日本散歩・Ⅳ

2013年10月 7日 (月)
唐古・鍵遺跡&今井町


 前々週に続き先週も天理へ行った。
毎月5日は天理教の霊祭日、黒いハッピを着た信者さんたちが街なかの歩道を、セッセと掃いている。
 天理の街は町じゅうに信者のための宿舎が建て込んでいる。数多いこれらの重厚で大きな詰所を維持するのは大変だろうなぁ、人ごとながら少し気になる。
 天理にはたびたび訪れているが外から見る天理教にあまり違和感はない。独特の形をした詰所と信者たちは、この街に溶け込んでいるように思う。信者たちの控えめな振る舞いにそれを見る。
 あちこちの詰所には「よ う こ そ お か え り」の言葉が掲げられている。

 幼稚園の孫の運動会が、雨の予報で危ぶまれていたが、園側の「英断」により強行。
 結果、雨もなく暑い日ざしにも邪魔されず無事終えた。メデタシ、めでたし!

 帰り、ワイフが「今日は今井町へ行こ」。と言う。
 カーナビに「今井町」を入れて出立。


 前の週、藤原京へ向かう途中、少し変わった櫓のような建造物が目に留まった。この日もそこを通り、左前方にその櫓が見えたので、急きょハンドルを左に切り建物の前にある駐車場に車をとめた。

 櫓は弥生時代に建てられた楼閣の復元だった。
 楼閣の前に咲く満開のコスモスの見事なこと。

 楼閣のある一帯は唐古・鍵遺跡。

唐古・鍵遺跡(からこ・かぎ・いせき)は奈良盆地中央部、標高約48メートル前後の沖積地、奈良県磯城郡田原本町大字唐古及び大字鍵に立地する弥生時代の環濠集落遺跡。

現在知られている遺跡面積は約30万平方メートル。規模の大きさのみならず、大型建物の跡地や青銅器鋳造炉など工房の跡地が発見され、話題となった。平成11年(1999年)に国の史跡に指定され、ここから出土した土器に描かれていた多層式の楼閣が遺跡内に復元されている。

全国からヒスイや土器などが集まる一方、銅鐸の主要な製造地でもあったと見られ、弥生時代の日本列島内でも重要な勢力の拠点があった集落ではないかと見られる。( Wikipedia 最終更新日 2013.7.17)


 今井町に着くころ、陽は落ちていた。
 古い町並みを少し歩いたが、エリアが広く、それに日も暮れていたので、この日は町並み巡りを早々に引き上げ、日をあらためることにした。

 今井町(いまいちょう)は、奈良県橿原市の北西方に東西に長く位置している町である。中世戦国時代のの町並みが残っており重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。(( Wikipedia 最終更新日 2013.08.14)


投稿者 愉悠舎 日時 2013年10月 7日 (月) 日本散歩 | 個別ページ


2013年11月22日 (金)
都の風(其の壱)・苔涼庭

 かねてから、ワイフが約束してくれていた伏見の苔涼庭行きが11月20日、日の目を見た。苔涼庭について一年前拙ブログで触れたが、この日の来るのを待ちわびていた。

 苔涼庭(たいりょうてい)の当主・大橋氏はワイフが神戸時代、十年ほどお世話になった、かつての上司である。

 ワイフを含む5人と私が苔涼庭に押しかけた。

 彼らは遊びに仕事に氏の薫陶を受け、今も教示を賜っている。企業を離れた今も氏のもとに集うのは、氏のあたたかい人柄に惹かれるからだろう。
 十年ほど前、氏が淡路に来てくれたときの印象は、話が上手で喋っていて楽しく、ユーモアがあり一つひとつの言葉に含蓄があった。
 かくしゃくとした長躯の背後に都人(みやこびと)の憂いと気品を漂わせていた。

 この日、氏とお会いし、10年前と変わりのない姿に「力」を貰った。私と氏はひと回り齢が違う。

 苔涼庭は水曜日が休みで、その日に合わせて私たちの見学が実現した。
 特筆すべき点が多い庭の中で、私の目を引いたのは、多種多様の石灯篭と水琴禽だ。
 これだけ灯篭の多い庭は珍しく、水琴窟で言えば、古くから京都に在る水琴窟は大原宝泉院など三ヶ所とのこと。

 氏は苔涼庭を見学に来る人たちの相手をすることで、自らも楽しんでいる。
 氏は見学者の中にはいろいろな人がいて面白いと言う。例えば、灯篭の明かり窓を留めている竹を指して(下記画像、常盤灯篭の明かり窓中央部の細長い竹)、あれで灯篭の頭を支えているんですか?と聞く人がいた。氏がどう答えたかは聞き漏らしたが、私は質問した人もスゴイと思う。

 庭の各所に氏の曾祖父が残した「遊び心」も聞かせて貰った。


 苔涼庭の見学後、氏の案内で近くの東福寺と三十三間堂へ。

                                       (つづく)

投稿者 愉悠舎 日時 2013年11月22日 (金) 日本散歩 | 個別ページ


2013年11月23日 (土)
都の風(其の弐)・東福寺と三十三間堂
燃ゆる東福寺

 伏見区を過ぎるあたり、東山区の東南端に東福寺がある。苔涼庭からワイワイ駄弁りながら東福寺まで歩く。15分ほどで目的地に到着。途中、由緒ある寺がいくつもある。昔、修学旅行で京都を訪れた際、ガイドさんから、「京都で各寺院にお賽銭一円あげて回ると1500円いる」と言われたのを思い出した。

 東福寺は奈良の東大寺と 興福寺から「東」と「福」をとって名前が付けられた。また、ここは京都で一二位を争う紅葉(もみじ)の名所だと大橋氏から教わった。そして目の前の建物を指して「トイレが国宝になっているのは此処だけだ」と言った。
 トイレ(雪隠)は百坪ほどもあり、修行僧が一斉に用を足すところから百雪隠と言われた。

 多くの観光客に混じって「紅葉狩り」を楽しんだ。(下の画像クリックで拡大)


東福寺(とうふくじ)は、京都市東山区本町十五丁目にある臨済宗東福寺派大本山の寺院。山号を慧日山(えにちさん)と号する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は、九条道家、開山(初代住職)は円爾である。京都五山の第四位の禅寺として中世、近世を通じて栄えた。明治の廃仏毀釈で規模が縮小されたとはいえ、今なお25か寺の塔頭(山内寺院)を有する大寺院である。( Wikipedia 最終更新日 2013.10.01)

 

 

 

 

 

 

 

 

 



鬼気迫る三十三間堂


 昼食は京寿し屋さんに入り、「京寿司」を注文する。帰り際、店主が言うには鯖とハモを主とするのが京寿司の特徴とのこと。

 歩いて三十三間堂へ。
 堂内に千体の千手観音立像が各10段50列に並ぶさまは圧巻だ。
 堂内は撮影禁止なので写真は撮れないが、その分、心に深く刻まなければならない。見学者の真剣な眼差しがほの暗い空間に交差する。

 外に出て、余韻の残る我が見学者たちを写真に収める。



 今日の予定はこれまで、近くの駅で二手に分かれる、私とワイフは大橋氏と共に苔涼庭へ、私たちはそこの駐車場に車を置かせて貰っているので氏の後について歩を進める。

 途中、伏見稲荷大社に寄った。

 氏と別れ際、本日、二条城近くに泊まり明日、同志社に行きたい旨を告げると、同志社出身の氏は「それなら同志社寒梅館7階のレストランが美味しい」と教えてくれた。
 お礼を言って大橋邸を後に、暮れなずむ都大路を北へ向けて車を走らせた。
                                            つづく


投稿者 愉悠舎 日時 2013年11月23日 (土) 日本散歩 | 個別ページ


2013年11月24日 (日)
都の風(其の参)・二条城と正教会そして同志社

 21日朝、晩秋の京都は冷え込む。
 ホテルで朝食をとりながら、この日の行程を確認する。
 まず、目の前にある二条城を見学する。ホテルの駐車場は正午まで停めさせてくれるので、歩いて二条城を往復する。その後、車を同志社近くに移動し、同志社と正教会を訪ねる。

 私たちが投宿した京都国際ホテルは来年末をもって閉鎖するらしい。老朽化に加えて繁華街から離れており、客室単価の下落がその要因らしい。

 

 

 

 


二条城

 徳川家康が京都御所の守護と将軍上洛時の宿に使うため1603年(慶長8年)に造った。
 時を経て1867年(慶応3年)10月、15代将軍徳川慶喜が二の丸大広間において、大政奉還を決意・発表した。

 二の丸をユックリと時間をかけて観賞した。徳川幕府が外様大名の反抗を未然に防ぐため施された物理的防護策、水もこぼさぬ仕掛け(システム)に支配者の用心深さを垣間見た。



ハリストス正教会と同志社


 車を出町柳の市営駐車場に入れて、昨日大橋氏に教えてもらった同志社の「寒梅館」へ御所に沿って歩く。7階のレストランは予約が必要で、その上ちょうど悪い時間帯に出くわし満員。待ち時間一時間半にあきらめて、出町柳まで引き返し、そこで昼食。

 昼食を済ませ今度は出町柳から二条城方面へ御所の東側を北から南へ20分ほど歩く。
 中京区柳馬場(ばんば)通二条上る六丁目、ここが京都ハリストス正教会だ。ここに私の祖母が6年間学んだ京都正教女学校があった。教会事務所に居た方に、当時の学校の様子が載っている資料を頂いたので私、拙、別ブログに載せたいと思う。

 教会前庭の一角に佇んでいると、教会の扉を開けて祖母が近づいて来るような気がしてくる。

 教会を辞して同志社に向かう。少し疲れてきたので地下鉄丸太町駅から今出川駅まで、ひと駅電車に揺られる。

 同志社はワイフの希望で訪れた。NHKの大河ドラマ「八重の桜」の主人公新島八重と同志社大学を創立した夫の新島襄が育んだ「近代京都」の一端に触れたくてやって来た。地下鉄今出川駅側から出町柳へ向かって校内を散策した。

 学園を彩る紅葉が「ハイカラ京都」の燃えたつ中で映えた。     (おわり)


投稿者 愉悠舎 日時 2013年11月24日 (日) 日本散歩 | 個別ページ


2013年12月13日 (金)
都の風(余話)・二条城のうぐいす張り、苔涼庭の庄助下駄等
・二条城の鳴き廊下


 過日、京都に行った折、二条城を見学した。
 二の丸廊下あたりに修学旅行の一団が、廊下の下にもぐって何やら説明している人の話に耳をそば立てていた。
 一団が去った後、何ごとかと廊下の下にもぐってみた。
 先ほど二の丸内部を見学したとき、廊下を歩くと床が鳴いていたのを思い出した。修学旅行生が説明を受けていたのはウグイス張りの仕組みであった。
 しばらく床下を眺めていたが、仕組みがよく分からない。自宅に帰り二条城のウグイス張りについて調べた。

 「床板と根太とを取り付けるとき、板の上から根太に向かって釘を打てば、床面に釘の頭が見えてしまう。入念な建築においては床面に釘の頭を見せないよう、床板下面に設けた窪みに目かすがい(右画像)の一端を打ち込み、他端を根太に釘で留める、という方法をとる。鶯張りの場合は、床板の幅が広いために両側が多少上方に反り、目かすがいの釘穴はその反りを吸収できるよう、あらかじめ上下に余裕を持たせてある。床板の上から荷重がかかると一時的に反りが戻り、目かすがいの釘穴が釘と擦れあって音を発するのである。」( Wikipedia 最終更新日 2013.04.02)

  要は「目かすがい」と「釘」がこすれ合い、ウグイスの鳴き声のような音色を発する。

・苔涼庭の品々

 先日訪問した伏見の苔涼庭には嗜好家の興味をそそる品々が庭のあちこちに置いてある。

 庭の片隅にひっそりと、隠れるように佇んでいたのが桶の形をした小便器である。表面に絵柄が染付けてあり、どこかなまめかしい。
 その昔、30代はじめ、某同窓の忘年会を大阪は飛田新地の「百番」という料亭で開いたことがあった。ここは元遊郭で、建物の内部は往時の廓の姿をそのまゝに、訪れる人を妖しい世界にいざなってくれる。
 「百番」で用を足した便器を思い出した。
 「百番」は国の登録有形文化財に指定され、料亭として今も健在である。

 苔涼庭の縁側に丸い形を半月状にし、それを合わせて一対にした下駄が、縁側の踏石(ふみいし)の上に置かれてあった。古くから京都に伝わる履物の一種で、「庄助下駄」と呼ばれる。
 下駄の表面に絵柄を施してあり、履いていると見えないが、脱いでいるとき、主(ぬし)の人となりに想いを馳せる。
 京都の奥深さを実感する。

 苔涼庭には風流を好んだ粋人たちの夢の跡がいっぱい詰まっている。

投稿者 愉悠舎 日時 2013年12月13日 (金) 日本散歩 | 個別ページ


2014年3月 7日 (金)
山あいの「ビッグひな祭り」
Bighina_fes


 寒の戻りがやって来た。
 春を拾いに阿波の勝浦町へ「ひな祭り」を観に行った。
 徳島市から車で30分ほど南へ、山峡の町で雛祭りが行われている。
 メイン会場である人形文化交流館とそこから少し奥に入った町並みに飾られている雛人形の数々を観た。
  その後、町並みからさらに山奥に入り、月ヶ谷温泉で湯に浸かりホッコリした。
 帰宅し、勝浦で買ったアメゴ(関西ではアマゴ)の姿寿司を食べた。川の臭いがなく、まろやかな味だった。

「徳島県勝浦郡勝浦町生名の人形文化交流館において、ビッグひな祭り実行委員会及びNPO法人阿波勝浦井戸端塾によって約1ヶ月にわたり開催される。
会場では、2万体以上の雛人形が飾られ、なかでも高さ約7mの巨大なピラミッド状のひな壇が目玉となっている。雛人形は日本全国から寄せられたもので、供養料として5千円が必要である。
また、同時期に勝浦町坂本地区において雛人形の奥座敷も開催され坂本地区の町並みのあちらこちらで趣向を凝らした雛人形の飾りつけがなされる。( Wikipedia 最終更新日 2014.01.16)」


投稿者 愉悠舎 日時 2014年3月 7日 (金) 日本散歩 | 個別ページ


2014年4月15日 (火)
見納めた筈だが・・・、造幣局の桜
 12日の土曜日、見納めた筈の桜をまた観てしまった。
 所用でワイフと大阪の十三(じゅうそう)へ行ったついでにワイフを十三に残し、JRの環状線で桜ノ宮まで足を伸ばした。
 造幣局で11日から開かれている「桜の通り抜け」を、大勢の人のあとについて通り抜けた。
 造幣局内の沿道に130種類の桜が美を競い合っている様は華やかでまばゆい。
 後からあとから押し寄せてくる人並みに、じっくり花を観賞する間もなく、時々立ち止まってスマホのシャッタを押すのが精一杯だ。
 数ある桜の中から幾ばくかをスマホに収めることができた。

 噂の「通り抜け」はことのほか体力と気力がいる。

 帰り、大川に架かる源八橋を渡り京橋へ向かう。橋の下をリバークルーズ船が通る。船の上から手を振る異国の観光客に手を振って応える。

 この日、造幣局の桜の通りを通過した人の数は163,570 人(造幣局発表)だった。



投稿者 愉悠舎 日時 2014年4月15日 (火) 日本散歩 | 個別ページ
2014年5月 6日 (火)

舟木一夫コンサート&新世界



 ゴールデンウイークの一日、流行歌を聴くのが好きなワイフのためにと思い、私の小遣いをはたいて手に入れたチケットを持って、舟木一夫のリサイタルを観に、大阪へ出かけた。

 津名港のバスターミナルから三宮へ出て、さらにJR大阪駅の雑踏に揉まれながら、地下鉄の谷町線を使い谷町9丁目で下りる。そこから歩いて上本町にある新歌舞伎座へ。
 近くの中華料理店で昼食をとり、午後一時コンサートの開演。

 舟木一夫が舞台に現れ、軽妙なトークに続き、彼のヒットメロディを歌う頃になると、私の心は揺れはじめた。
 「♪絶唱」、「♪学園広場」に熱いものがこみ上げてきた。胸に迫ったものを手繰り寄せるには未だ時間を必要とするが、同じ時代、同じ時間に、同じ空間を共有してきた者への懐かしさかもしれない。

 哲学的にものを見る彼の姿勢に共感を覚える。
 ナイーブな姿かたちからは想像できない社会や芸能界を斜めに構える舟木一夫に、浮き沈みの激しかった彼の人生を想う。昭和の流行歌は昭和で終わった、はき捨てるように放った彼の言葉が残っている。


 劇場を出て通天閣のある新世界へ向かう。

 ワイフが織田作之助の愛した夕陽ヶ丘を見たいと言うので、夕陽ヶ丘界隈を歩く。

 織田作之助の「木の都」のなかで夕陽丘を次のように語っている。
「夕陽丘とは古くからある名であらう。昔この高台からはるかに西を望めば、浪華(なには)の海に夕陽の落ちるのが眺められたのであらう。藤原家隆卿であらうか『ちぎりあれば難波(なには)の里にやどり来て波の入日ををがみつるかな』」とこの高台で歌つた頃には、もう夕陽丘の名は約束されてゐたかと思はれる。しかし、再び年少の頃の私は、そのやうな故事来歴は与り知らず、ただ口繩坂の中腹に夕陽丘女学校があることに、年少多感の胸をひそかに燃やしてゐたのである。夕暮わけもなく坂の上に佇んでゐた私の顔が、坂を上つて来る制服のひとをみて、夕陽を浴びたやうにぱつと赧くなつたことも、今はなつかしい想ひ出である。(青空文庫)」

 学園坂を下りてくる夕陽丘学園の女学生の笑い声が通りに弾けた。
 機会があれば、足ばやに通り過ぎた寺と坂の街の高台にもう一度佇んでみたい。

20140502c


 日本橋の「でんでんタウン」を突き抜けて通天閣へ。

 ごった煮の大阪のエキスを満喫できる新世界にやってきた。ここもワイフの希望である。
 その昔、子供の頃父に連れられ来た芝居小屋や温泉の残像を追って、彼女は色めき立った。

 私も若い頃、何度かこの界隈をウロウロしたが、この街が放つ猥雑な臭気は健在である。

 ワイフが近辺をうろついている間、私はスパーワールドの階段に腰を下ろし、通天閣を仰ぎ見ながら、遠い昔に還った。

 数多くの粋人たちが行き交った新世界も、今では観光地と化している。観光化しても「俗化」しないナニワの意地をこの街に垣間見る。

 大阪の盛り場を時代で表現するならば、キタは平成、ミナミと十三(じゅうそう)は昭和、そして新世界は大正ではなかろうか。


 串かつが食べたいと言うワイフの希望により、数ある串かつ屋からワイフが選んだのは「串かつだるま」、外から見ると店内は客でいっぱいだったが、待つのを覚悟して店に入った。たまたま席を立つカップルがいたので、そこに座る。
 ワイフの直感は鋭く、あとでこの店は評判の店だと知った。

 串かつ屋の隣からジャンジャン横丁が伸びている。

 「この商店街は1918年開業した飛田遊郭(国鉄のガードをくぐった南側。1958年廃業)と新世界を連絡する道筋として1921年、開通した。・・・当時一級の歓楽街である新世界と花街をつなぐルートとして多くの酔客が出入りし、それを目当てに飲食店や男娼店、淫売店が急ごしらえで造られた。( Wikipedia 最終更新日 2013.10.13)」

 林芙美子の小説「めし」の舞台にもなったジャンジャン横丁は、新世界の原点を今も残しており、通りを歩くと往時の夢に出会う。
 夢を拾いながら次の目的地に向かう。

 ここからは私の出番だ。
 ワイフに一度見せておきたい場所があった。
 「飛田新地」と「釜ヶ崎」

 この先、多くを語らないが、人目を気にしながら二つのエリアを歩いた。
 日本最後の色まち・飛田と日本最大のドヤ街・釜ヶ崎。
 これらの場所で私はシャッタを押すことができない。それでも唯一可能な建物がある。今は料亭の元妓楼・「百番」である。かつて、ここで某忘年会を開いたことがあり、中は廓そのものの姿をとどめ、今は正真正銘の料亭として営業している。


 飛田は百番周辺の面を、釜ヶ崎は阪堺電車の線路に沿って線を歩いた。
 この街を歩いていると、どぎつくて濃くそれでいて優しい、忘れていた人間の匂いが蘇えってくる。

 ワイフは小説や報道でしか知らない世界を目の当たりにして、激しいカルチャーショックに襲われ、呆然自失の態であった。 

投稿者 愉悠舎 日時 2014年5月 6日 (火) 日本散歩 | 個別ページ


2014年10月15日 (水)
宇治平等院


宇治平等院  先月、改装工事が終わった宇治の平等院を訪ねた。
 自然に溶け込んだ朱塗りの建物に千年の重みがのしかかる。
投稿者 愉悠舎 日時 2014年10月15日 (水) メール投稿, 日本散歩 | 個別ページ

2014年10月16日 (木)
都・散策&はるみ
 台風19号が関西を襲った翌日の14日、京都を訪れた。
 宇治の平等院見学が主なる目的であったが翌日の夜、神戸で都はるみ・八代亜紀のジョイントコンサートを観ることにしていたのでコンサートのある15日、時間待ちに京都の街を少し歩いた。

 60年ぶりの大改修工事を終えた平等院の鳳凰堂の全貌を、池を隔てた正面から観た。
 曇天の空に時おり陽が射し、朱色の鳳凰堂が輝く。天気が良ければ手前の池に鳳凰堂が映る。

 いつまで見ていても飽きの来ない鳳凰堂を前に、過ぎ去りし人たちと対話する。

 10円玉の表面に鳳凰堂が描かれている、粗末に扱ってきた10円硬貨をもっと大切にしたいと思わすほど、かたち姿が美しい。
 近年あつかいがメッキリ減った壱万円札の裏面にも鳳凰堂の屋根の上に乗っている鳳凰像が画かれている。

 

 鳳凰堂見学のあと、宇治川のほとりを歩く。
 宇治橋を渡り対岸に「花やしき」を臨みながら、その方向に歩く。発電所から流れる水が宇治川に合流する辺りでアユを釣っている人たちがいる。 産卵のために川を下る落ちアユを狙っての釣りだ。しばらくアユ釣りを眺め、世界遺産の宇治上神社へ。
 宇治上神社は「古都京都の文化財」の一つで、ユネスコの世界遺産(文化遺産)である。
 静寂漂う境内に佇むと、古(いにしえ)の世界に引き込まれる。

 神社を出て山本宣治が眠る善法寺墓地へ、人に尋ねながら住宅地の間をぬって、小高い山の上にある墓所に辿りついた。山本宣治は戦前の政治家、生物学者で労働者・農民のために闘い、右翼のテロに倒れた。病弱だった彼の養育のために親が建てた宇治川畔の別荘「花やしき」は今も健在である。
 「・・・山宣独り孤塁を守る!・・・」墓碑銘が木漏れ日に揺れていた。

 その日、京都烏丸三条の「三井ガーデンホテル」に泊まる。ホテルに外国人の泊り客が多くヨーロッパのホテルに居るようだ。


 翌日、ホテル近くを散策し六角堂、本能寺を巡る。

 六角堂は隣接のビルの何階か忘れたがエレベーターで上がり、六角形の本堂の姿を捉えた。

 六角堂から本能寺へ歩く。
 「敵は本能寺にあり」、織田信長の「無念」に浸った。
 映画好きのワイフが「映画やテレビによく出てくる信長最期の場面や」と、本堂にいたく感心していた。

   本能寺の本堂↓



  駐車場に引き返し東山の山上の「将軍塚青龍殿」へ。
 此処から京都の街が望める。
  鴨川や京都御所が古都に栄華を運ぶ。


 夜、神戸で「都はるみ・八代亜紀」のジョイントコンサートを観る。


 二人の歌声はわれ等の傍らにいつもあった。

 同時代の伴走者でもあった。
 もう一度花を咲かそう、と絶唱する二人の歌声に、胸の奥が熱くなる。
 二人が組んだコンサートは神戸を皮切りに京都へ、そして来年へと続く。

投稿者 愉悠舎 日時 2014年10月16日 (木) 日本散歩, 鑑賞 | 個別ページ