2008年10月20日 (月)
土曜日のカタニア(シチリア島)
シチリア島を舞台にした映画は多い。「ゴッドファーザー」、「ニュー・シネマ・パラダイス」、「山猫」等々・・・。この地がたびたび映画に登場するのは地中海のほぼ中ほどに位置する地中海最大の島として、古代より幾多の覇権を巡る重要拠点になり、政争の具に供された悲運と、野に匂うロマンが人をこの地に駆り立てるのだろう。
長靴のような形をしたイタリア本土のつま先に近いシチリア島第2の都市カタニアへ、地中海クルーズの途上寄港する。船上から見るカタニア港、その向こうにヨーロッパ最大の活火山(標高3,300mあまり)、エトナ山がたゆたう薄い煙をはいている、どこか日本の火山に似て郷愁を誘う。
カタニアの街は17世紀の後半、エトナ山の大噴火と大地震によって壊滅状態になった。現在の街はそれ以降修復・再建されたものである。
夕暮れのカタニアの街は人で溢れ返っていた。車の入れないゾーン、日本で言えば歩行者天国の通りは一本だけではない。蚤(のみ)の市も各所で開かれている。
この街角で面白い光景に出会った。物売りの黒人が十数人、車道を背にして座り、道行く人に声を掛けていた。突如、その一角が崩れたかと思うと荷物をたたみ、物売りの男たちは一目散に逃げ出した。その逃げ足の速いこと、一瞬の出来事だった。官憲の手入れだった。シチリアはアフリカ大陸に近い、チュニジアは目と鼻の先だ。アフリカから秘かにやって来た男たちが、躰を張って官憲の目を盗み日銭を稼いでいるのだろう。
地中海に浮かぶ南イタリアの島、シチリアは今も人がせめぎ合っている。
投稿者 愉悠舎 日時 2008年10月20日 (月) 世界散歩 | 個別ページ
2008年10月24日 (金)
グアテマラの2日間
グアテマラ(Republic of Guatemala)は中央アメリカにある人口1,368万人(2008年国立統計院(推計)、面積は日本の1/3ほどで公用語にスペイン語を話し、太平洋とカリブ海に面している。陸地はメキシコ、ベリーズ、ホンジュラス、エルサルバドルと隣り合わせている。世界遺産のマヤ遺跡とコーヒーが世界に名を知られている。
2007年8月23日、24日とグアテマラを訪れた。クルーズ船は太平洋側のプエルトケツァル港に錨を下ろした。
サンホセの「繁華街」へ
港からタクシーで15分ほどのところにある市の中心部へ、船で知り合った人たちと出かけた。日用雑貨を売る店が幾筋もの通りに軒を並べている。ウインドウショッピングをしながら、時おり店の中に入り買い物をする。スーパーマーケットで買い物をし、精算をするためにレジに行ったが、応対した店員が計算を知らなかった。何品かをまとめて買ってはいけなかったのだ、一品一品単独で買い、つり銭の要らないようにしなければならなかった。幸いにもその店員が英語のできる、計算機を持った人を呼んで来てくれたので事なきを得た。
Tシャツを買った店でトイレを借りるのに1ドルを要求された。金を払ったついでに許可を得て炊事場を撮った。幼い頃、日本の母たちはこのような「流し台(写真上右下)」の前に立っていた。
帰りもタクシーを拾った。港近くのコンビニの前でタクシーを待たせ店に入った。自動小銃を構えた警備員が扉の両脇に立ち、私たちを迎えてくれた。
グアテマラ・シティの旧市街地へ
24日、今日は一日貸切のタクシーを使った。7人と人数が多かったのでステーションワゴンを選んだ。走行距離500kmほどの新車同然の車にいたく感激した。昨日のタクシーは息も絶え絶えだったし、その前に南米のコロンビアで乗ったタクシーは途中でオーバーヒートを起こし、車を乗り換える羽目に遭ってしまった。
1時間ほどでグアテマラ・シティの中央公園(Parque Central )に着いた。公園には国立宮殿や大聖堂がある。国立宮殿の前に英語で書かれた案内板があった。館内を無料で見学できるらしい、オープンは9時とあり、少し時間があるので広場でハトと戯れたり、記念写真を撮って時間を過ごした。 1時間余り館内を観て回った。昼ごろまで公園周辺で過ごし、食事を摂るために大聖堂近くの中央市場へ運転手さんに案内して貰った。狭い通路の両側に食料品や民芸品が山のように積まれ、人が忙しげに行き交っている。市場の中にあるスナックコーナーで昼食にした。グアテマラの郷土料理が食べ放題で1ドル、日本人の口に合う食べ物だ。満たされた腹にビールが溶け込む。昼食後市場で買い物をする。グアテマラレインボーと言われるカラフルな色使いが特徴の、布で作られた民芸品の中からポシェットを5個ほど買い込んだ。その後、少し市内を廻って帰路に着いた。親切に面倒を見てくれた運転手さん「ありがとう」。

投稿者 愉悠舎 日時 2008年10月24日 (金) 世界散歩 | 個別ページ
2008年11月14日 (金)
カリブの要塞都市 カルタヘナ(コロンビア)
カリブ海と太平洋にまたがるコロンビアは南アメリカ大陸の北西部にあり、コーヒーの産出国として有名である。そのカリブに面し交通の要所として、また近年はリゾート地と栄えているのがカルタヘナである。カルタヘナはスペインの植民地時代の面影が随所に残る美しい港町である。海賊の襲撃に備えて築かれた城壁や要塞が、「カルタヘナの港、要塞と建造物群」として世界遺産に登録されている。
家族で港からタクシーに乗って世界遺産の一つである旧市街へ向かう。城壁に囲まれた旧市街の世界遺産指定地区は中世の街そのまゝの姿を現代に伝えている。かつて塀に囲まれたこの広場で奴隷の売買が行われていた。見上げればコロニアル風の建物が私たちを睥睨(へいげい)しているかのようである。この街の中でワイフが脚に痙攣を起こした。七転八倒するワイフを見て黒人が介抱してくれた。足のつま先からゆっくりと手で上方に揉み上げてくれた。10分ほど揉んだであろうか、今までの痛みが嘘のように引いた。その黒人は金銭の要求もせず立ち去った。私たちがこの街を去るとき、先ほどの黒人を探しタクシーを呼んでもらった。彼のことを「頼りになる男」と呼ぼう、男に同乗してもらい少しカルタヘナの街を案内してもらった。タクシーの中で男はいろいろ喋るが、スペイン語を話せない私たちに意味が通じない、分からないが分かったような気になる。
途中タクシーを降りて観たのがサン・フェリペ要塞(Castillo de San Felipe)である。世界遺産になっているこの要塞はアメリカ大陸で最大級のものらしい。
帰り、タクシーが白煙を上げて止まった、四方から人が集まって来た。誰かがガソリンスタンドから水を持って来て、ラジエーターに水を注いだが「焼け石に水」、エンジンはウンともスンとも言わない。集まった人たちは「あゝでもない、こうでもない」と言い合っているようだが如何せん打つ手なし。「頼りになる男」は車を乗り換えることに決めたらしく、別のタクシーを呼ぶ。エンストを起こした運転手に金を払おうとしたが、「頼りになる男」が自分のポケットから現地の紙幣を取り出して運転手に渡した。親切に集まってくれた人に手を振って別のタクシーに乗り込んだ。
タクシーを降りるとき、「頼りになる男」に最初約束した金銭を払った。アクシデントが発生し、手伝いにやって来た人たちへの報酬や、乗り換えたタクシーの運賃は要求されなかった。あとで「頼りになる男」が何がしかを彼らに報いるのだろう。彼らは誰かに頼り、支え合って生きている。

投稿者 愉悠舎 日時 2008年11月14日 (金) 世界散歩 | 個別ページ
2008年11月18日 (火)
美しい街なみを歩く・コペンハーゲン
「コペンハーゲン・ウオーキングツアー」に参加した。
人魚姫の像から始まり、アメリエンボーやクリスチャンボー宮殿等を巡り、コペンハーゲンを代表する風景となったニューハウンで昼食をとったあと、繁華街・ストロイエの入り口で解散となった。
「北欧のパリ」と呼ばれるのをコペンハーゲンの人は嫌がるだろう。それほどコペンハーゲンの街は垢抜けていて美しい。ガイドに連れられてコペンハーゲンの街を歩いた。どこを歩いても絵になる街だ。
昼食を兼ねて訪れたニューハウン(Nyhavn)は観光地化されてしまっているが、独特な雰囲気を持つエリアだ。飲食店が軒を連ね、店の内外に人が溢れ、水路を行き交う観光船は林立するヨットの傍をすべる。
ニューハウンとは「新しい港」という意味であり、17世紀に市街地の拡大に伴なって造られたミナトである。世界中の船乗りが骨を休めた居酒屋の建ち並ぶ往時の姿が目に浮かぶ。ミナトと言うより船着場と呼ぶ方が相応しい。アンデルセンが18年間ここを居場所とした。
ストロイエ(Stroget)のショッピング街を歩いた。およそ1.5キロ続く通りはヨーロッパで一番長く、周辺には約2000店舗が軒を連ねている。世界初の歩行者天国とも言われている。世界の有名ブランド店、特にデンマークや北欧の有名店が競い合っている。大道芸人やミュージシャンも通りのあちこちで得意の技を披露している。通りを歩いていて目につくのがアイスクリーム、チーズ、キャンディーなどの専門店で、覗きがてら値段を見ると日本より少し高い。ストロイエは古いものと新しいものが整然と交じり合い、気品の漂うエリアである。







投稿者 愉悠舎 日時 2008年11月18日 (火) 世界散歩 | 個別ページ
2008年11月22日 (土)
ホイアンの夕暮れ(ベトナム)
ホイアンはベトナムの中部ダナンから南へ車で1時間ほどのところにある。ダナンはベトナム戦争当時米軍最大の基地として、ここから北への攻撃をエスカレートして行った苦い歴史がある。ダナンからバスでホイアンへ行く途中、当時の残骸が残る元米軍基地の横を通った。錆びついた鉄条網や飛行機の格納庫のようなものが夏の残照に鈍く光っていた。
交易で栄えたホイアンは日本とも16世紀期末から17世紀初頭にかけて貿易を行い、日本から朱印船が行き交っていた。日本人も数多くホイアンを訪れ、住みついた日本人もいたようだ。世界遺産になっている「旧日本人街」を歩いた。ここには1593年に造られた木造、屋根付きの日本橋(来遠橋)がある。街の中はここに日本人街があったと思わせる建造物は残っていない。中国風の木造家屋や関帝廟等が立ち並んでいる。日本の鎖国政策によって衰退していった日本人の街を偲ぶよすがは何もない。
17世紀頃の街並みが1キロ足らずの通りに続いているホイアンの旧市街地は、交易華やかりし頃の商家の面影を、夕暮れのしっとりとした風情の中に浮かび上がらせていた。
ベトナムの女性はよく働く、ベトナムの何処へ行っても立ち働いている女性の姿が目につき、男は所在無い風体で、椅子に腰掛け人とダベったり、ぼんやりと戸外の風景を眺めている姿をよく目にする。実情は分からないが、この国の女性は働き者だ。そして、美人が多い、特に中部のこのあたりが美人の宝庫と言われている。
下に掲載の写真はホイアンの街で撮ったベトナムの女性たちである。
投稿者 愉悠舎 日時 2008年11月22日 (土) 世界散歩 | 個別ページ


2008年11月26日 (水)
アフリカの夜明け・カイロ
世界で一番長い川、ナイル川が地中海に注ぐ手前、手前と言っても150キロ後方にカイロ(Cairo)がある。カイロはアフリカ最大の都市で、アラブ世界の政治・経済・文化の中心地である。
ナイル河口のデルタ地帯にあるカイロは、ナイルの肥沃な土地に育てられたアフリカ希望の星である。イスラム文化の中心地でありながら、イスラムの匂いが紅海を挟んだアラビア半島よりも薄く感じるのは、人と車の多さにイスラムの匂いや体臭が掻き消されているのだろうか。それとも大地に溶け込んだイスラムの血と汗が、眠れる獅子の如く、静かにその出番を待っているのだろうか。
長らくイギリスの植民地下にあったエジプト、その首都であるカイロの街はイギリス風の建物が目立つ。重厚な造りの間を車と人が交差する。世界で最も車の渋滞が激しいとも言われるカイロの街中の雑踏に身を置くと、古代エジプト文明の足音と共に、忍び寄るアフリカの黎明が瞼の奥を焦がす。
カイロにあるエジプト考古博物館を見学した。ツタンカーメンの黄金のマスクを観ることができた。
投稿者 愉悠舎 日時 2008年11月26日 (水) 世界散歩 | 個別ページ
008年11月29日 (土)
インド・ケーララ州・コーチン

26日夜から27日未明にかけて、インド西部の大都市ムンバイ(旧ボンベイ)で武装グループが大規模な同時テロを起こした。その根源を探って行くとインド国内に根深い宗教対立があると言われる。10億人を超える人口のうちヒンズー教徒が80%を占め、イスラム教徒は13%を占めている。近年経済力を急速に強めてきたインドで経済格差が一層広がり、その中でイスラム教徒は社会の外に追いやられている。
聞くところによるとインドの「富裕層」は八千万人と言われている。「富裕層」がどれほどの富を持っている者をさすのか、感覚でしか捉えることができないが貧富の差が極めて激しい社会に間違いない。加えてインドには古くからの「カースト制度」が今なお残る。「民主主義国家」を標榜するインドの未来に、乗り越えなければならない多くの壁が横たわっている。
ムンバイ(Mumbai)から海沿いに千キロ南下するとコーチン(Cochin)にたどり着く。
コーチンと言えば名古屋コーチンをイメージするが、名古屋コーチンの由来はインドのコーチンを原産とする鶏が、中国を経由して名古屋に伝わったとも言われている?
コーチンはインド南部のケーララ州にある。赤茶けたインドの大地に、緑したたる潤いを染み込ませた、美しく優雅な港町である。
コーチンにはポルトガルの探検家バスコ・ダ・ガマが埋葬されている聖フランシス教会や旧オランダ総督邸のマッタンチェリー・パレス(Dutch Palace)そしてユダヤ教の会堂シナゴーグなど、ポルトガルやオランダの植民地時代の面影を残す建物が随所に残っている。これらの建物を歩いて回った。さまざまな国の人々が行き交った街に、さまざまな文化が見られる。バスコ・ダ・ガマがスパイスを求めてやってきたと言われるだけあって豊富なスパイスを売っている店も多い。
スパイスの売っている通りを「ユダヤ人街」と呼んでいた。今では数家族になってしまったユダヤ人の街中にシナゴーグがある。シナゴーグとはユダヤ教徒が礼拝のために集まる集会所のことであり、日本では神戸と東京にシナゴーグがある。
この街に住んでいたユダヤ人の多くはイスラエルへ移って行った。ユダヤ人街を歩き、流浪の民の悲哀を想う。

投稿者 愉悠舎 日時 2008年11月29日 (土) 世界散歩 | 個別ページ
2008年12月 5日 (金)
スペインのバスク地方・ゲルニカ

1937年4月26日、ヒトラーはスペイン・バスク地方の小さな街ゲルニカに史上初の無差別空爆を行い、当時7千人いたゲルニカの人たちのうち2千人が犠牲になった。
スペイン内戦の最中、人民戦線政府の転覆を図るフランコ軍の要請を受けたドイツ空軍がゲルニカを攻撃し、バスク地方の自治と統一の象徴ゲルニカの街は破壊された。
破壊された街にカシの木と議事堂が残った。バスクのこの地で15世紀、カシの木の下でバスク人は独立と平和を宣言した。以来、カシの木はゲルニカの象徴となった。
3時間もの空爆に耐えたカシの木に一人の画家が触発された。ピカソは反抗の象徴としてのカシの木に自らを託しヒトラーを、フランコを怒りを込めて告発した。「ゲルニカ」の誕生である。
ピレネー山脈の西側、スペイン北部からフランスに至るバスク地方は固有の言語、文化を持つバスク人が暮らしている。「バスク独立問題」など、まだ切り開かなければならない課題を抱えながらバスクの自治共同体はヨーロッパで強烈なアイデンティティーを主張している。
スペイン北部の小さな街ゲルニカを歩いた。ゆっくりとした時の流れが山あいの街を包んでいた。
投稿者 愉悠舎 日時 2008年12月 5日 (金) 世界散歩 | 個別ページ
2008年12月 9日 (火)
北欧の雨に打たれて・ベルゲン
つかの間の夏を惜しむノルウェーのベルゲンを訪ねた。夏なのに少し肌寒い、それに加えて間断なく降る小雨が疎ましい。ここは地球の北限に近いミナト町。
朝、ケーブルカーで標高320mのフロイエン山へ登る。重く垂れ込めた鉛色の空間に、美しいベルゲンの街並みが広がる。
右眼下に魚市場や世界遺産のブリッゲン地区が見える。ベルゲンのランドスケープを堪能し、再びケーブルカーに乗り下山する。このケーブルカーは生活用にも使われており、市中のトラムが山を走っているような感じだ。
山を下りて木造家屋の並ぶブリッゲン地区を歩く。世界遺産に指定されているブリッゲン地区はハンザ同盟時代の倉庫群が潮風を受けながら佇んでいる。ハンザ同盟とは15世紀に最も栄えたドイツを中心とする交易商人の組合である。1236年にハンザ商人によって商館が建てられ、その後14世紀の後半にはハンザ同盟の事務所がこの地に置かれた。
倉庫群の方に回ると、建物の一角に当時ドイツから出張で魚の加工や搬送にやって来た職人の倉庫や宿泊施設が再現されている。その中でカイコ棚のような、到底人が横になって寝ることができない、短くて小さな二段ベッドが並らんでいた。ここで人は膝を抱くような格好で寝ていた。寒さを凌ぐための措置で、各室は小さく引き戸も付いている。極寒の地に生きた下積みの人々の過酷さが偲ばれる。
2007年はベルゲンが生んだ作曲家グリーグの没後100年にあたる。ベルゲンの郊外にある「グリーグの家」を訪ねた。
その後、港に戻り魚市場を歩く。色鮮やかな魚の群れに誘われながら、加工食品の買い物を楽しんだ。夏とは言え、小雨降る北欧の夕暮れは、足元から冷え冷えとしたものが伝わってくる。そして、ちょっぴりもの悲しい。



投稿者 愉悠舎 日時 2008年12月 9日 (火) 世界散歩 | 個別ページ
2008年12月24日 (水)
岩の上に建つ街・アデン
中東のアラビア半島とアフリカのソマリア半島に挟まれたアデン湾、アラビア海と紅海を結ぶアデン湾、そのアデン湾に面したアデンの街に、屹立したむき出しの岩肌が白い家並みを護るようにそそり立つ。
イエメン(Republic of Yemen )の国民の多くはアラブ人イスラム教徒で公用語はアラビア語を話す。
アデンの街を歩いていて、男と女それぞれの姿に、ある特徴を見いだす。
成人した男は腰に短剣をさしているのが目立つ。ジャンビーアと呼ばれるもので、それぞれが属する階層や部族によって大きさや装飾に差があるようで、一つ一つが個性的だ。ジャンビーアは装飾に重点を置いているので実戦には使わず、シンボリックな意味合いが強い。私は10ドルほどのジャンビーアを一つ買った。
この国の女性、当然ながらイスラム教徒が多い、イスラム教は女性に戸外で、髪や顔を隠すようスカーフの着用や、躰を黒い布で覆うことを求めているが、他のイスラム国家に比して緩やかで自由だ。スカーフの色も比較的自由で白や青色もあり、顔全体を覆っている女性もいれば顔の多くを露出している女性もいる。 顔以外の露出度もいろいろである。聞くところによれば信仰の浅さ深さによるらしい。信仰が深くなればなるほど露出度も少なくなるらしい。
昨今、イエメン情勢に不穏な空気が漂っており、本年3月及び9月の米国大使館をねらったテロ事件、5月の日本人女性2名の誘拐などが発生している。私がこの国を去った翌日(2007年7月2日)にも、イエメン北部でテロによる爆破事件が伝わってきた。
不安定なアラビアの地に生きてはいるが、この地の人々は素朴で明るい。
街を歩いて目に付いた食材に、乾燥した大地のイメージが消えて行く。





投稿者 愉悠舎 日時 2008年12月24日 (水) 世界散歩 | 個別ページ
