日本散歩・Ⅲ

2011年5月13日 (金)
帰り道


  先週の土曜日、鳥取からの帰り岡山県の新庄村と高梁市の山あいにある吹屋に立ち寄った。米子で一泊した私とワイフは国道181号線を走り、まず新庄村へ。

 鳥取県境の山里の村、新庄はその昔出雲と近畿をつなぐ出雲街道の宿場町として栄えた。町並みに古い家が残り、道の両側は石積みの水路が走り、響く水音の中に鯉が泳いでいる。江戸時代の面影を残す脇本陣が今もその姿を留め、それらを一層引き立たせているのが桜並木である。日露戦争直後の1906年に植えた、「がいせん桜」の古武士然とした立ち姿は辺りを払う。

 「がいせん桜」の案内板に、「明治38年(1905年)12月の村会(村議会)で、戦勝の永き記憶、地方風致を保ち衛生上も利するとして、桜の植樹が議決された。御幸橋より町尻まで200間(360メートル)の長さ、3間(5.4メートル)間隔に、137本の桜が植えられ、がいせん桜とよんで、みんなで守ってきているのです。がいせん桜並木は春らんまんと花が咲き、夏の緑に秋の紅葉、冬は雪の花、となり、四季折々に風情を変えて、旧出雲街道新庄宿の町並みを、美しく引き立てているのです。」

 「がいせん桜」の時季は終わっているが、町並みの傍を並行して流れる川の土手にしだれ桜が咲き誇っていた。

 新庄村は「NPO法人『日本で最も美しい村』連合」に加盟している。


 午後、新庄村を後に一路高梁へ・・・。

 高梁市の山あいにある吹屋は銅とベンガラによって栄えた町である。もうずいぶん昔の話になるが、吹屋の銅山と町並みを訪ねたことがあった。

 ベンガラ格子に鉄さび色の石州瓦それに薄紅色の壁に彩られた町並みの記憶が忘れられなくてとは、ワイフの弁である。

 当時と違って鮮やかなベンガラ色に翳りが見られるが、色あせた分、風格がただよう。

少しばかり観光地化した標高500メートルの山あいの屋なみを写す日陰は、どこかなまめかしい。

 近くに、映画「八つ墓村」の舞台になった広兼邸がある。200年ほど前、銅山の経営とベンガラの原料ローハ(硫酸鉄)製造によって、巨万の富を築いた屋敷は城郭を思わせる。

 吹屋を発ったのが午後5時、岡山自動車から山陽自動車道さらに神戸淡路鳴門自動車道を乗り継いで、帰宅したのが午後10時、この間の高速代2000円なり。

投稿者 愉悠舎 日時 2011年5月13日 (金) 日本散歩 | 個別ページ


2012年4月17日 (火)
石積みのダム


 13日午後、香川県観音寺市の山裾にある豊稔池ダムを訪ねた。
 国の重要文化財に指定されている豊稔池堰堤(えんてい)は日本最古の石積式マルチプルアーチダムである。
 5連のアーチを支える壁の上部に長方形の洪水吐(ばき)を設けている。

 間近でダムを見上げると黒い重厚な石積みの壁が天を突く。

 5連のアーチの見事な造形美、ヨーロッパの古城を彷彿させる城砦にも似た立ち姿、見ていて飽きない建造物の一つだ。

 大正から昭和にかけて造られたこのダムは、日本土木界の誇るべき財産だ。

 日本に2基しかないマルチプルアーチダム、もう一つは仙台市の作並温泉の近くに2連式の大倉ダム(1961年完成)がある。

投稿者 愉悠舎 日時 2012年4月17日 (火) 日本散歩 | 個別ページ


2012年4月19日 (木)
青函連絡船・「羊蹄丸」最後の花道


 新居浜の弟の家に厄介になっている時、甥から青函連絡船が東港に係留していると言う話を聞いた。さっそく出かける。
 青函航路の最後を見届けた「羊蹄丸」は1965年(昭和40年)から1988年(昭和63年)までの間、人々の喜びと悲しみをない交ぜながら津軽海峡を行き交った。
 錆の入ったクラシカルな船体を眺めていると、なぜか古き良き時代への郷愁に駆られる。

 西に宇高連絡船があった。少年時代を四国の瀬戸内沿岸で過ごした私は、本土(本州)への強い憧れがあった。いつかこの海を越えよう!その象徴が宇高連絡船であった。

 用を終えた「羊蹄丸」は東京のお台場に15年間係留されていたらしい。
「東京・お台場の『船の科学館』(品川区東八潮)で昨年九月末に係留展示を終えた旧国鉄の青函連絡船『羊蹄丸』が二十五日、タグボートにえい航され桟橋を離岸、譲渡先の愛媛県の新居浜東港に向け出航した。二十九日正午ごろ同港に接岸し、一般公開後、船舶リサイクルの仕組みを研究するため解体される。・・・」(東京新聞 2012年3月26日付)

 「羊蹄丸」は一般公開後、新居浜高専の手を中心に解体し、循環型社会の構築、鉄資源の確保、CO2排出削減、地域経済の活性化等を目指し、死してなお永く生き延びるらしい。

投稿者 愉悠舎 日時 2012年4月19日 (木) 日本散歩 | 個別ページ


2012年4月20日 (金)
海水の平城・今治城

 4月15日、よく晴れた日だった。

 新居浜の東港で青函航路に使っていた「羊蹄丸」を見学したあと、海沿いに今治へと向かう。途中、櫻井の漆器会館に寄り、今治城に着く。

 初めて観る今治城は想像していたよりも大きくて重厚だ。
 築城の名人・藤堂高虎の考えた城郭を一時間ほど徘徊した。

 今治城の概要をパンフレットから抜粋しておこう。
 今治城とは
 関が原の戦いでの戦功により伊予半国20万石を領した藤堂高虎が、瀬戸内海に面した海岸に築いた大規模な平城。別名吹揚城ともいう。慶長7年(1602)に築城を始め、建造物も含めて完成したのは同13年頃と推測される。海水が引かれた広大な堀や港(船入)などを備えた日本屈指の海城であった。寛永12年(1635)より松平(久松)氏の居城となった。明治維新後に建造物のほとんどが取り壊され、内堀と主郭部の石垣を残すのみとなった。昭和28年(1953)に県指定史跡。昭和55年(1980)以降、主郭部跡に天守をはじめとする櫓、門などの再建が進み、雄大な城郭の姿を見せている。(日本第一の海城 今治城 より)

投稿者 愉悠舎 日時 2012年4月20日 (金) 日本散歩 | 個別ページ


2012年10月 7日 (日)
コスモスの咲く古刹・般若寺


 ワイフは先週に続いて奈良詣で。
 孫たちの運動会が小学校で行われた先週。
 今週(6日)は幼稚園児の孫の運動会。
 私たちはいそいそと奈良の天理へ車を走らせる。

 帰路、奈良の般若時へ立ち寄る。
 般若時はコスモス寺と呼ばれ、この時期多くの人で賑わっていた。
 境内に咲き乱れるコスモスの合い間に点在する多くの句碑、その中に我が故郷の俳人・正岡子規の句碑も秋桜に寄り添っていた。

 秋風に揺れるコスモスの傍らに佇めば、いにしえの都の風が吹いて来る。

 - コスモスの 花あそびおる 虚空かな - 虚子

 コスモス寺・般若寺
 「・・・いにしえの奈良山を越えるところ、奈良坂の古道にそって立つ般若寺は、飛鳥時代高句麗僧慧潅(えかん)法師によって開かれた。
 都が奈良に遷って天平七年(735)、聖武天皇が平城京の鬼門を守るための『大般若経』を基壇に納め塔を建てられたのが寺名の起こり、そして平安の頃は学問寺として千人の学僧をあつめ栄えたが、治承四年(1180)平家の南都攻めに伽藍は灰燼に帰した。鎌倉時代に入って廃墟のなかから、十三重石宝塔をはじめ七堂伽藍の再建が行われ寺観は旧に復した。
 ・・・般若時はその後、室町戦国の兵火、江戸の復興、明治の廃仏毀釈と栄枯盛衰を経ながらも、真言律宗の法灯をかかげ今に至っている。
 また当寺は『平家物語』や『太平記』『宮本武蔵』など文学の舞台としても知られ、古都の風情をよく残している。・・・」(般若時パンフレットより)


投稿者 愉悠舎 日時 2012年10月 7日 (日) 日本散歩 | 個別ページ


2013年3月25日 (月)
東洋のエーゲ海・小豆島


 先週の金曜日、所用で四国に行った帰り、小豆島に立ち寄った。
 ワイフは二度目、私は初めての訪問である。
 高松からフェリーで土庄港に着いたのが夜の八時前、そこから二十分ほど走り予約してあったログハウスの宿に無事到着。
 翌日、大阪城残石記念公園に始り、岬の分教場、二十四の瞳映画村、オリーブ園、重岩、そして最後はエンジェルロードと駆け足の一日であった。


 最後に訪れたエンジェルロードは弁天島、中余島、小余島、大余島をつなぎ、その間に潮の満ち引きにより現れたり消えたりする砂の道である。
 それは、~海が割れるのよ♪ 道ができるのよ♪ 島と島とがつながるの♪~と、歌われた珍島(チンド)の海割れのようだと言われ、自然の織り成す不思議な光景を見に、引き潮の時間になると遠くから人々がやって来る。
 「道の真ん中で手をつないだカップルは結ばれる」と言われている「天使の道」は、そのせいか、若いカップルの姿が目立ち、私たち老カップルには場違いなところに迷い込んだものだと思わせるが、それでも手をつないで天使の道を歩く若いカップルたちの姿に、ほのぼのとしたすがすがしさを覚える。

 たった一日の旅であったが、また来たいと思わせる小豆島である。 

 



投稿者 愉悠舎 日時 2013年3月25日 (月) 日本散歩 | 個別ページ

 

 


2013年4月 5日 (金)
二十年に一度の三ツ山大祭(姫路)


 初夏を思わせる陽気の中、ワイフと二十年に一度開かれる播磨国総社の「三ツ山大祭」の観光に出かけた。
 大天守保存の工事が行われている傍で500年に渡り続いている古式を観た。

 大祭のシンボルは神門前に設置されている「置き山」、高さ18m、底部の直径が10mあり、青と白の布を巻いた「二色山」、青・黄・赤・白・紫色の「五色山」、それと色とりどりの着物を貼り付けた「小袖山」を人々は仰ぎ見て感嘆する。
 その昔、人々は美しい「山」の姿に神が降臨すると考えた。
 1522年(大永二年)、播磨国守護の赤松晴政が現在の形を整えたとされている。

 街中には60年ぶりに復活した「弁慶、書写山円教寺」、「池田輝政の白鷺城」など10基の造り物」が点在し、祭りに彩を添えている。

 私と同じぐらいの年恰好をした初老の男性が話かけてきた。「姫路に住むようになったあくる年に大祭が行われた。40年前のこと、今日で3回目、20年後もう一度観たい」、私は「元気で頑張ってや」と言って別れた。


播磨国総社
 射楯兵主神社(いたてひょうずじんじゃ)、兵庫県姫路市にある神社。播磨国総社で播磨地域では濁らずに「そうしゃ」、「そうしゃさん」と呼ばれる。社格は、武内小社、県社。姫路城の中曲輪内に位置する。60年に1度の一ツ山大祭、20年に1度の三ツ山大祭が有名。(Wikipedia 更新日 2013年2月12日)


投稿者 愉悠舎 日時 2013年4月 5日 (金) 日本散歩 | 個別ページ


2013年7月31日 (水)
よく似た建造物


 三宮のターミナル前の大きな通りを海に向かって歩き、阪神高速の高架をくぐると、クラシカルな建物が見えてくる。
 神戸税関は日本の玄関番として、1927年(昭和2年)に建てられた。
 日本帝国の力を誇示するために建てられたので、威風堂々としている。
 税関の先に第三突堤が、その左に第四突堤(現在の新港第四突堤)があり、外国からの船はこのあたりに多く集積した。
 横浜がアメリカ航路で栄えたのに対し、神戸はヨーロッパ航路をその中心としたので、神戸・阪神間はヨーロッパモダニズムの影響を受け、それが神戸モダニズムへと発展していった。
 神戸税関は阪神・淡路大震災で大きな被害を受け、1998年(平成10年)に改築された。
 建築家・矢橋賢吉(1869年~1927年)氏が関わったと言われている神戸税関に似た建物が皇居前にあった。桜田門のそばに矢橋賢吉氏の案がそのまゝ採用されたと言われている旧警視庁がある。
 この建物は神戸税関をモデルに建てたとされている。
 旧警視庁は神戸税関に4年遅れての竣工である。竣工時、氏は既にいない。

 東京の上野駅に似た駅が中国にある。上野駅よりひと回りもふた周りも大きい。広大な中国大陸にふさわしい大きな駅舎が大連駅である。
 上野駅をモデルとし、1903年(明治36年)1月に営業を開始した大連駅は、日露戦争後の1906年(明治39年)に設立された日本の国策会社・南満州鉄道(満鉄)の中心駅として、日本帝国の「繁栄と崩壊」を一身に負った。
 日本にも上野駅をモデルに造られた駅がある。北海道の小樽駅がそれである。

 似たものついでにもう一つ。
 オランダにアムステルダム中央駅がある。1889年(明治22年)に開業した中央駅と1914年(大正3年)に開業した東京駅が2006年(平成18年)4月11日、姉妹駅になった。
 2006年4月、私はオランダを旅していたので日にちまで覚えている。
 東京駅は中央駅をモデルに造ったとの噂もあったがそうではなく日本帝国の威信をかけて、アムステルダム中央駅を凌ぐ立派な駅を首都東京に建てようと、建築家・辰野金吾(1854年~1919年)氏らが奮闘したらしい。だから、結果として東京駅がアムステルダム中央駅に似るのは仕方がない。
 ヨーロッパの駅に多いが、アムステルダム中央駅にも改札口がない。したがって、切符なしでホームに上がり、列車に乗れる。ただし、車内で検札がある。

 辰野金吾氏の作品が神戸にもある。JR元町駅からJR神戸駅にかけての元町通りの海側に、かつて「東洋のウオール街」として賑わった栄町通りがある。
 この通りに市営地下鉄の「みなと元町駅」がある。ここは旧第一銀行があった場所だ。
 第一銀行神戸支店は1908年(明治41年)に辰野金吾氏がデザインした。

 今、第一銀行の建物は外壁を残したまゝ駅舎として生まれ変わり、道行く人や、駅を利用する人たちを一世紀前にいざなう。

投稿者 愉悠舎 日時 2013年7月31日 (水) 日本散歩 | 個別ページ


2013年8月22日 (木)
剣山



 まだまだ暑いきのう、深田久弥の「日本百名山」の一つ、四国の剣山に登った。

 登ったと言っても車と登山リフトを乗り継いでの山登りであり、自分の足を使ったのは片道一時間ほどだ。チョットしたハイキングの趣。

 四国で石鎚山は荒々しく峻険だが、剣山はたおやかで柔肌だ。

 剣山への主なルートは三つあり、この日選んだのは貞光ルート。

 登山途中、雨が降ってきた。ほどよい湿り気を残し雨雲がいずこかへ消えると、陽が差し汗が躰にまとわり付くが不快感はない。

 下界の国道脇の温度標示板は33℃を標示していたが、頂上付近は20℃を割っていただろう。
 時々雲の合間から青空が覗いていたが、ほゞ終始曇り空。
 360度のランドスケープは望めないが、天然クーラーの中、2時間ほど山頂付近で避暑に浸った。
 秋から冬にかけての、空気が澄み切った時期だと思うが、ここから石鎚山や伯耆大山も望めるらしい。

 帰りは来た道を少し逸れて「下山道」を降りる。この道に平家落人伝説の水場があり、またその前後がガレ場になっており、落石もある。私たちのような運動靴では少し危険が伴う。

 剣山は手軽な山として知られているが2000m級の山だ。コースによっては「登山」の覚悟もいる。

 登るときには気が付かなかったが、下山道に妖しい容貌をたたえた紫色の花の群生を見つけた。近寄ってパチリ、パチリ。
 後で分かったが、毒性を有するトリカブト。

 下界に降りてくると、ムッとした不愉快な暑さが戻って来た。
 それにしてもワイフは元気だ。

 

 

 

 

 

投稿者 愉悠舎 日時 2013年8月22日 (木) 日本散歩 | 個別ページ


2013年9月29日 (日)
藤原京跡のコスモスと本薬師寺跡のホテイアオイ


 小学生の孫たちの運動会を見に天理へ行った帰り、ワイフの提案で藤原京(藤原宮)跡に咲くコスモスの花を観に行った。

 藤原京は飛鳥の西北、奈良県橿原(かしはら)市に在り、日本で最初で最大の都城である。
 ここに来て、まず目についたのが万葉集の有名な歌、「春過ぎて 夏来たるらし 白たへの 衣干したり 天の香具山」。
 「かぐやま」はどの山か?
 藤原京そばの橿原市藤原京資料室ビルの前庭から、藤原京跡と背後の山なみを撮っていると、仕事を終えた資料室の人とおぼしき方が出てきたので、「香具山はあの高い山ですか?」と問うと、「手前の低い山」と言われた。その一言をきっかけに、その人から藤原京や大和三山について詳しく説明してもらった。
 お礼を言って別れ際に、「本薬師寺跡(もとやくしじあと)のホテイアオイが見ごろ、観てかえるといい」と言って、道順を教えてくれた。

 藤原京跡から南へ1キロほど走り、道なりにさらに西方へ1キロほど行くと本薬師寺跡に到着。
 本薬師寺跡は奈良市の西の京にある薬師寺のもとの寺で、藤原京から平城京に遷都したとき一緒に移った。
 寺跡一面に広がるホテイアオイ園に咲く白い花、バックに大和三山の一つ畝傍山(うねびやま)が薄日を浴びている。
 私とワイフはこの光景にいたく感動した。
 ホテイアオイはアメリカ原産の水草で、茎の根元が膨らんで池に浮いている。花は朝咲いて夕にしぼむことがあり、今日咲いていても、明日は咲くかどうか分からないらしい。
 白に覆われた花園を目の当たりに出来たのはラッキーだ。
 見学者の誰かが「布袋さんの膨らんだおなかに似てるからホテイアオイと言う名がついた」と同道者に説明していた。そう言えばホテイアオイは「布袋葵」と書く。

  ここ橿原市は私の「卓球と陸釣りの師匠」が住む町でもある。過日、橿原神宮へ立ち寄った話を師匠にすると、「何で家へ寄ってくれなかったんや」と言われたので、このまゝ帰るわけに行かないが、時間も遅い。
 声をかけずに帰るが、この話をすると、また何か言われるだろう。(神戸にて)

投稿者 愉悠舎 日時 2013年9月29日 (日) 日本散歩 | 個別ページ