日本散歩・Ⅱ


阿蘇の秋色


 4日、長崎から長崎IC→鳥栖IC→熊本ICを乗り継いで阿蘇の内牧温泉へ、翌5日阿蘇周辺をドライブ、秋色に染まる阿蘇を堪能した。

 雄大な阿蘇の景色を観ていると、ちっぽけな生き方にきゅうきゅうとしてきた身を恥じる。
このような想いに駆られる地点を日本でほかに知らない。それは牧歌的な景色の内側に暮らす人々の匂いが、枯野に佇む私に向かって、濃い秋風に乗って漂ってくる精かもしれない。

 冬に向かう景色の中で、ススキの穂が目に痛い。

 

 


投稿者 愉悠舎 日時 2006年11月 7日 (火) 日本散歩 | 個別ページ


越前海岸


 石川県に近い福井県の温泉地へ車ででかけた。有馬街道を北進し、中国自動車道の西宮北インターから有料道路に入り、吹田JCTから名神を経て北陸自動車道を通り金津インターで降りた。インターから20分ほどで目的地に着いた。
 このところ寒い日が続いており、雪化粧に映える北陸路を期待したが、雪野原は出現しなかった。

 帰りは越前海岸から敦賀に向かった。途中、水仙が名残の花を咲かせている。この地方で水仙を雪中花と呼ぶ。
 敦賀から高速道路に乗らず小浜へとハンドルを切る。原発銀座を右手に見ながら舞鶴自動車道へと急ぐ。

 岩肌を洗う波しぶきの越前海岸を見ていると、内奥に秘めた暗い情念のほとばしる、水上勉の世界を想起する。


 

 

 

投稿者 愉悠舎 日時 2007年3月22日 (木) 日本散歩 | 個別ページ


名残の「ぼたん花」


 奈良県に住む娘夫婦に三人目の子が生まれた。そそくさと出かける準備をし阪神高速から西名阪を車で走り天理へ行った。

 7日早朝に生まれた子と初対面のあと桜井にある長谷寺を訪ねた。ちょうどこの時期長谷寺は「ぼたんまつり」でにぎわっていた。開催期間は4月21日(土)から5月13日(日)なので花も散りはじめていた。それでも春を惜しむ牡丹の花が、屋根つきの長い回廊の両側で名残の美を競っていた。

 奈良県の桜井市にある長谷寺は西国三十三ヶ所霊場第8番札所で、真言宗の豊山総本山でもある。

 長谷寺は「花の寺」としても有名で四季折々の花木が境内にあふれ、訪れる人にひとときのうるおいを与えている。
 少し前の桜、今の牡丹が終わると、まもなくこの寺に紫陽花の季節がやってくる。

 長谷寺の本堂は舞台造りと呼ばれる建築様式で東大寺に次ぐ大きさを誇っている。京都の清水寺に匹敵する広くて高い外舞台があり、ここから広い境内を見渡すことができ壮観な風景を呈している。
本堂には、くすのきで造った10メートル余りもある木造の仏像が立っている。
 この仏像は右手に錫杖と念珠、左手に蓮華をさした水瓶を持ち、平らな石の上に立つ独特な姿をしており、長谷寺式十一面観音と呼ばれている。

 名刹、長谷寺は近鉄大阪線長谷寺駅を下りて徒歩15分のところにある。

投稿者 愉悠舎 日時 2007年5月 9日 (水) 日本散歩 | 個別ページ


駆け足のマッチャマ(松山)


 家族の一員「ジュン」を預けに新居浜へ行った。17年前、生まれて間もない柴犬を貰ってきた。柴犬の母と父親のわからない犬の間に生まれた四匹のうち、甘えん坊のため最後に残ってしまった一匹が我が家にやってきた。大震災のとき、一日中全身で震えていた。ある日私が外出からの帰り、遠くから車のあとを追ってくる犬がいた。つないでおいた紐をちぎって外出していた「ジュン」だった。ジュンという名は当時放映されていたテレビドラマ「北の国から」の主人公の名を娘が甘えん坊に冠した。甘えん坊は今も甘えん坊である。三ヵ月半の別れに堪えれるか少し心配だ。
「ジュン」の様子に異変があれば直ちに駆けつけるということで、その日は四国にとどまることにした。「ジュン」と同じ屋根の下に居たのでは意味がないと思い連れ合いと二人で松山へ行った。

 松山について、大街道近くのホテルにその日の宿を求めた。夕食を大街道でとった帰り際、店の女将に大街道の昔ばなしを聞けた。女将は「あなたのおっしゃっている店はここ?」と、言って大街道にまつわる雑誌を持ってきてページをめくった。戦前の街の様子を画いたイラストマップがあった。私は無理をいって、その部分をコピーしてもらった。
 大街道は四国随一の繁華街である。その通りの一角に私の祖母の兄夫婦が暮らしていた。マップには「まなべ三味線」とあるが、私の母は「真鍋の楽器屋」と言っていた。 このマップに画かれた時代、女学校を出た母はここで花嫁修業をした。私がここをはじめて訪れた頃、「まなべ三味線」はもうなかった。楽器店を閉じ、他人に店を貸し、夫婦は二階で暮らしていた。高校時代、新居浜から大街道まで自転車を漕いだ。今は高速道路が走る「桜三里」と呼ばれる難所を越え、大街道を目指した。子供のいなかった母の伯父夫妻は満面に笑みを浮かべ私を迎えてくれた。夫妻が亡くなったあと、店は人手に渡ってしまった。
 店を出て再び「まなべ三味線」の前に立った。店内の様子は往時と比べようもないが、店の右側にある階段は確かにあのときの階段のまゝだった。この階段を昇り、窓に腰をかけ手すりにもたれ、今もある隣の服部時計店の、大きな時計を横目に、通りをながい時間見ている私がいた。

 翌日、車をホテルに置いて最近オープンした「坂の上の雲ミュージアム」に行った。正岡子規らを通して、日本資本主義の揺籃期を描いた司馬遼太郎の同名小説から名前をとったミュージアムは松山のまち全体を「屋根のない博物館」に見立てる機軸としての役割を負って誕生した。
平日にもかかわらず館内は多くの人で賑わっていた。司馬遼太郎や正岡子規に傾倒する人の多いのに驚いた。

 昼食後、城山の北へ車を走らせた。愛媛大学の近く、千秋寺に先祖代々の墓がある。伊予松山藩に禄をはんだ下級武士の末裔である私は、今ある自分の血を思い墓前にこうべを垂れた。

 千秋寺の近くにロシア人墓地があるので足を伸ばした。ここは日露戦争で捕虜になったロシア人が眠っている。松山で生まれ育った祖父は21歳のとき志願して陸軍要塞砲兵射撃学校に入校した。退役後再び召集され、日露戦争時松山俘虜収容所の任に就いている。捕虜となったロシア兵士たちとの交流がその後の祖父の人生を決めた。
 この地を最期とした98名のロシア兵士の墓は故国ロシアを向いて建っている。

 城山麓最後の目的地「一草庵」を訪ねた。民家のあいだを縫って坂を上り詰めたところにひっそりと陽を浴びて佇んでいた。漂白の俳人・種田山頭火、終焉の地である。放浪の身に「庵」は不自然であるが、友人の好意によりここで10ヶ月を過ごした山頭火の甘えを想うと何故か切ない。《うしろすがたのしぐれてゆくか》、私の好きな一句である。

 高速道路へ入る手前に、この5月15日にオープンした「伊丹十三記念館」がある。国道33号線の脇にある記念館に立ち寄った。伊丹十三は亡くなるまえ、外国で映画を撮るための金を蓄えていた。女優の宮本信子はその金を使って夫・伊丹十三ゆかりの地・松山に十三への想いをこめて記念館をオープンした。
 黒い建物の中で、伊丹十三が眉間にしわを寄せていた。

 高速道路の途中で、「ジュン」の様子をきいた。大した問題もなさそうなので少し安心した。フロントガラスの向こうに瀬戸の海が広がっていた。

投稿者 愉悠舎 日時 2007年6月 7日 (木) 日本散歩 | 個別ページ


道頓堀の今


 10月4日土曜日、
 娘の家族が暮らす天理のマンションで目を覚ます。 幼稚園に通う二人の孫の運動会に付き合ったあとマンションを出る。天理駅から近鉄電車で難波駅へ、駅の構内をウロウロするもののすっかり地理を忘れてしまっている。実は道頓堀に近い出口を探していたが、方向音痴の上に久しぶりの「ミナミ」に戸惑った。仕方なく御堂筋に出て、一方通行の車の流れ方向で南北の方角を定める。



 何年ぶりだろうか、少なくとも5年はこの場所に足を踏み入れていない。戎橋からみる道頓堀の風景も人も大きく変貌していた。戎橋は橋と言うよりも広場の雰囲気に近い、橋の上を流れる人やたむろする人は、やたら観光客や外人が目に付く。あの頃、この種の人たちを殆んど見かけたことがなかった。道頓堀の看板はよりドギツさを増し、屋台風な店も増えた。

 人はここを「ソエモンチョウ」と呼ぶ。「宗右衛門町」の変わり様は悲しい。道頓堀川の北側の通り、宗右衛門町を御堂筋側の西詰から堺筋まで歩いた。夕暮れの通りを、小股の切れ上がったホステスが、襟足のほつれ毛を掻き揚げながら職場に急ぐ宗右衛門町はなかった。しっぽりと濡れた宗右衛門町は消えていた。今ここに有るのは雑貨を売る店やカラオケ店、そして怪しい店の数々・・・。この通りまでも、なぜ「俗化」するのか、心の隙間に風が吹き込む。


 気を取り直して法善寺横丁を歩いた。打ち水をされた石畳の上を、若いカップルが手をつないで歩いていた。ほのぼのとした横丁の風情が聴こえてきた。

投稿者 愉悠舎 日時 2008年10月 6日 (月) 日本散歩 | 個別ページ


四国村


 昨日、家具の調達に高松へ行った帰り、屋島に立ち寄った。屋島ドライブウェイの入口のところに「四国村」という観光施設があった。屋島へのドライブをあとに延ばし、一人800円の入場料を払ってワイフと「四国村」の見学をした。

 キャッチフレーズに「来たことのある、初めての場所」とある。

 「四国村」は四国各地から古い民家を集め再構築し、往時の生活を偲ぶもので33棟が5万平方mの敷地に点在している。また、四季の花々やかづら橋が再現されており、四国の自然と風物も楽しむことができる。

 「四国村」から少しだけ私の目を引いたものを画像にした。

 写真の上段は三原瀬戸航路を照らした大久野島燈台、1894年(明治27年)の点灯。その横は旧江埼燈台退息所、明石海峡を望む淡路島の北端にあったが阪神・淡路大震災で大きな被害を受け当地に移築復元された。1871年(明治4年)に建設された石造り建築。

 下段の写真は高知和紙の原料である楮(こうぞ)を蒸した釜、徳島の漁民が使っていた漁船、サトウキビの汁をしぼった砂糖しめ。

 「四国村」の出口に場違いな建物があった。神戸から移築された異人館に見送られ屋島へ向かう。


 「四国村」を出て、屋島をドライブし、高松中央ICに向かった。

 高松ICから洲本ICまで1時間、「四国は近くなりにけり」だ。


投稿者 愉悠舎 日時 2009年3月 1日 (日) 日本散歩 | 個別ページ


ゴールデンウィークの空に咲く
 4月29日、神戸から三つの花園を車で訪ねた。いづれも兵庫県内にあるので一日で充分回れた。山陽自動車道の神戸西ICから入り、龍野西ICから今度は13kmほどの播磨自動車道に移り、終点の播磨新宮ICで降りる。播磨自動車道は日本で一番交通量が少ないらしいが、噂にたがわずすれ違った車は1台も無かった。地道を20分ほど走り、 先ず行ったのが萬勝院、通称09042903 「ボタン寺」、寺から少し下がった平らな場所を駐車場にしているが500円の駐車料金を払わされた。それに入場料大人500円払って院内に入る。寺の前に牡丹が後ろの寺院に融けこんで映えていた。萬勝院の背後は遊歩道になっていて、ここにも牡丹が植えられているが身頃は何年も先になるだろう。

 寺の裏に咲く牡丹を見下ろせる場所で、コンビニで買った弁当をワイフとついばむ。

 次は車で北上し、「しゃくなげ園」に向かう。中国自動車道の高架をくぐり、平福の「道の駅」にて所在を確認する。北へ1.5kmの田園の中に「シャクナゲ園」はあった。入場料600円を払い園内に入る。09042902 斜面一杯に咲く色とりどりの石楠花に私たちは大満足。150種1万5千本は見事だ。

  最後は「千年藤」を訪ねて、作用ICから山崎ICまでハイウェイを使う、山崎ICから少し北へ行くと大歳(ださい)神社に着いた。近くの駐車場に車を止め境内に咲く千年藤を観賞する。ここは駐車場も境内に入るのも無料である。千年を経た藤は境内の四方に伸び、その広さは420㎡にも及ぶ。藤の下のベンチに腰を掛けしばしその美しさに見とれる。ちなみに我が家の家紋は「上り藤」。

 再び山崎ICに戻り中国自動車道に乗る。吉川ICで降り神戸の自宅にたどり着いたのが夕暮れ時、少し疲れた。


投稿者 愉悠舎 日時 2009年5月 7日 (木) 日本散歩 | 個別ページ


野良時計のある町


 土佐の高知は今「龍馬ブーム」に沸いている。新居浜へ墓参りに行ったついでに、ワイフが安芸にある「野良時計」を観たいと言うので足を伸ばした。南国ICで降りて高知市と反対方向に40分ほど行くと安芸市に着く。三連休のためか、それとも「ブーム」のためか、なかなか宿が取れなかった。ようやく見つけたビジネスホテルに泊まって、翌日(22日)「野良時計」を観に行く。
 時計台と言えば札幌を思い出すが、安芸の時計台もこれはこれで風情がある。菜の花畑を通して観る時計台は和風の民家に溶け込んで、どこか懐かしい。

 野良時計の近くに武家屋敷町がある。ここは家並みを覆っている民家の塀に趣きがあって見ていて飽きない。中でも手入れの行き届いた笹垣に、ここに暮らす人たちの自負を想う。

 野良時計に個性的な垣根いい物を見せて貰った。満ち足りた気分で室戸岬に向けて車を走らせた。

 「野良時計」の前に次のような文字を刻んだ銅版が設置されていた。

 「まだ家ごとに時計がなかった頃、土地の地主であった畠中源馬は、時計に興味を持ち、アメリカから八角形の掛時計をとりよせ、それを幾度も分解しては組み立てして時計の仕組みを覚え、自作の大時計を作ることを思いたった。
 分銅も歯車もすべて手作りで、一人で作りあげた。明治二十年頃のことである。以後、百二十年以上もの間、時を刻み続けたこの時計は、今も周辺の人々に『野良時計』として親しまれている」

 


投稿者 愉悠舎 日時 2010年3月23日 (火) 日本散歩 | 個別ページ


三朝温泉郷
 行きたいと思いつつ、機会に恵まれなかった三朝温泉へ、先週の木、金の二日間ワイフのお伴をした。三宮発着のバスツアー客に紛れて二日間を楽しんだ。

 途中、蒜山高原に立ち寄る、雪原の別荘地に人の足跡は聞こえてこない。

 大山を望みながら境港(さかいみなと)へ、水木しげるロードなる一帯に連れて行かれ通りを往復する。道の両側にぎっしりと並んだ観光客相手の店々、「鬼太郎」に頼る「テーマパーク」のような町並み、ブームが去った後、ここの人たちはどのように対処してゆくのだろう、人ごとながら気になる。

 川の両岸に温泉宿が立ち並ぶ三朝(みささ)温泉、私が好む温泉宿は窓を開ければ川のセセラギが見えて聞こえ、それに湯煙が漂えばこれにすぐるものはない。三朝温泉は私の想いに応えてくれた。夕食はおそらく今年最初で最後になるであろう「蟹料理」にありつく。

 翌日、山陰の小京都と呼ばれる倉吉の古い町並みを散策し、鳥取砂丘へ、冬枯れの砂丘に見るべきものは何もない。

 最後は但馬の小京都・出石(いずし)へ、この町のシンボル、出石城の傍にある辰鼓楼は高さ20mもある。

 それにしても、日本には「小京都」を冠する町が多い、彼らは「小京都」を標榜することに何らかのメリットを感じているのだろうか?、北陸の金沢市は「全国京都会議(記1)」を2009年脱退した。

 今回訪ねた山陰路は三朝温泉を除いて幾度も足を踏み入れた場所ばかりだが、行くたびに何かが少しずつ変わっていっているように思う。

記1;「全国京都会議」とは1985年(昭和60年)に全国の小京都をはじめ、京都ゆかりの市町と京都市が立ち上げた組織


投稿者 愉悠舎 日時 2011年2月28日 (月) 日本散歩 | 個別ページ


秋行・プラン1・秩父事件を訪ねて
 昨年、淡路に来てくれた友人たちの間で草津温泉行きが決まった。軽井沢周辺をよく知る?いや、暇を持て余している私に旅程の計画が回わってきた。

 そこで、「秩父事件」の足跡を訪ねる旅もその一つに加えてやろう。「秩父事件なんて知らんわ」と言って即座に蹴られるかもしれないが、それでもどこかに立ち寄ってやろう、二十年ほど前になるかなあ、何日もかけてかの地を巡り歩いた頃、婦人層の間で秘かに「秩父事件」が広がった。今回の旅の半数は婦人なので賛同を得るのも、た易いかも知れない。

 昨年、「坂本竜馬」のブームに沸いたが、今の日本社会を考える場合、その出発点を明治維新に置くよりも、維新から17年経た「秩父事件」に求めるほうが、分かりやすいと私は考えている。

 当時、自由民権運動に加わっていた人や秩父の有力者を中心に結成された「秩父困民党」はデフレ不況に苦しむ農民を救うため、増税反対、借金の猶予等を求め立ちあがった、近郷近在から3000人を超える民衆が吉田の椋神社で決起集会を開く。秩父地方を制圧した困民党は「自由自治元年」を名乗った。その報を知った明治政府は警察・軍隊を送り込んで鎮圧する。敗走を重ねた困民党は八ヶ岳の麓、信州の馬流(まながし)に散る。

 「秩父事件」を扱った映像作品に1980年(昭和55年)のNHK大河ドラマ「獅子の時代(脚本・山田太一、主演・菅原文太)」、2004年、映画「草の乱(監督・神山征二郎、主演・緒方直人)」などがあり、また「秩父事件」の研究者には歴史家の色川大吉氏など多数いる。


投稿者 愉悠舎 日時 2011年3月 6日 (日) 日本散歩 | 個別ページ