淡路の木漏れ日 5
紀淡海峡を近くに
いつも遠くから見ている紀淡海峡を少し接近して見た。 紀淡海峡まで約16km離れた愉悠舎は標高145mの小高い山の上に建っている。 そこを少し南に移動して、紀淡海峡を目の前にした。目の前といっても海峡まで約7km、高さはホテルの7階で海から30mほどの高さ。地上部はそのまゝ海に続いている。
いつも見ている光景をズームアップした感じだが、いつもは見えないか、あるいは輪郭がハッキリしない建造物の正体が明確になる。例えば、友ヶ島諸島の海に落ちる岩肌は、この距離まで近づかないと見えない。海南市にある製鉄所の二本の煙突と傍の建物がくっきりと見える。紀淡海峡までの海岸線に続く由良の街並みが、小さく波打つ岸辺に佇んでいる。
大阪府の南端に近い岬町にある関電多奈川発電所の煙突の立姿は愉悠舎からのそれと変わらない。ここから煙突までの距離は20km近くあるということだろう。
煙突から南へ、和歌山県に入ったあたりの山の中腹に大きな建物が横たわっている。その建物の横を道路のような帯状のものが走っている、何かの施設であろうか。いつかあのあたりから淡路島を眺めてみたいものだ。
帰って、上の施設を調べた。「休暇村 紀州加太」のようだ。「紀淡海峡に沈む夕日・・・」を売り物にしている。
投稿者 愉悠舎 日時 2009年3月 5日 (木) 淡路の木漏れ日 | 個別ページ
和紙の紙漉きに風力発電・・・
AM10時、団地の入口に在るコミュニティセンターで近くに和紙漉きの工房を構える奥田氏が機材、材料を持ち込み、津名和紙の「体験会」を実施した。手漉きの和紙はもはや「絶滅危惧種」の領域に足を突っ込んでいる。奥田氏の話によると後継者もいないとのことで、淡路で和紙の手漉きが見られるのも奥田氏が最後かもしれない。
奥田氏が漉いている淡路津名紙とは「1000年以上の昔から淡路島でも紙漉が行われており戸籍用紙を提出しておりました。近年では、明治から昭和初期まで、半紙・塵紙が盛んに漉かれていましたが、やがて姿を消してしまいました。それから半世紀、昭和の終わり頃、手漉き和紙に取り組むようになりました。
現在、淡路島の紙漉きは1軒で、副業で行っています。原料の楮、ネリのトロアオイの栽培も行っています。
島の特産のタマネギやユーカリの木などを使って、変化のある染紙や塵入りの新しい和紙を漉いています。」(全国手すき和紙連合会)
奥田氏は現在、副業でなく是一本だそうな、貴重な体験をさせていただいて、ありがとうございました。
昼食後、北淡へ車を走らせる。北淡震災記念公園セミナーハウスで「風力発電の理想と現実」が開かれるとの情報を聞き、覗きに行く。この地に大規模な風車を計画しており、近年風車による被害が全国各地の地域住民を苦しめており、それでも実施しようとする業者・市側とそれに反対する住民との間で揉めている。建設に賛成するものの多くは地元住民で、反対する側は島外から別天地を求めてやってきた人たちが中心だ。今日参加したのは当然のことながら反対の立場の人たちだが、彼らの話を聞いて、地元住民と移住者の間の温度差の大きさ、埋め難き溝の深さを実感した。
風車による被害の中に人間の可聴範囲外の「低周波騒音」がある、この問題はやっかいだ。当面風力発電の建設はストップすべきである。
帰り、「かんぽの宿」で風呂に入り、その近くで「焼きアナゴ」を買った。長湯で私を一時間も待たせたワイフは「焼きアナゴ」を手にし、満足げであった。
投稿者 愉悠舎 日時 2011年2月13日 (日) 淡路の木漏れ日 | 個別ページ
行燈
十日前に団地内のコミュニティセンターで行われた「和紙漉き体験会」の成果を形あるものに変えた。ただし、私ではないワイフである。ゴソゴソ何をやっているのかと思っていたら、出来上がったものが行燈である。アートにほど遠いが、素朴な味わいがあって、これはこれで絵になる。
和紙に使った材質及び模様に使った草花はこの付近に生息する自然の恵みを摘み取って使用した天然素材(奥田氏が育てたものであるが)。ただし、和紙の製造時に使った水だけは水道の水を使用した。本来なら天然の水を使うべきだが、やむを得ず水道水にした、とは淡路津名和紙工房・奥田氏の弁である。 水道の水にはにカルキが入っているので、耐久性に問題があるのだろう。あるいは、色あせが早いのかも知れない。
ワイフが行燈造りに精を出したのは、「昼行燈」を決め込んでいる私に対する無言の圧力かもしれない、怖い。
投稿者 愉悠舎 日時 2011年2月24日 (木) 淡路の木漏れ日 | 個別ページ
菜の花の沖
昨日、午前中卓球をして午後からワイフのお供をした。淡路島の北部に「淡路花さじき」がある。菜の花を観に行ったが、一面菜の花のじゅうたんには、ほど遠かった。あと一ヶ月の時間が必要だ。十年ほど前、高田屋嘉兵衛を描いた司馬遼太郎の「菜の花の沖」がNHKで放映された。あのロケに使われた、花さじきの色鮮やかな黄色が忘れらない。一ヵ月後の楽しみが増えたと思い、退散。
ついでに「松帆の湯」に立ち寄る。湯船から明石海峡大橋、その向こうに神戸・明石の街並みが臨める。
「花さじき」、「松帆の湯」がある北淡の丘陵地帯からの展望は素晴らしい。神戸側から淡路を観れば、何の変哲も無い自然の風景だが、淡路側から臨む橋の向こうの景観は人間の叡智を結集した見事な芸術だ。
この辺りから夜景を観る機会も時々ある。もっと東に位置する「神戸の夜景」とは違う趣を私に呈してくれる。カラフルな「神戸の夜景」に比べ、ここは民家の白っぽい明かりが主役だ、その意味において函館の夜景に近いかもしれない。
帰路は淡路の西側の県道を走る。北淡に来ると必ず寄る店がある、「焼きアナゴ」を手に入れるためだが、まだ夕方にもなっていない、売り切れ、ちなみに火曜日が休みとか、残念・・・。
投稿者 愉悠舎 日時 2011年3月11日 (金) 淡路の木漏れ日 | 個別ページ
大阪湾に賑わいが
三、四日前のことである。台風6号が近畿地方を通り過ぎたあと、大阪湾内は行き交う大型船で溢れていた。
このような賑わいが昨今の大阪湾の海上から消えて久しい。小さな漁船が群れる光景はしょっちゅう目にするが、大型船の群れを目にするのは台風一過ぐらいだ。台風時、神戸港や大阪港に停泊している船は港外に避難し、湾外から港に入ろうとしていた船は湾内に留まる。波風がおさまると堰を切ったように大型船が接岸を競う。
25年ほど前までコンテナーの取扱量で世界最大を誇っていた神戸港、その地位を他の港に譲って久しいが、神戸港をめぐるハイクオリティーな環境は、世界でも5本の指に入ると私は思っている。
六甲の山なみを背後にひかえる神戸港、入港時に見せてくれるミナトの立ち姿は、横浜港よりも美しいと、私は思う。
投稿者 愉悠舎 日時 2011年7月24日 (日) 淡路の木漏れ日 | 個別ページ
郷の青竹で呑む宴会
昨日、わが郷で「竹酒宴会」が開かれた。
ひととき、「ハルボン邸」の野外宴会場は人の熱気で蒸せかえった。
とりたての青竹で造った「徳利」と「お猪口」で酌み交わす日本酒は、周りの風景と溶け合い、この郷ならではの深みとコクがある。
ここには様々な人々が集まってくる。中には昨年の原発事故後、福島からこの郷に避難して来た人がいる。一年経った今、帰れる条件は整ったが、「ここは居心地が良い」と住民票までこの地に移し頑張っている人もいる。
頑張る人と言えば、この宴会のホスト役を引き受けてくれているハルボンさんがいる。日本ひろしと言えども、老若男女これだけ多くの人を集め得る人はそういない。
宴会の模様はハルボンさんのブログに詳しく書かれている。いつもいつもご苦労さんです。感謝!感謝!
投稿者 愉悠舎 日時 2012年5月 4日 (金) 淡路の木漏れ日 | 個別ページ
名残のコスモス・淡路花さじき
淡路島の北、明石海峡大橋を臨む丘陵地帯に花畑が広がっている。
四季折々にそれぞれの花を咲かせ、訪れる人の目を楽しませている。
小雨降る晩秋の昼下がり、名残のコスモスを観にワイフのお供をした。
寒い!じっくりとコスモスを愛でる余裕などない。
帰り、近くの温泉で心身を暖める。
あわじ花さじきとは?
「あわじ花さじき」は花の島にふさわしい花の名所として、兵庫県が平成10年4月から設置しています。
淡路島北部丘陵地域の頂上部、標高298~235mの海に向かってなだらかに広がる高原に一面の花畑が広がります。(面積約15ha)
明石海峡・大阪湾を背景に花の大パノラマが展開し、季節により変わる愛らしい花々が夢の世界に誘います。
眼下に広がる花のジュウタンを楽しめる、極上の見物席として、『あわじ花さじき』と命名されました。さじき席ですので、自由に散策して自分の席を見つけてください。(あわじ花さじき HPより)
投稿者 愉悠舎 日時 2012年11月17日 (土) 淡路の木漏れ日 | 個別ページ
広田梅林
「洲本の図書館へ行きたいので、今日の買い物は洲本でしようや」と、ワイフの承諾を得てR28号を南下の途中、「広田梅林へ行こや」のワイフのつぶやきに、図書館と買い物を後回しにして、そのまゝ国道をさらに南下、途中昼食をとり広田梅林に到着。
ポカポカ陽気のこの日、梅林を散策する多くの人たちに紛れて今を盛りの梅の花を楽しんだ。
梅林の傍らに農民一揆を顕彰する碑を見つけた。
碑には義民をたたえる以下の文が刻まれていた。
「天明の一揆と義民碑について
江戸時代中期の天明二年(1782)、世に縄騒動と呼ばれている百姓一揆が、ここ山東北区十二ヵ村の農民たちによって起された。この頃、悪天候と災害による凶作が打ち続き 農民は疲弊し、藩の財政もまた困窮した。そのため、徳島藩では淡路仕置をして新法を授けさせ農民への収奪を強化した。なかでも、「縄灰法」と称する縄供出令は、灰縄上納の口碑・伝説を生んだほどの過酷なものであった。重税に耐えかねた農民たちは、旧暦五月三日から十五日にわたり新法の廃止を要求して蜂起した。その結果要求は容れられたが、一揆の指導者であった広田宮村の才蔵と山添村の清左衛門は、三年二月二十三日打首となり獄門にかけられたのであった。
以来、島の各地では秘かに両志士の霊を祀りその事跡を語り伝えてきた。そして近代になって、島民有志により両志士顕彰の挙が企てられ、明治三十年代に、「天明志士之碑」が一揆にゆかりのこの地に建立された。その後、この碑前で毎年忌日に天明志士祭が行われてきたが、木小二百年忌の大祭を行うにあたり、新たにその由来を尋ね記すものである。
昭和五十八年(一九八三)十一月吉日建之 」
投稿者 愉悠舎 日時 2013年3月 8日 (金) 淡路の木漏れ日 | 個別ページ
春花壇の主役チューリップ・国営明石海峡公園
色とりどりのチューリップが咲く淡路の国営明石海峡公園へワイフに連れて行ってもらった。潮風に揺られるチューリップの花を2時間ほど楽しんだ。
公園の一角、約5000平方メートルの花壇に256品種、20万の球根が栽培されている。
今年は開花が早く、この土日がピークであろう。
この日は淡路島に似合わず、若いカップルや若い家族連れが目立つ。
来訪者の多くはカメラを手にしながらの観賞。
あちこちでシャッターの切る音が聞こえてくる。
のどかな春の日の昼下がり、対岸の神戸の街が、かげろうのように揺らめいていた。
投稿者 愉悠舎 日時 2013年4月11日 (木) 淡路の木漏れ日 | 個別ページ
淡路島に又、強度の地震
朝、起床直後の午前5時33分強い揺れに襲われた。
ボンヤリと窓の外の風景を眺めていた私は激しい揺れに引き込まれた。
過去に神戸で大震災を体感した身は、揺れの中で18年前と比較する余裕があった。
あの時経験した「ドスン」という縦揺れの一撃はなく、横揺れから始まった。横揺れもあの時の、ゴジラが家を鷲づかみにして「ガタガタ」と小刻みに激しく揺するような恐怖感はなく、比較的周期の長い揺れだった。減衰も早かった。揺れが納まるまでの時間はあの時の三分の一ぐらいだったように思う。
震度の違い、体感した地盤の違い、家屋構造の違い等、あるのだろうか、それともわが身と心が鈍感になってしまったのだろうか?はたまた二度目の慣れがそう思わせるのか、私が体験した今回の地震は前回と比べて殆んど恐怖を覚えなかった。
ワイフは「あの時と同じように怖かった」と言う。
「ヒョット」して人生を見切ってしまっているのかも知れない。こちらの方が心配だ。
淡路島各地で液状化現象が起こった。昼過ぎそれらのある場所に行き、シャッターを切った。
淡路市での地震は震度6弱、深さは約15キロ、地震の規模はマグニチュード(M)6・3。
投稿者 愉悠舎 日時 2013年4月13日 (土) 淡路の木漏れ日 | 個別ページ
