2008年12月30日 (火)
パナマ運河を行く
パナマ運河を船で通った。
パナマ運河は地続きの南北アメリカ大陸の最狭部を大型船が航行出来るよう、フランスから建設の権利を買ったアメリカが1904年から10年の年月を費やし建造した。
パナマ運河を通航できる船の最大サイズをパナマックスと言い、船長:294.1m、船幅:32.3m、喫水:12mを限度としている。現在、パナマックス緩和のための拡幅工事が行われている。
アメリカはコロンビアの自治領であったパナマ地峡をパナマとして独立させ、運河地帯の施政権と運河の管理権を得た。
1999年にパナマ運河はパナマ国に返還された。
大西洋と太平洋を繋ぐパナマ運河の長さは約80kmあり、船はこの運河を8時間から10時間かけて通過する。
パナマのクリストバル港を出たクルーズ船トパーズ号は、カリブ海(大西洋)から水路を抜けパナマ運河に入り、しばらく進みガトゥン閘門(こうもん)に達した。ガトゥン閘門は海面レベルからガトゥン湖の高さ(海抜26m)まで船を上昇するためのもので、三つのチャンバー(chamber)で構成されている。一つのチャンバーの長さは300m、幅は33mある。一段目のチャンバーに船が入ると扉を閉めガトゥン湖から水を注入し9mほど船を上昇させる。二段目のチャンバーと同じ高さになると船を曳船用電気機関車(日本製)で二段目のチャンバーへ進める。二段目、三段目と同じ作業を繰り返し、閘門を出てガトゥン湖に進入する。
ガトゥン湖から火山岩を切削したクレブラ・カットと呼ばれる14kmほどの水路を通り、ペデロ・ミゲル閘門に至る。ここで約9m下降してミラフローレス湖を2kmほど進み、二つのチャンバーから成るミラフローレス閘門で約17m下げ、太平洋と同じ水位に船を浮かべる。
ここまで来ると太平洋はもうすぐだ。
投稿者 愉悠舎 日時 2008年12月30日 (火) 世界散歩 | 個別ページ
2009年1月 5日 (月)
「幻の都」・ペトラ
昨年暮れから続いているイスラエル軍によるパレスチナ自治区ガザへの空爆が今年に入ってからエスカレートしている。いつ果てるとも知れない紛争に一日も早く終止符が打たれることを祈らずにはいられない。
一昨年パレスチナ難民が暮らすアンマン近郊のキャンプを訪れた。アンマンから200kmほど下ったところにペトラ遺跡がある。
パレスチナ難民キャンプを訪問した翌日ペトラ遺跡を訪ねた。中東のヨルダンにあるペトラ遺跡は砂漠の真ん中の岩と、その岩の間に造られた「幻の都」である。岩に覆われた都は砂漠からその姿を見ることができず、「幻の都」と呼ばれる。今から2300年も前に遊牧民によって造られた都は、20世紀に入ってようやく発掘作業が始まり、21世紀の現在でもその作業が進められている。
ペトラ遺跡の入り口から歩いて奥へ奥へと進む。砂岩が割れてできた「シーク」と呼ばれる細長い巨大な岩の谷を1.5kmほど行くと、突然というか忽然と岩に彫られた「エル・ハズネ宝物殿」が姿を見せる。予期せぬ、荘厳で巨大な建造物を見せつけられた人々はその瞬間歓声を上げる。
「シーク」を抜け、「エル・ハネズ宝物殿」を過ぎると、岩に彫られた数え切れない住居跡に霊廟、浴場、劇場跡等々が往時の名残をとどめている。
古代人が馳せた壮大な夢に、ただただひれ伏すしかない。
ペトラ遺跡は1985年ユネスコの世界遺産に登録された。
投稿者 愉悠舎 日時 2009年1月 5日 (月) 世界散歩 | 個別ページ
2009年1月22日 (木)
パレスチナ難民キャンプ
オバマ大統領の就任演説に沸いたそのあとの21日、イスラエル軍の最後の兵士たちがパレスチナのガザ地区を離れた。昨年末から続いていたイスラエル軍の攻撃でガザの死者は1300人を超え、そのうち半数が武器を持たない市民である。
この停戦もいつまで続くのか予断を許さない。
ガザなどのパレスチナ自治区のほかに、パレスチナ人が暮らす難民キャンプがヨルダン、シリア、レバノンなどにも多くある。
ヨルダンの首都アンマンの北45km、ヨルダン川西岸地区の東にスーフキャンプが有る。2007年の7月5日キャンプを訪問した。
スーフキャンプは第3次中東戦争後の1968年に建てられた。67年の中東戦争でイスラエルはパレスチナの地を支配した。その時パレスチナを追われた人たちが近隣諸国へ難民となって逃れた。スーフキャンプはその一つである。現在ここで1万4千人の人々が暮らしている。キャンプと言ってもテントの中に暮らしているのではなく、通常の家屋に住み電気や水道のある生活を営んでいる。しかしながら、その生活空間は非常に厳しい。当初一家族に100平方メートルの敷地が与えられたが、その家族に子供ができ孫ができ、人口が増加した。それでも、同じ敷地内で暮らすしかなく、増築も2階以上は認められていない。
ヨルダンに暮らす難民はヨルダンの国籍が与えられ、キャンプ以外の場所で暮らすことも許されている。ヨルダンにいる170万人の難民の内、現在キャンプ内で暮らしているのは全体の20%ほどである。パレスチナの人々は難民であるため自治権は認められていないが、このコミュニティーには社会生活を準備する学校やリハビリセンターが有る。
リハビリセンターで懸命に手を動かすパレスチナ女性の澄んだ目が印象的だった。
投稿者 愉悠舎 日時 2009年1月22日 (木) 世界散歩 | 個別ページ
2009年2月19日 (木)
アグリジェントの「神殿の谷」・シチリア島
青い海に浮かぶイタリアのシチリア島、地中海文明の十字路シチリア島は古代文明の遺跡が随所に詰まっている。
イタリア本土の反対側、アフリカのチュニジアへと続く地中海を望むアグリジェント(Agrigento)の遺跡を巡った。
地中海を見下ろす丘の上に世界遺産に登録されているアグリジェントの遺跡群がある。別の名を「神殿の谷」と呼び、数キロに渡って遺跡が点在している。紀元前5~6世紀、ギリシャ人によって造られた遺跡を2時間ほどかけて歩いた。
コンコルディア神殿はイタリアのパエストゥムにあるヘラ神殿、 アテネのテセイオン神殿と並んで三大古代神殿の一つで、ユネスコの世界遺産のロゴマークはこの神殿を図案化したものである。
ジュノーネ・ラチニア神殿はヘラ・ラチニア神殿またはヘラ神殿とも呼ばれ、ドーリア式の神殿(38.15m×16.9m)で丘の上に建っている。
そのほかヘラクレス神殿や下水道、墓そしてテラモンなどを観て回ったが、テラモン(ギリシア神話に登場する英雄)は輪郭が余りにもハッキリしていてレプリカなのかも知れない。
オリーブの木と、その昔敵からの護りに備え丘の上に片寄せあうように建っている集落、ヨーロッパ最大の活火山エトナ山、そして古代遺跡の群れ。地中海最大の島、シチリアはロマンあふれる島である。
投稿者 愉悠舎 日時 2009年2月19日 (木) 世界散歩 | 個別ページ
2009年2月27日 (金)
スエズ運河を往く
紅海と地中海をつなぐスエズ運河を渡る。
紅海側のスエズから地中海のポートサイドまでの160km余りを1日かけて通る。
スエズ運河はフランスのレセップスの下、10年の歳月をかけ1869年に竣工。
エジプトの地に拓かれた運河ではあるが、イギリスやフランスの利権と絡み合ってスエズ運河は常に政争の具となり、1967年の第三次中東戦争後はイスラエル軍のシナイ半島占領により1975年まで運河は封鎖されていた。
スエズ運河の通行料はトパーズ号(総トン数/31500トン)の場合1500万円ほどと、船の関係者から聞いた。この運河を通らずアフリカ南端の喜望峰を経由した場合、7000km余り航海距離が長くなる。この船の速度を20ノット(37km/h)とすると1日1000km足らず進むので、7日間の燃料と時間が余計にかかる。これも船側の人に聞いた話であるが、この船の燃料費は1日800万円(50年前に建造されたタービン船であるので燃費は悪い)かかるらしい。燃料は船の運行以外ライフラインの全てをまかなっているので、800万円全てが運行費ではないが、喜望峰経由を考えるとスエズ運河の通行料はそんなに高いものではない。
金のことなど私にとってはどうでもいいことであるが、1年間に1万数千隻もの船が往き来するようになったスエズ運河の権益を巡り、列強の思惑に翻弄されてきたスエズ運河の歴史は重い。
デッキから運河やその両岸を船首デッキに立って眺めていると、目に映るいくつかの風景がある。右舷側のシナイ半島は乾いた土の砂漠地帯が何処までも伸びているのに比べて、ナイル川を有する左舷側は緑が多い、このギャップに戸惑う。岸の所どころに銃を持った兵士が往き来する船を監視している。戦勝記念碑みたいなものも建っている。運河航行も大詰めに差し掛かる頃、両岸をまたぐ大きな斜張橋が目に飛び込んでくる。橋の名を「ムバラク平和橋」と言うらしい、日本からの無償ODAにより日本の企業等が参加して架けたらしいが、ムバラクはエジプトの現大統領であり、ODA事業に国の権力者の名前を冠するのはいかがなものであろうか。
他愛ない想いにふけっているうちに船は地中海最初の港、ポートサイドに近づいた。
投稿者 愉悠舎 日時 2009年2月27日 (金) 世界散歩 | 個別ページ
2009年3月25日 (水)
車窓からのバンクーバー
カナダのバンクーバーを観光ループバスで回った。
バンクーバー市内のポピュラーなエリアを2時間かけて巡ってくれるこのループバスは、土地に不案内な観光客にとって好都合な乗り物で、料金は大人一人35ドルと少し高めだが、ノースショア(North
Shore)の山並みや海岸線を観ながらのひと時は心に安らぎを覚える。
上記ルートマップ②番(Seabus Terminal)から乗り一周した。チケットを買ったとき渡されたルートマップを見ながら、窓外に展開する美しいバンクーバーの街並みを楽しんだ。途中、⑪番ロブソン通り((Robson
Street)や、⑭番スタンレーパーク(Stanley Park)で降り、通りや公園内を散策した。北米で最大規模の23番のチャイナタウン(Chinatown)はバスの中から「異国情緒?」溢れる風景と、そこで暮らす人々の生活を垣間見る。
バスで一周したあと、バンクーバー発祥の面影を残す ギャスタウン(Gastown)に立ち寄り、少し買い物をして帰路についた。 暮れなずむ街にガス灯の淡い光が夏の夜を優しく包んでいた。
投稿者 愉悠舎 日時 2009年3月25日 (水) 世界散歩 | 個別ページ
2009年4月 2日 (木)
丘の上の都市・アクロポリス
世界自然保護基金(WWF)の呼びかけで夜間に1時間消灯し、温暖化防止を訴える「アース・アワー」が3月28日夜、世界の各地で行われた。ギリシァのアテネにあるパルテノン神殿の照明も落ちた。
アテネ市街からアクロポリスの丘に建つパルテノン神殿を仰ぎ見ることができる。灯りに照らし出されたパルテノン神殿は神秘とロマンに満ちた幻想的な風景だ。
暑い夏の日にアクロポリスの丘を訪ねた。観光シーズンのせいか、それとも年中こうなのか、パルテノン神殿の周りはヒトヒトで溢れていた。世界中の人々が狭いアクロポリスの丘に押しかけ、様々な人種の顔と言語が交差している。目立つのが中国系の人で、最近世界各地の観光地に中国の観光客が増えているのが実感として受け止めることができる。とある土産物店で日本人が店の人に「チャイナ?」と聞かれていた。彼らは商売の相手として中国人か日本人かは重要な要素なのであろう。日本人と分かれば「ぼったくり」にかかる。日本からの観光客は世界の人々に舐められている。だからと言って、ここアテネがそうだと言うのではない。
アクロポリスの丘は海抜154mの岩山の上にあり、その上にパルテノン神殿が建っている。神殿の前面に上り下りできる階段があるが大理石のため滑りやすい、雨の日などは危険きわまりない。神殿の横に廻るとそのまゝ崖下に落ちているので、ここも風の強い日などはあおられそうになり危険だ。日本ならば階段に滑り止めを施し、崖の周囲に手すりを造ってリスクの回避を目論むだろう。あえてそうした予防策を講じないのは、過去から受け継いだ人類の偉大な遺産に対する深い畏敬の念があるのだろう。往時の姿をそのまゝに往時の人々の苦闘を体現するのをよしとするのがこの地の文化なのだろう。と、勝手な想いにふけながらパルテノン神殿の階段を下りた。
写真にあるイロド・アティコス音楽堂はアクロポリスへの坂の途中にあり、反対側に歩を進めれば古代アゴラのヘファイストス神殿(テセイオン神殿)が佇んでいる。
投稿者 愉悠舎 日時 2009年4月 2日 (木) 世界散歩 | 個別ページ
2009年5月10日 (日)
軍隊のいないコスタリカ(COSTA RICA)

コスタリカは中央アメリカ南部に位置し、ニカラグアとパナマに国境を接し、太平洋とカリブ海に面している。コスタリカは1821年にスペインから独立、メキシコに編入し中央アメリカ連邦に加わる、その後1848年中央アメリカ連邦解体により独立、コスタリカが誕生した。コスタリカは世界で最初に軍隊を廃止した国として知られている。隣国に政情不安なニカラガグアを控え、無防備な状態は大きなリスクを背負っているが、緊急時は警察が対応するらしい。
コスタリカはエコツアーの国としても人気がある。ここには地球に棲む生物種の5%がいると言われ、「環境保護先進国」の一つである。
コスタリカの首都サン・ホセ(San Jose)を暑い夏の一日、歩いた。 カリブの国々は緑に恵まれているが、コスタリカの緑は夏の日差しに一際映える。
サン・ホセは日本人には便利な街で、インターネットカフェで日本語の使える店もあり、トイレでさえ日本語の標記がある。
投稿者 愉悠舎 日時 2009年5月10日 (日) 世界散歩 | 個別ページ
2009年6月 1日 (月)
エーゲ海の白い真珠・ミコノス島
白い館の狭間に波光揺らめき、丘の上に立つ風車が連れ添って、エーゲ海の風に身を任せている。白い家と青い海、「エーゲ海の白い真珠」と呼ばれるミコノス島の夏の日、ひがな一日をエーゲ海の風に吹かれた。
エーゲ海に浮かぶ島々の中で日本の女性に最も人気があると言われているのがミコノス島(Miconos)である。面積は約100 km²と我らが淡路島(592km²)の1/6ほどの小さな島に、世界中から人々がやって来る。
本船から通船でミコノス島に上陸後、ワイフとシャトルバスに乗り込む。
華やいだ島に相応しくない貧弱なカップルだが、この島に降り注ぐ斜光に身を置くと、浮き立つ気持ちを抑えきれない。
シャトルバスでプラティヤロス・ビーチへ、そこから(写真右下)ボートに乗り換えパラダイスビーチへ、ボートの料金は片道4ユーロなり。パラダイスビーチとその先のスーパーパラダイスビーチは夜な夜な、ヌーディストやゲイがたむろするエリアとしてつとに有名である。
私たちは憧れのエーゲ海で泳いだ。ワイフはワンピースの水着を纏う、上半身何も纏っていない御仁が多い中、周囲から浮いていた。浮くのは水の中だけにして欲しかった。
このビーチでとった昼食の量の多さには「たまげた」。その量の多さに私は注文をためらった。ワイフの分だけをオーダーし、私はビールだけにして、ワイフの食事を少しつまんだ。量だけならギリシャの料理は世界でもトップを争うだろう。
ボート、シャトルバスを乗り継いでミコノスタウン(中心街)に帰り、2時間ほど街の中を散策した。行く先々に咲き誇るブーゲンビリアが、白い路地に影を落としていた。
投稿者 愉悠舎 日時 2009年6月 1日 (月) 世界散歩 | 個別ページ
2009年7月 5日 (日)
セントラルパーク in NewYork
摩天楼に囲まれたマンハッタンの一角に、340㌶(甲子園球場の80倍)の広大な面積を有する公園がある。
セントラルパークは鬱蒼とした樹々やなだらかな起伏が往時の姿をとどめ、自然を随所に配置した森林公園の趣がある。反面、メトロポリタン美術館、セントラルパーク動物園をはじめとしてレストラン、スケートリンク、アウトドア劇場、等々、老若男女が楽しめる設備が整っている。
セントラルパークの南東の前にあるコロンバス・サークル(Columbus Circle)から公園に入り、北へ向かって歩いた。途中ストロベリー・フィールズ(Strawberry
Fields)なる一画がある。ジョン・レノンとオノ・ヨーコが暮らした近くに、ジョン・レノンの死後オノ・ヨーコらによって造られた。中央に「イマジン(IMAGINE)」の文字が刻まれている。この碑に花を捧げる人たちが年中続き、この一画でいつも誰かの歌うイマジンが聴こえてくる。
一時間ほど歩いて、来た道を少し迂回して引き返す。入口近くのベンチに腰を掛け、ニューヨークの風に吹かれる。
ここは座っているだけで楽しい。行き交う人々の多様さ、様々なスタイル、見知らぬ乗り物、飛び交う雑多な言語・・・、踊る人、歩く人、自転車で駆ける人、瞑想にふける人、ゴミをあさる人・・・。
ここは地球の風が吹いて、凪ぐ別天地である。
投稿者 愉悠舎 日時 2009年7月 5日 (日) 世界散歩 | 個別ページ
