容所にて日露戦争を戦う。翌年の1905年(明治38年)07月12日、丸亀俘虜収容所へ異動。09月05日アメリカの仲介により日露講和条約(ポーツマス条約)を結び10月14日同批准により戦争終結、義貞の書面によれば、10月16日「平和克復」とある。
 平和克復後も俘虜収容所に留め置かれ、1906年(明治39年)2月17日、収容所閉鎖とともに召集解除となり2月27日、復職を命じられ大阪東警察署勤務となる。

 松山のロシア兵俘虜収容所時代の義貞に関しては、「マツヤマの記憶ー日露戦争100年とロシア兵俘虜」(単行本、松山大学 編)、「松山捕虜収容所日記ーロシア将校の見た明治」(単行本、F.クプチンスキー 著、小田川研二 翻訳)、「ロシア兵捕虜が歩いたマツヤマー日露戦争下の国際交流」(単行本、宮脇昇 著)等があり、それらを読めば祖父のよすがをしのぶことも可能であろう。

 俘虜収容所が設置された場所は「俘虜収容所を設置する(大林寺・勧善社・公会堂・城北練兵場・御幸村、山越の寺院などが収容地に指定される。閉鎖まで収容俘虜約6000人。39年2月16日俘虜送還)」(松山市ホームページより)
 とある。

 俘虜の扱いについてはヨーロッパ列強と肩を並べるべく「ハーグ条約」を極力遵守し、日露戦争が始まるとすぐ陸軍は「陸軍俘虜取扱規則」を制定した。

 義貞の日露戦争はその多くを故郷松山での兵役にあたった。21才で松山を出奔し、29才の夏の終わり、松山に舞い戻り、翌年の夏までの一年間を俘虜収容所勤務に明け暮れた。その後再び松山に腰を落ちつける日は来なかった。

投稿時刻 17時48分 義貞・その周辺 | 個別ページ

2011年11月29日 (火)
韓国統監府へ出向

 朝鮮勤務を命じられた義貞は大阪から下関を経て釜山に渡り、そこから汽車で京城(現ソウル)に入り、1907年(明治40年)9月30日、韓国統監府内部部局警務顧問補助員を命じられ、その日のうちに水原(スウォン)の警務顧問支部に赴いた。

 その3ヶ月前、仙台地方裁判所の書記への道を目指した義貞であったが、その1ヶ月後日韓の間で結ばれた「第三次日韓協約」が、義貞をして朝鮮へ向かわせた。

 「第二次日韓協約」で大韓帝国の外交権を奪った日本は「第三次日韓協約」によって内政も掌握し、名実共に朝鮮は日本の支配下に入った。

 「第三次日韓協約」で朝鮮に於ける司法権を得た日本は、日本帝国の法律に明るい人員の配置を要した。義貞は朝鮮・水原(スウォン)で2年間、朝鮮の司法制度整備のため、司法権力の末端を汚した。
 水原在任中の1909年(明治42年)10月26日、中国のハルピン駅にて、初代韓国統監・伊藤博文(6月に辞任)が朝鮮人・安重根(アン・ジュングン)の銃弾を受け死亡した。それを契機に日本は官憲の拡充を急いだ。伊藤博文が暗殺された一ヵ月後の12月1日、義貞は机上を離れ、現場の実務に駆り出された。以後、義貞は半島を転々とする。

 「第三次日韓協約」で覚書が交わされた。「協約調印と同時に、非公表の覚書が伊藤統監と李完用首相との間で調印された。覚書は協約にもとづきつぎの事項を漸次実施するとした。(1)大審院・控訴院・地方裁判所を新設し、その主要ポストに日本人を任用する。(2)監獄を地方裁判所所在地などに新設し、典獄(刑務所長)に日本人を任用する。(3)韓国軍隊を整理する。(4)韓国政府傭聘(ようへい)の顧問、参与官を解雇する。(5)韓国各部次官、内部警務局長を日本人とするほか、地方庁官吏に日本人を任命する、などの詳細な規定である。
 協約第二条は、立法・行政権の根幹を統監が直接把握することを規定したが、覚書では、司法・行政権の行使をつかさどる高等官の部署を日本人が独占することを記し、軍隊解散を約させた。」(韓国併合 <保護国化をめぐる葛藤> 海野福寿著 岩波新書)

第三次日韓条約(『官報』明治四十年七月二十五日号外)

第一條 韓國政府ハ施政改善ニ關シ統監ノ指導ヲ受クルコト
第二條 韓國政府ノ法令ノ制定及重要ナル行政上ノ處分ハ豫メ統監ノ承認ヲ經ルコト
第三條 韓國ノ司法事務ハ普通行政事務ト之ヲ區別スルコト
第四條 韓國高等官吏ノ任免ハ統監ノ同意ヲ以テ之ヲ行フコト
第五條 韓國政府ハ統監ノ推薦スル日本人ヲ韓國官吏ニ任命スルコト
第六條 韓國政府ハ統監ノ同意ナクシテ外國人ヲ傭聘セサルコト
第七條 明治三十七年八月二十二日調印日韓協約第一項ハ之ヲ廢止スルコト
明治四十年七月二十四日 統監 侯爵 伊藤博文 (印)
光武十一年七月二十四日 内閣總理大臣勲二等 李完用 (印)

覚書(非公表)
明治四十年七月二十四日調印日韓協約ノ趣旨ニ基キ漸次左ノ各項ヲ實施スルコト
第一 日韓兩國人ヲ以テ組織スル左記ノ裁判所ヲ新設ス
一 大審院 一箇所 位置ハ京城又ハ水原トス 院長及檢事總長ハ日本人トス 判事ノ内二名
  書記ノ内五名ヲ日本人トス
二 控訴院 三箇所
・位置ハ中央部ニ一箇所南北部ニ各々一箇所トス
・判事ノ内二名檢事ノ内一名書記ノ内五名ヲ日本人トス
三 地方裁判所 八箇所
・位置ハ舊八道觀察府所在地トス 所長及檢事正ハ日本人トス 全體ヲ通シテ判事ノ内三十二名書記ノ内八十名ヲ日本人トシ事務ノ繁閑ニ應シテ分配ス 檢事ノ内一名ヲ日本人トス
四 區裁判所 百十三箇所
・位置ハ重要ナル郡衙ノ所在地トス 判事ノ内一名書記ノ内一名ヲ日本人トス

第二 左記ノ監獄ヲ新設ス
・一監獄 九箇所
・位置ハ各地方裁判所所在地ニ一箇所及島嶼ノ内一箇所典獄ハ日本人トス 看守長以下吏員ノ半數ヲ日本人トス

第三 左記ノ方法ニ依リテ軍備ヲ整理ス
・一陸軍一大隊ヲ存シテ皇宮守衛ノ任ニ當ラシメ其ノ他ハ之ヲ解隊スルコト
・一教育アル士官ハ韓國軍隊ニ留マルノ必要アルモノヲ除キ他ハ日本軍隊ニ附屬セシメテ實地練習ヲ爲サシムルコト
・一日本ニ於テ韓國士官養成ノ爲相當ノ設備ヲ爲スコト

第四 顧問又ハ參與官ノ名義ヲ以テ現ニ韓國ニ傭聘セラルル者ハ總テ之ヲ解傭ス

第五 中央政府及地方廳ニ左記ノ通日本人ヲ韓國官吏ニ任命ス
・一各部次官
・一内部警務局長
・一警務使又ハ副警務使
・一内閣書記官及書記郎ノ内若干名
・一各部書記官及書記郎ノ内若干名
・一各道事務官一名
・一各道警務官
・一各道主事ノ内若干名

右ノ外財務警務及技術ニ關スル官吏ニ日本人ヲ任用スル件ハ追テ別ニ之ヲ協定スヘシ

投稿時刻 20時43分 義貞・その周辺 | 個別ページ


2011年5月31日 (火)
建物疎開

 義貞が内地に帰り棲みついたのが新居浜市惣開(そうびらき)町、現・住友重機㈱の正門に通じる道路沿いにその家は建っていた。家は当時松山に住むツヤの兄・憲一が1919年(大正8年)に購入したもので、義貞たちが1921年(大正10年)に帰国してから、戦争の終わり近くまで住み、ツヤはこの家で生涯を閉じた。

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1945年(昭和20年)、春まだ遠き冬、B29による空爆が日に日に激しさを増し、ここ新居浜の惣開は住友の工場が建ち、いづれ大規模なB29の来襲が必至な情勢だった。

 折りしも国はこの地域の建物に疎開を命じた。強制疎開の日、壊される建物の前で義貞は、集まった近隣の人たちとしばしの別れを惜しんだ。その中でただ一人義貞の顔だけはゆるまなかった。

 かつて「帝国陸軍」に己が将来を託した義貞であったが崩壊する居宅の前で、一人メガネの底から「日本帝国」の終焉を看取った。

 建物疎開;「日本において当時の人の多くは家屋疎開とも呼んでいた。空襲により火災が発生した際に重要施設への延焼を防ぐ目的で、防火地帯(防空緑地・防空空地)を設ける為に、計画した防火帯にかかる建築物を撤去する事である。」(ウィキペゲィア<Wikipedia>)

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