2008年7月 4日 (金)
世界三大・・・
世に「世界三大ガッカリ」なるものが在るらしいのを最近知った。
一般的に言われているそれは、シンガポールの「マーライオン」、ブリュッセルの「小便小僧」、そしてコペンハーゲンの「人魚姫」のようだ。
人がそれを観て「がっかり」するのは、思ったより像が小さいとか、像の位置する背景に難があるとかだろうが、勝手な思い込みは現実に直面したとき、これらの像のように失望や落胆が大きく、その先に踏み込む勇気を失ってしまう。
ただ、逆の場合もある。「思ったより素晴らしかった」と、得をした気分に浸れるときもあるのでやっかいだ。
私は三つの像をこの数年で観てきたが、何の下調べもして行かなかったので、先入観にとらわれることもなく、素直に対面することができた。
像たちに会ったときは「やっと見ることができた」という思いで感動した。
シンガポールのシンボルであるマーライオンは1972年に建てられた。2002年に海辺の公園に移され、だいぶん見ばえが良くなった。本家とする写真のマーライオンのほかに、シンガポールには五つの像がある。
セントーサ島にマーライオンタワー(37m)、本家のそばにあるミニマーライオン、シンガポール政府観光局本局の前、そしてマント・フェーバーにある。
小便小僧はブリュッセルにあるグラン・プラスの横丁を少し入ったところにある。1619年に造られたが、現在の像はコピーで、元の像は1960年代に紛失した。
像の高さは56cmと小さいが、小便小僧「ジュリアン君」を観に、世界中から観光客がやって来る。
アンデルセンの童話をモチーフにした人魚姫の像はコペンハーゲンのシンボルで1913年に完成した。人魚姫の像は過去何度も損壊の憂き目に会い人魚姫の物語と重なって人々の涙腺を濡らしている。
人魚姫の像は高さ1m25cm、質量は約175kgである。
いずれにしても、それぞれの像には大きくて深い「像」物語がある。
投稿者 愉悠舎 日時 2008年7月 4日 (金) 世界散歩 | 個別ページ
2008年8月21日 (木)
レゲエの風に乗って
テレビのチャンネルはどれも北京オリンピックの映像に終始している。それにつられてチャンネルを次々に変える。そんな中で暑さを吹っ飛ばすさわやかな風がテレビの画面を吹きぬけた。ジャマイカの若者が北京のナショナルスタジアムに跳ねた。男子100m決勝でウサイン・ボルトが世界新記録で他を圧倒、余裕のゴールにただあきれる。翌17日、女子100m決勝もシェリーアン・フレーザーらがワン・ツー・スリー、メダルを独占した。20日には再びボルトが男子200m決勝で世界新を出し、直後の女子400mハードル決勝でもジャマイカのメラニー・ウォーカーが圧勝した。
ライトニングボルト(稲光)、人は彼をそう呼ぶ。
「稲妻」たちを生んだジャマイカはキューバの南に位置する、カリブ海で3番目に大きな島。大きさは四国の半分より少し大きい。住民の多くは植民地時代にアフリカから労働力として連れてこられた人たちの子孫。人口は260万人ほどである。
コーヒー豆のブルーマウンテンを産出し、レゲエのリズムを生んだカリブに浮かぶ、アフリカの精神に満ち溢れる島国である。
私が昨年訪れたモンテゴベイは首都キングストンの反対側にあるカリブ海有数のリゾート地であったせいか、見た目にも貧富の差が激しい。しかし、人々はラテン文化に融けて陽気で楽天的だ。
今、北京を席巻するカリブの小国ジャマイカの若者の、力の源を探る世間の声がかまびすしい。私もその一人に加わり、ジャマイカの地に過ごした日のことを思い起こしながら、二三強さの秘密に迫りたい。
先ず、彼らが祖先から受け継いだカモシカの足のようにしなやかな足腰の筋肉をあげなければならない。黒人の若者が階段を跳ねるように駆け上る姿を見たとき、日本人のそれとは全く違う身のこなしに驚かされる。先天的に兼ね備えた身体能力は大きな力だ。
それとハングリーな精神、それを醸成する国のバックアップも大きな要素だ。貧富の差が激しい社会では若者は非行に走らざるを得ない。若者の力をそぐことなく、国の誇りとして育てるジャマイカの精神は弱者に優しい。
もう一つあげれば、豊かな太陽の光と霧や雨に恵まれたカリブの気候、起伏の多い生活空間、青く澄んだカリブの海、そして反抗の音楽レゲエ、これらの気候と風土が世界の頂点に君臨するスプリンターをはぐくむ土壌になったのではなかろうか。
香り高いコーヒー、ブルーマウンテンで鼻腔をくすぐりながら、レゲエのビートに酔いたいものだ。
投稿者 愉悠舎 日時 2008年8月21日 (木) 世界散歩 | 個別ページ
2008年8月29日 (金)
オランダの花を訪ねて
ワイフは花が好きだ。若い頃は華道に親しみ、その後フラワーアレンジメントに傾倒して行った。神戸の各スクールで習作を重ね、最後は元町にある「神戸フローラルアートスクール」のフラワーデザイン・コースで4年間学び、そこの「教師科」を2007年5月に終了した。
昨年、一昨年とオランダを訪れる機会を得た際、ワイフは先ず花のある風景を目指した。一昨年のそれは「キューケンホフ公園」へチューリップを見に行った。アムステルダム中央駅から直通列車に乗り30分ほどでライデン駅に着く。そこからバスで1時間ほどのところにあるその公園は、チューリップの咲く3月下旬から5月のわずかな期間開いている。私たちが訪れたのは4月はじめで、チューリップの開花が始まったばかりであった。それでも32万㎡(甲子園球場の8倍、グランド面積+スタンド面積=約4万㎡)の敷地は、まもなく咲き乱れるチューリップの予感に満ち溢れていた。園内には、チューリップのほか、ヒヤシンス、水仙などの球根花が植わっている。そのほか日本庭園もあったが、私たち日本人の目から見ると、あまり手入れの行き届いた庭に見えなかった。
昨年はアムステルダム市内にある「シンゲルの花市場」を訪ねた。アムステルダム中央駅から歩いて行ける。「アンネ・フランクの家」から「ダム広場」を通り「シンゲルの花市場」へ向かう。140年の歴史を誇るマーケットはシンゲル運河上に軒を連ねて浮かび、道路側から出入りする。ここは花、球根、種、園芸小物などが売られている。各々の店は個性に溢れ、一歩店に足を踏み入れたワイフはいつまで経っても店から出てこない。ここで数時間過ごしたワイフは満ち足りた顔でマーケットを後にした。
運河と花のアムステルダムならではの光景が、シンゲル運河に展開していた。
マーケットでワイフが撮った写真を掲載しよう。



投稿者 愉悠舎 日時 2008年8月29日 (金) 世界散歩 | 個別ページ
2008年9月14日 (日)
シンガポールの中華街
シンガポールは淡路島より少し大きい国で、63の島から成っているが、そのほとんどの面積をシンガポール島が占めており、国の標高で最も高い地点は163mしかなく平坦な島国である。 人口400万人余りのシンガポールは、中国系の人が80%近くを占めており、この国でわざわざ中華街と言うのも可笑しな気がするが、国の中心部は東京や大阪などのビルが林立する街中と何ら変わらないので、シンガポールはやはりこのゾーンを中華街と呼ぶのがふさわしい。
40年ほど前まで、シンガポールの中心部のほとんどはチャイナタウンであった。シンガポールにチャイナタウンができ始めたのは1819年にイギリスの植民地になってからで、福建省・広東省などの中国南部からやって来た人たちがチャイナタウンを形成していった。
第二次世界大戦後、政府の都市開発によってチャイナタウンは消滅の憂き目に遭い、この地区にチャイナタウンが改変・再構築された。三階から成るショップハウスに変わって高層の公営アパートが建ち、スラムと化した街並みは壊され、ここのチャイナタウンでも見かけたアパート群が林立することとなった。アパートを見上げれば、中国を歩くとよく見かける光景、ベランダから出した長い竿に洗濯物が干されていた。この干し方は日本の様に横に干すより乾きが早いだろう、だが雨と風に弱い。
ここを中華街と言うからややこしくなるので違う言い方をしよう。中国の人は中華街を「唐人街」と呼ぶ。シンガポールのチャイナタウンを歩いていると、「唐人街」なる看板が目に付く。「唐人街」は中国にもある。華僑の人たちの街を「チャイナタウン」、「唐人街」と呼ぶのだろうか?あるいは中国の都市部に昔からあるショップハウスと呼ばれる長屋の住居を兼ねた店舗の続く街並みを言うのか?はたまた・・・。
シンガポールのチャイナタウンは大きくて広い、チャイナタウンと言えないようなエリアまでチャイナタウンに取り込んでいる。大型のショッピングセンターからモスクやヒンズー教の寺院まである。私が歩いたのはクレタ・アヤ地区など中心部の一部に過ぎないが、それでもチャイナタウンのエッセンスは吸収できる。
とにかく歩いていて楽しい、おもちゃ箱をひっくり返したような街である。
投稿者 愉悠舎 日時 2008年9月14日 (日) 世界散歩 | 個別ページ
2008年9月18日 (木)
アテネの旧市街・プラカ(Plaka)
パルテノン神殿のあるアクロポリスの丘を臨めるプラカ地区、ここは中世の面影が色濃く現代に息づいている。2007年7月12日アテネのプラカ地区を訪ねた。
レストランや土産物屋が曲がりくねった道や坂道に軒を連ねている。夜ともなるとライトアップされた街並みに、日本人から見れば遅い夕食をとる観光客や地元の人でごったがえす。ちなみにアテネにおけるこの日の日没は午後8:49分、9時以降人がどっとこのエリアに繰り出す。
夜のプラカを散策したかったが叶わず、真昼の散策となる。それでも今は夏の観光シーズンのさかり、狭い通りや露地裏は世界中からやって来た観光客で賑わっていた。
プラカ内のレストランでギリシャ料理を食した。伝統的なギリシアの料理店のことを「タベルナ(Ταβερυα)」と言うので日本人には微笑ましい。
私の入ったタベルナはレストランに見られるどこかすました雰囲気ではなく、日本で言えば「居酒屋」に近いだろうか、店内は昔のまゝの内装を維持し、装飾品も創業当時そのまゝに存在感を見せつけている。かたくなに変えようとしないオーナーのプライドを感じる。
プラカのタベルナはいろいろあって、オープンカフェのようなタベルナもあれば日本の「食堂」のようなタベルナもある。
ギリシャ料理は量が多い、私のような小食人間には前菜の盛り合せだけで満腹状態になった。メイン、デザートと出るがこなし切れない。ギリシャ料理は日本人の口に合うとされているが、量の多さは日本人の胃袋に合わない。
ギリシャ料理は地中海料理の一種で歴史的にトルコ料理の影響を受けている。特徴はオリーブ・オイルを多く使い、野菜を縦横無尽に使いこなしている。
時間をかけてギリシャ料理を味わったあと、満たされた胃袋を抱えプラカ地区を散策する。夏のアテネは暑い、緯度は北緯38度と新潟県の佐渡島と同じぐらいだが、空気が乾いているので、日本の夏より暑く感じる。この日の気温は30℃から35℃のあたりか、石畳の隙間に熱気がこもっている。雑貨屋の店頭においてあった冷蔵ショーケースから缶ビールを取り出し1ユーロを払う、土産物屋でギリシャ神話をモチーフにした壁飾りとオリーブ石鹸を買った。
下の写真は夏のプラカ、アクロポリスの丘も見える。




投稿者 愉悠舎 日時 2008年9月18日 (木) 世界散歩 | 個別ページ
2008年9月25日 (木)
ダブリンの夏はビールで
ダブリンはイギリスのロンドンなどがあるグレートブリテン島の西側のアイルランド島にある。北海道とほゞ同じ大きさのアイルランド島は、アイルランド共和国
とイギリスに属する北アイルランドに分かれており、ダブリンはアイルランド共和国の首都である。アイルランドはイングランド(イギリス)との長い確執がある。
「ダブリンの街角で」というアイルランド映画が昨年日本で公開された。ダブリンのグラフトン・ストリートで出会った、ストリート・ミュージシャンとチェコからの移民女性が音楽を通して知り合い、音楽に夢を育む物語である。映画に出てくるダブリンの街角は哀愁に沈んでいたが、訪れたダブリンは夏の真っ盛り、暑くもなく寒くむもない快適な夏を満喫する人々は、リフィ川のほとりをそぞろ歩く。ベンチに腰をかけながら川面に目をやる女性の膝元が眩しい。
アイルランド国立美術館近くのアイリッシュ・パブでアイルランド人定番のギネスの黒ビールを飲んだ。喉越しに重圧感が残り、それでいて繊細な味だ。アイリッシュ・パブはアイルランド人のパブリック・ハウスという意味で、アイルランドの家庭で旧くから造られていたビールのうち、秀逸なものに対してビールの販売を許したのがパブの始まりとされ、パブの語源にもなっている。
パブでビールを愛飲後、入場無料の国立美術館を見学しそのあとギネスのビール工場を訪ねた。「ギネスブック」を発行しているのもこのビール会社である。工場の一角にギネス・ストアハウスがある。この建物は100年ほど経っており、2000年に改装しギネス・ストアハウスとしてオープンしている。館内はビールの製造工程、歴史などがファンタスティックな世界に現出されている。
最上階、7階は「Gravity Bar」、ここに来ると1パイント(568ml)のビールが無料でふるまわれる。ここからダブリン市内が一望できる。高層建築のない緑の多い360度の風景を眺めていると、辛酸をなめた歴史の中にあっても、豊饒な暮らしを紡いできた、アイリッシュの誇りが伝わってくる。
<アイルランドについて>
アイルランドは北大西洋上の島国で北部の一部は英国に組み込まれている。対岸の島、英国(グレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国)はグレートブリテン島とアイルランド島の北部から成っている。
紀元前、ヨーロッパ大陸からケルト人が移住し、ケルト系アイルランド人が主流の国である。
800年ほど前、ノルマン人の侵攻がはじまり、英国はアイルランドを支配下におく。
350年前には完全にイギリス領とし、英国からプロテスタントが多く移り住むようになった。アイルランドにはもともとカトリック教徒が住んでいた。
1800年に英国はアイルランドを併合した。
英国の圧制のもと、抑圧、差別、貧困に苦しんでいたカトリック教徒は独立・抵抗運動を繰り返し、1919〜21年にかけて独立戦争を起こした。
1922年、英連邦内の自治領として発足し、アイルランド自由国憲法を制定した。そのとき北アイルランドは英国領にとどまった。
1937年、アイルランドの南部は英国から独立し、1949年に共和制を宣言し英連邦から離脱した。
北部は英国からやってきたプロテスタントが多かったので英国に残ったが、もともと北アイルランドに住んでいたカトリック教徒は永年にわたって受けてきた差別に加えて、自由国憲法で「北もアイルランドの一部」と決めており、アイルランド人の北部解放への想いは強く、今日まで問題を抱え込んでいる。(2006年12月31日付、マイブログより転載)
☆花の匂う夏のダブリン




投稿者 愉悠舎 日時 2008年9月25日 (木) 世界散歩 | 個別ページ
2008年10月 1日 (水)
ソグネフィヨルド遊覧(ノルウェー)
前日の夜遅くベルゲン港を出た船は一路ノルウェー海を北上し、2007年7月28日の午前6時前、ベルゲンの北80kmを右に大きく舵を取りソグネフィヨルド(Sognefjord)に入る。
ソグネフィヨルドは世界最大の長さと深さを誇るフィヨルドで、全長約200km、最深部は1000mを超える。
フィヨルド(fjord、峡湾)とは氷河期、内陸を覆っていた氷河が侵食・後退し、大地が削り取られ、その部分が海面に沈み、そこに海水が浸入してできた、狭くて深く長い湾のことである。ノルウェーにはソグネ・フィヨルドのほかトロンヘイム、ベスト、ゲイランゲル、ハルダンゲル、アウルランやユネスコの世界遺産になっているナーロイなど有名なフィヨルドが多い。フィヨルドはノルウェー語で「深く入り込んだ湾」という意味がある。
ソグネフィヨルドに入ると船は波一つない水面をゆっくりと滑るように進む。両岸にそそり立つ1000m級の山々、高い山を背に抱き、前に水面を控えて小さな集落が点在している。移り行く風景の中に、瀑布が海に砕け散る。村と村をつなぐ船が水面をただよう。地上を映す水の色は深くて濃い、その上鈍くて重い、掬えばペースト状の塊となって持ち上がりそうな、粘質な固体を思わせるような、そんな液面がどこまでも続く。
ソグネフィヨルドを最後まで突き進まず、途中で枝分かれしている支流のアウルランフィヨルドに入る。この奥にはフラム(flam)村が在り、ここは山岳鉄道の華、フラム鉄道の発着点になっている。
フラム村まで7時間余りの遊覧を終え、船はゆっくりと旋回し、来た道へ船首を向けた。
静寂を保った水深1000mのみなもは不気味だ。不気味でまとわりついてくるような粘っけを、皮膚を撫でる風に感じる。




投稿者 愉悠舎 日時 2008年10月 1日 (水) 世界散歩 | 個別ページ
2008年10月14日 (火)
ハドソン川 in NewYork
2007年8月9日早朝、トパーズ号(31,500トン)はスパン1298m(明石海峡大橋1991m)の吊り橋、ヴェラザノ・ナローズ・ブリッジをくぐる。
しばらくハドソン川を進むと、リバティー島に立つ自由の女神が見えてくる。1886年に建てられた像は以来、世界の各地から波濤を越えてやって来た人々の喜びや悲しみを受け止め続けている。右手に高く掲げられたトーチがキラリと光った。
自由の女神が後方に消えるとマンハッタンの摩天楼群が右手にそびえている。昇る陽がビルのガラスを照らし、浴びた陽がハドソン川に落ちる。ニューヨークの朝は摩天楼から明ける。
目の前をフェリーが横切る。ハドソン川を挟むスタテン島とマンハッタンを往復している無料の船だ。マンハッタンへ通う通勤者の交通手段にもなっている。 船内から手を振ってくれている人がいる。私は通勤風景を眺めるのが好きだ。 家族や恋人を背中に感じ「戦場に向かう兵士たち」の表情が、このときだけは真剣になる。世界経済のメッカ、マンハッタンを目の前にすればそれも頷ける。
ハドソン川を1時間余り、船は12番街西50丁目に近い、92番埠頭5番バースの客船ターミナル(Passenger Ship Terminal)に着岸した。
「陽の沈まない街」、ニューヨークの傍らを支えて来たハドソン・リバーは、この朝もとうとうと流れていた。
投稿者 愉悠舎 日時 2008年10月14日 (火) 世界散歩 | 個別ページ
