3/4Around the World Cruise (Real Time)

2007年7月16日 (月)
 7月14日、シチリアの夏

 7月14日(土)
 午前10時、カタニア(イタリア)へ入港した。
 長靴のようなと習った、イタリア半島のつま先に乗りかかるようにシチリア島がある。シチリア島は四国より少し大きい三角形の島で、地中海に浮かぶ島の中でもっとも大きい。
 シチリア島は紀元前の昔からさまざまな民族に支配され、その夢の跡が遺跡として、また外敵から 人と町を守るため、丘の上に固まって建てられた集落が今に残る歴史の島である。
 カタニアの近くにエトナ山がある。エトナ山は標高3323メートルの活火山で、裾野が広く対称の形をした美しい姿が印象的だ。
 私たちは入港後「アグリジェント観光」に向かった。バスで島の中央部を2時間半かけてアグリジェントに到着した。
 ここは「神殿の谷」と呼ばれ、シチリアを訪れる人々の熱い視線を浴びている。
 「神殿の谷」を訪れる前に昼食をとった。昼食にたっぷり時間をとるイタリア文化に日本人は時間を持て余す。長い時間かけてランチを済ませたあと、レストランの庭から地中海を撮った(写真左)。やわらかな海の色が太陽のもとに映えた。
 「神殿の谷」を訪ねる。紀元前に建てられた神殿群のうち、ヘラ神殿、コンコルディア神殿、ヘラクレス神殿などを歩いて廻った。ユネスコ(UNESCO)のマークはコンコルディア神殿の正面(写真は正面の反対側から撮影したもの)を図案化したものである。
 観光後、来た道を再びバスに揺られる。シチリアの高原地帯のあちこちで野焼きが見られる。エトナ山が来るときと同じ表情で迎えてくれる。カタニアの市街をバスの窓から見学する、土曜日の繁華街は人で埋まっていた。商店街の軒先で小商いの黒人の男たちがすばやく店じまいをした、官憲の手入れである。ここはアフリカに近い、先ほどまでいたアグリジェントとチュニジアの間は160キロしかないとガイドが言っていたように思う。法の外に、生きる糧を求める人々がここにもいる。

 今は7月16日、おとといの日記を書き終えた。昨日、息子たちが走ったマラソンの報告会が7階フリースペースで行われた。
マラトンからアテネまで地図をたよりに走った9人のうち息子を含む殆どがマラソンの未経験者、それも本番の少し前に走ることを決め、船内のスポーツジムで数日体を動かしただけで、彼ら彼女らは炎天下のマラトンを、車の排気ガスが充満するアテネの街を走った。マラソン経験者は別にして、この一見無謀とも言える挑戦に拍手を送りたい。

 もやがかかって見えないが、左舷の向こうはアルジェリアの地である。
 ―♭ここは地の果てアルジェリア どうせカスバの夜に咲く・・・♭―、昔聴いた歌が口をつく。―♭明日はチュニスかモロッコか・・・♭―、明日はモロッコ沖を通る。

(現地時間7月16日14時00分、日本時間7月16日21時00分 地中海にて)
投稿者 愉悠舎 日時 2007年7月16日 (月) Around the World Cruise (Real Time) | 個別ページ


2007年7月18日 (水)
 7月17日、ジブラルタル海峡通過

 7月17日(火)
 これがうわさのジブラルタル海峡だ。
 地中海から大西洋に向かうとき狭く短い海峡を通る。
 「アフリカ大陸とヨーロッパ大陸が対峙し、かつ大西洋と地中海の境に位置しており、古くから地理的・戦略的に重要な拠点となってきました。イベリア半島側にあるジブラルタルの岩山と、北アフリカ側のスペイン領セウタにあるアビラ山の二つを『ヘラクレスの柱』と呼び、古代地中海世界ではここが世界の果てであり、その先に進むと深淵に落ち込むと考えられていました。」(船内新聞 言ノ葉 第39号 文・ジャパングレイス 2007.7.17)
 昼過ぎ、ジブラルタル海峡を航行する。
 最も狭いところで幅24キロ?の海峡を挟んで構える二つの岩山、風速20メートルはあろうかと思われる強い風、デッキに立ちカメラを構えるがうまく写真が撮れない。
 ジブラルタル海峡が天然の要塞として人の行く手を阻んできた歴史を実感する。
 この場所に奪った土地への執着をうかがわせる飛び地が、植民地時代の残骸として残っている。地図を見るとアフリカ側はモロッコ、ヨーロッパ側はスペインである。さらによく見ると地中海からみて海峡の入り口のモロッコの中にセウタというスペイン領が、スペインの中にジブラルタルというイギリス領が点在している。
 つわものどもの夢の跡は思ったより迫力があった。

(現地時間7月18日12時、日本時間7月18日19時 大西洋上ポルトガル沖にて)
投稿者 愉悠舎 日時 2007年7月18日 (水) Around the World Cruise (Real Time) | 個別ページ


2007年7月19日 (木)
 7月19日、ちょっと一息

 7月19日(木)
 17日のブログに「スペインの中にジブラルタルというイギリス領が点在している。」と書いたが、2002年に両国の「共同統治」になっている。訂正してお詫びします。

 現在午後2時前、本船はスペインの沖合いを東に航行中である。大西洋だというのに全く揺れはない、穏やかな船旅である。
 明日の早朝にビルバオに入港する予定である。ビルバオはピレネー山脈の西方に位置し、フランスに近い人口40万人ほどの都市である。ビルバオは1300年に造られた都市で、古くからバスク語を話すバスク人が住み独自な文化を形成している。
 ビルバオの街並みをマドリッドよりも美しいと言う人も多い。

 今日は勝手につけた「休息日」、家族の写真でも掲載します。

(現地時間7月19日14時、日本時間7月19日21時 大西洋上ビスケー湾にて)
投稿者 愉悠舎 日時 2007年7月19日 (木) Around the World Cruise (Real Time) | 個別ページ


2007年7月21日 (土)
 7月20日(金)、ビルバオからゲルニカへ

 朝、目を覚ますとキャビンの窓外にビルバオ港の景色が広がっていた。街の背後の緑濃い山なみが私の目を射る。山を抱く天然の良港は海も深い、海の深いのが港の必須条件だ。海を波止場とする世界の港で背後に山を抱く港は多い。

 天気予報によると、ビルバオ地方の天候は晴れ、最高気温18度、最低気温12度と快適な一日になりそうだ。息子は「自然と文化体験ハイキング」へ、9時過ぎ私とワイフは「ビルバオ1日観光」に出かける。

 バスに乗りしばらく行くと世界遺産の「ビスカヤ橋」に出会う。ビスカヤ橋はゴンドラにより人や車を運搬する「運搬橋」で1893年に開通した。
 最初に立ち寄ったのがグッゲンハイム美術館、現代美術を集めた広い館内を1時間ほどで廻るのは大変だ。チタンで外観を覆った美術館のデザインは私の中にある建物のイメージを変えた。午後からビルバオ市街を見渡せるアルチャンダ展望台に行ったとき、遠くに立つ美術館の全貌を撮ったのが左の写真である。

 美術館を出てゲルニカへ向かう。のどかな山あいの風景を楽しみながら1時間ほど走るとゲルニカに着いた。ここは1937年フランコ軍の名のもとにナチスが行った史上最初の非戦闘員を巻き込む無差別攻撃の舞台となったところである。スペイン内戦のさなか、小さな町を無差別に攻撃した愚行に、ピカソは怒りを込めて「ゲルニカ」を画いた。
 「ゲルニカ」を観たくてゲルニカにやってきた。青空と住宅街の一角に縦3.6メートル、横7.8メートルの「ゲルニカ」が往時の怒りを現代に発していた。ただし、レプリカである。本物はマドリッドにある。

 帰路、ビルバオの旧市街を散策した。1400年頃からはじまった街造りはその姿を今にとどめてまばゆい。

(現地時間7月21日10時、日本時間7月21日17時 大西洋上ビスケー湾フランス沖にて)
投稿者 愉悠舎 日時 2007年7月21日 (土) Around the World Cruise (Real Time) | 個別ページ


2007年7月23日 (月)
 7月22日、ドーバー海峡秘話

 7月22日(日)
 午後4時、ドーバー海峡を渡る。
 少し汗ばむぐらいの暑さのなか、ドーバー海峡の通過を観ようと大勢の人がデッキに集まった。「あれがノルマンディー上陸作戦の丘!」フランス側を指して誰かが言う。海峡を高速船が走り、波間に大型船が浮かんでいる。
 ドーバー海峡は狭いところで35キロ、フランスのカレーとイギリスのドーバーに挟まれた海峡である。
 現在この海峡の下を鉄道が走っている。もう20年も前の話であるが、48キロの道のりを鉄道トンネルにするか道路トンネルにするかで当時の技術者が論陣を張ったことがある。
その時、イギリスのコンサルタントから日本へ道路トンネル案の場合の換気計画について協力要請があった。当時日本の長大トンネルは電気集塵機付縦流換気方式というシステムを、次々と造られて行く長大トンネルに導入していた。
 日本の技術者はこの電気集塵機付縦流換気方式を具申した。この道路トンネル案は橋梁案を含む7案のなかで鉄道トンネル案と共に最後まで残り、鉄道か道路かで鉄道に決まったが、もし道路案が採用されていたならば、今頃この下を日本が提案した換気システムの道路トンネルの中を車が走っていた筈である。
 話にはまだ続きがある。鉄道トンネルに決まったあと、確かカレー側だったと思うが、トンネルをシールドマシンという掘削機で掘り進んで行ったのは日本の企業である。

 最近、マスコミ雀がJH(旧日本道路公団)や国土交通省(旧建設省)叩きに憂き身をやつしていたが、JHや国交省に働く人をひとまとめにして糾弾するのはやめてほしい。あの時代、技術屋の誇りをかけ世界に立ち向かっていった公僕たちのいたことを私たちは忘れてはならない。

(現地時間7月22日18時、日本時間7月23日01時 ドーバー海峡通過後)
投稿者 愉悠舎 日時 2007年7月23日 (月) Around the World Cruise (Real Time) | 個別ページ


2007年7月24日 (火)
 7月23日、再び「旅人の墓場」アムステルダムへ

 7月23日(月)
 昨年の春訪れたアムステルダムへふたたびやってきた「寛容の国」と船内の上陸説明会でオランダをそう説明された。ソフトドラッグ、同性愛者の結婚、「飾り窓」、安楽死、等々が合法化されているオランダも、近年抑圧的な政策をとる傾向が多々あると言われている。その一つが船内講座で紹介された「船に浮かぶ刑務所」で厳しい条件のもと移民をボートに拘留し、人権を認めない無期限な監禁状態に多くの人々を追いやっている。
 そんなオランダにまたやって来た。かつて「旅人の墓場」と言われたアムステルダムにやって来た。
 トパーズ号が着岸したのはパッセンジャーターミナルというアムステルダム中央駅のすぐ裏で市の中心部まで歩いて行ける。

 私とワイフは自由行動を、息子は「オランダ・エコ体験」という、バスではなく自転車を使ってのエコツアーや有機農場を訪問するプログラムに取り組んだ。

 私とワイフは昨年行けなかった場所を徒歩で訪ねることにした。先ずは「アンネ・フランクの家」を目指し、中央駅の西側を南下する。途中、運河を行く乗合船や自転車を使って通勤する勤め人に出会う。数年前までの私の通勤風景をアムステルダムに想起する。
 たどり着いたアンネの家の前は長蛇のひと、中に入るのをあきらめて「ダム広場」へ向う。途中両替所で円をユーロに替える。う〜ん、円が安い。ダム広場から「シンゲルの花市」へワイフはその場を離れない、仕方なく一息入れるということで花市の中ほどにある大衆的なレストランでランチにする。ランチ一人前9.5ユーロ、ビールを飲み二人分25ユーロ(1ユーロ約168円)の食事を終えたあと、ワイフは再び花市へ、30分後ここにということで私はブラブラしに花市を離れる。
 花市から「ワーテルロー蚤の市」へ、道中「マヘレの跳ね橋」を眺める。蚤の市に隣接している市庁舎に寄り守衛らしき人をつかまえてトイレを借りる、コインのようなものを渡され、トイレの場所を教えてくれる、行ったトイレは障害者用で鍵がかかっており、先ほどのコインのようなものを挿入するとドアが開いた。
 蚤の市で雨に降られたが、あやしい商品の数々を見て廻るのは結構楽しい。
 行くべきところへは行ったし、そろそろ帰ろうかということになり中央駅方面に向かって歩く。帰路「レンブラントの家」をカメラにおさめる。中華街の入り口の「カフェ」でワイフはコーヒーを私はビールを注文する。オランダでは「コーヒーショップ」はマリファナの吸引所であり、間違って入るとソフトドラッグを飲まされる。
 ウォーキングも終わりに近づいた。アムステルダム中央駅を越えればトパーズ号が待っている。横に長い中央駅の中ほどを横断する。途中、ホームに上がれるので階段を上り、しばらくホームに佇み電車の発着風景を楽しむ。
 朝9時に出て、帰ったのが午後5時半、よく歩いた。
 人を惹きつけてやまないアムステルダムの街を振り返り、ボーディングブリッジの階段を昇った。

(現地時間7月24日13時、日本時間7月24日20時 荒れる北海にて)
投稿者 愉悠舎 日時 2007年7月24日 (火) Around the World Cruise (Real Time) | 個別ページ


2007年7月26日 (木)
 7月25日、「北欧のパリ」、コペンハーゲン
 7月25日(水)
 コペンハーゲンのあるデンマークはドイツと国境を接するユトランド半島と500以上の島からなり、コペンハーゲンは島の中で最も大きいシェラン島にある。コペンハーゲンはデンマーク語で「商人の港」を意味する港町で、「北欧のパリ」とも言われ歴史的にもルネッサンスの面影をとどめる街である。
 コペンハーゲンは今、夏の真っ盛りそれでも今日の気温は最高で18度、最低で12度と陽が射さなければ肌寒い。
 私とワイフは「コペンハーゲン・ウォーキングツアー」に、息子は「デンマークから学ぶ環境保護」に出かけた。息子が取り組んだ環境問題について寄港地プログラムの紹介で次のように書かれている「美しい風景が広がる環境保護先進国デンマーク。デンマークでの環境に対する取り組みに、私たちも学ぶことは多いはず。私たちを取り巻く環境は、自分たちで守り、作り上げていくもの。その取り組みを学ぶため、ビーチの美観や環境を守るプロジェクト「ビーチ・フラッグ」をFEEのスタッフと体験。活動内容を勉強するだけでなく、アクティビティも企画中です。」とあり、環境問題に正面から取り組んでいるデンマークの現状を見聞する。ちなみに、私たちのツアーに同行してくれたガイドさんはデンマークの電力の18%を風力発電に頼っていると言っていた。

 私たちは一日中コペンハーゲンの街を歩いた。フランスのパリがどんな街か知らないがコペンハーゲンを称して「北欧のパリ」と呼ばれているぐらいだから、きっとパリもこのような街だろうと思いながら美しい街並みを堪能した。

 今日は人魚姫の話をしよう。
 地元のガイドさんが私たちを最初に連れて行ってくれたのはトパーズ号が接岸している埠頭に近い人魚姫の像で、アンデルセン童話の人魚姫をモチーフにした像がコペンハーゲンには3体あるといって先ず見せられたのが写真左の像である。モダンアートのこの像はコペンハーゲンの人にはあまり評判がよくないらしい。次に連れて行かれたのは写真右の立っている大きな人魚姫である。これはアメリカの観光客が本物の人魚姫を見て「小さい」と言ったのに腹を立てた地元の人が「それじゃ」と建てたのがこの人魚姫らしい。最後に真打ち登場となる。私の感覚ではそんなに小さくなく、想像していた通りの大きさで実物をみてイメージがさらに膨らんだ。3体の人魚姫はそんなに離れていないがモダンアートは観光客の目に触れるところになく、3体とも観ることができた私たちはラッキー?と言えるかもしれない。

(現地時間7月26日09時 日本時間7月26日16時 ベルゲンへ向かう船中にて)
投稿者 愉悠舎 日時 2007年7月26日 (木) Around the World Cruise (Real Time) | 個別ページ


2007年7月29日 (日)
 7月28日、ベルゲンとソグネフィヨルド遊覧

 7月27日(金)ベルゲン
 市内にあるフロイエン山という300メートルほどの山へケーブルカーで昇った。山頂から市街が一望できる。そぼ降る小雨の中、山の緑と家々の赤っぽい屋根が誇らしげに私たちを見上げている。港の方に目をやればトパーズ号が岸壁に寄り添っている。眼下に箱庭のような景色が広がる。ここはノルウェーのミナト街、ベルゲンである。
 ベルゲンはオスロから300キロほど西へ行った北海に面し、落ち着いた雰囲気が漂う人口23万人を有するノルウェー第二の都市である。
 山を下りて私たちは世界遺産のブリッゲン地区を散策する。ドイツ人が魚の加工、取引をするために同盟を作り、ドイツから出張のようなかたちでやって来る魚商人の事務所、魚の加工所、宿泊所など、ハンザ同盟時代の木造建築が残るブリッゲン地区、ここをバスターミナルにしようと、取り壊される運命にあった歴史的遺産であるが潰してはならないという力の前にバスターミナルの場所は変更を余儀なくされた。
 ブリッゲン地区の近くに魚市場がある。エビ、蟹、たら、サーモン見ているだけで楽しい。地元の人だけでなく観光客も大勢店の前に群がり、好みの味を求めている。私たちは蟹の味噌や身などを詰めた缶6個入りと、パンの上に乗せて食べるチューブのペーストを500円まけさせて7600円を日本円で払った。
 帰る頃、雨は未だ降り続く、帰船への足取りが少し重い。

 7月28日(土)ソグネフィヨルド遊覧
 ベルゲンを出たトパーズ号はソグネフィヨルドへ向かう。
フィヨルドとは降った雪が永い年月を経て氷河になり、氷河は山の斜面を滑りながら地面を侵食し、そこにできた入り江や海のことであると、既ブログに書いた。
 ソグネフィヨルドは長さ204キロ、水深は一番深いところで1308メートルある。
 7月28日午前5時過ぎ、フィヨルドに入る。午後1時フィヨルドの奥深いフラム村に到着、さらに船は狭い入り江に進み2時過ぎUターンをして、来た路を引き返す。
 今、窓外に移り変わるフィヨルドの風景を眺めながらブログ用の日記を書いている。曇り空であるが入り江の水面は不気味なほど緑濃い、幾条もの細い滝が山の上から水面へ蛇行しながら落ちている。岩肌に樹木がへばりついている。山の中腹を白い雲がゆっくりと流れる。村落が木々に囲まれ点在し、のどかに暮らす人々が想像される。
 渓谷を埋める氷壁の白さに自然の技の凄さを思う。

(現地時間7月28日17時 日本時間7月29日00時 ソグネフィヨルド遊覧中)
投稿者 愉悠舎 日時 2007年7月29日 (日) Around the World Cruise (Real Time) | 個別ページ

2007年8月 2日 (木)
 7月31日、夏の日のダブリン

 7月31日(火)ダブリン
 寝ていて気がつけばダブリン港に着いていた。午前4時ダブリン港・アレクサンドラ通り・アレクサンドラドック・37番埠頭に接岸する。
 ダブリンのあるアイルランドはイギリス本島の西にあるアイルランド島の約9割を占め、その大きさは北海道と同じぐらいである。人口は400万人余りでそのうち100万人ほどがダブリンの市街に住んでいる。宗教はカトリック教徒が9割余りを占めており、イギリスからやってきたプロテスタントとの確執が今日まで続いている。
 そんなダブリンの街を散策した。
 市の中心部オコンネル通りなどを2時間ほど散策した。商店街の軒先を飾る夏の花々、リバーサイドのベンチに腰を下ろし語らいにふける人々、水陸両用の観光バスが駆け抜けて行く、歴史を感じさせる格調のある街並みを、軽装に身を固めた人たちが闊歩する。
 私たちはダブリンの人や観光客に混じって人ごみの中を歩いた。
 途中、パブにて休憩し1回目のギネス黒ビールを飲む。アルコール度は2.8%と低い。口当たりに重さは残るが、のど越しはまろやかだ。
 パブを出てトリニティカレッジの構内を見学した後、レストランで2回目のギネスビールを飲む。ちなみにビールの値段であるが、1パイント(1パイント568ml、日本の大瓶は633ml)4ユーロ(1ユーロは162円、7月24日現在)が当地の標準価格らしい。
 3度目のギネスビールをギネスストアハウスで飲む予定にしていたがあきらめた。レストランでの昼食の多さに胃腸が癇癪を起こしたらしく満腹感を引きずっている。ビールをあきらめたがビールを飲ましてくれる7階のギャラリーへ行った。ここからダブリンの市街や郊外が一望できる。高層建築がなく、360度の展望は圧巻である。
 ダブリンでは45分のリバークルーズも楽しんだ。無料のアイルランド国立博物館にも行った。
まだまだダブリンの夜はやって来ない。

(現地時間8月02日11時 日本時間8月02日20時 大西洋上にて)
投稿者 愉悠舎 日時 2007年8月 2日 (木) Around the World Cruise (Real Time) | 個別ページ

2007年8月 5日 (日)
 8月04日(土) 世界の人々

 今夜はタイタニックフォーマルディナー、ワイフと二人正装?してトパーズダイニングへ向かう。 ディナーのメニューはタイタニック号の食事を再現したもので内容は次のようになっている。アスパラと帆立のシャンパンヴィネグレット、マッシュルームのスープ、メインディッシュが鴨胸肉のロースト カシスソース ローストアップル添え、パン希望によりライス、オレンジサプライズ、コーヒー又は紅茶又は日本茶、そしてグラス赤ワインにギリシャ産ドデカニシアコス、以上が今夜の献立だった。

 大西洋上を航行するのも今日で4日目、ちょうど大西洋の真ん中あたりだろうか、寄港地から寄港地まで、今までで一番長い船旅となった。船内の人たちは次の寄港地ニューヨークとその次の寄港地ジャマイカに向けて、心の準備に余念がない。特に若い人は二つの寄港地に大きな期待を寄せているのがひしひしと伝わってくる。

 今日は人間好きな息子の撮った写真を掲載します。エジプトの写真に彼が写っているのでそれ以外の写真は彼のシャッターによるものです。題して「世界の人々」。

(現地時間8月04日11時 日本時間8月05日09時 大西洋上にて)
投稿者 愉悠舎 日時 2007年8月 5日 (日) Around the World Cruise (Real Time) | 個別ページ