2/4Around the World Cruise (Real Time)

 6月22日

 6月22日(金)波高いインド洋上にて 昨日に引き続いてジョン・デバラジュ氏と中山実生さんそして斉藤千宏氏の話を聴いた。

 講義のあと私とワイフは9階のサンシャインバーで呑んでいた。そこにジョン・デバラジュ氏と中山実生さんが離れた席で飲んでいた。私たちは彼らと話がしたくて近づいた。こころざし高く生きている二人を祝福した。

 ジョン・デバラジュ氏は私に「職業は何ですか?」と問うた。「エンジニアだった」と答えた。彼は言った「私もエンジニアです」、私は嬉しくなった。

 写真は二人の指導によりインドの子供たちが撮ったもので、鬼気迫る迫力がある。芸術は技術ではない、心である。心があれば技術は後からついてくる。

 夕食後、明日の船内新聞「言ノ葉」を入手した。スケジュール表を見ると立錐の余地がないほど埋まっていた。

投稿者 愉悠舎 日時 2007年6月23日 (土) Around the World Cruise (Real Time) | 個別ページ

 6月23、24日

 6月23日(土)今日は「沖縄デー」、船内のあちこちで沖縄に関する催し物が一日中行われた。  6月23日沖縄は休日になる。1945年日本軍は沖縄の地とそこに住む人々を盾とし、「ウチナーンチュ(沖縄民族)、兵士を中心とする日本人、米兵らを合わせ二十万人を超える人々の命が失われました。日本軍の組織的抵抗が終ったのが同年6月23日、沖縄ではこの日を『慰霊の日』に制定しました。」(言ノ葉 第15号)と、あるように多くの沖縄県人をも犠牲にしたのが62年前の戦争だった。先日言葉を交わした沖縄の若い女性の話によると、今回ピースボートに乗船している沖縄の人は12人いるらしい。 本日のディナーは沖縄料理。夕食のテーブルを囲んだのは三組の夫婦と女性一人そして男性一人の計8人、乗船者の80%が独りの集合体で夫婦が三組も揃うのは珍しい、8人で話に花が咲いた。三組の夫婦は札幌と横浜それに私たち神戸、女性は鹿児島県の鹿屋、男性は奈良県の橿原と北から南から同じテーブルに集う。周りのテーブルに人影がなくなったころ私たち8人も席を立った。 夕食後キャビンに戻らず、8階の船首デッキに行った。ここ何日か続けている「星の名人」氏による観月会ならぬ観星会に参加した。氏の説明によると今夜のような月夜は星の光が十分にここまで届かないらしい。それでも南十字星は見えた。南十字星は想像していたよりも小さく、光が薄い。明日から本船は北西に進路を変える、南十字星を拝めるのも今夜が最後になるかもしれない。

  6月24日(日)明日のインド上陸にあたり「コーチン上陸説明会」が行われた。夕方サンシャインバーでビールを呑んだあと、夕食をとる前にデッキにでた。インドの南端が右舷に見える。もう船はアラビア海に入った。午後9時からプールデッキでインドナイトが開催された。9時から一時間ほどインド文化に接した。現在の日時は24日の午後11時、日本は25日の午前2時半になる。


投稿者 愉悠舎 日時 2007年6月25日 (月) Around the World Cruise (Real Time) | 個別ページ

 インドの風

 6月25日(月)朝6時船首デッキにでる。本日8時コーチンへ入港予定の本船は朝もやの中をゆっくりと港を目指す。漁か荷物を運ぶのか?トパーズ号の左舷側を多くの小さい船が通り過ぎる。3人ぐらいから20数人も乗り込んだ船が何十隻もトパーズ号の横を反対方向に向かっている。壮観というよりも荘厳な人間の営みが夜明けと共にはじまった。港に近づくにつれて乾いた大地のにおいが強くなった。これはまさしくアジアのにおいだ、インドの赤い土と熱風に育まれた人間のにおいだ。永年あこがれ続けたインドの大地に私はまもなく両足で立とうとしている、風のにおう大地に・・・。 コーチンはアラビア海に面した港町で、いわゆる日本人が一般的に持っているイメージとは少しだけ違う「きれいな」町である。歴史と緑に彩られた美しい町でもある。インド航路を開いたポルトガルの探検家、バスコ・ダ・ガマがここで亡くなっている。 私たちは「コーチン一日観光」へ7台のバスに分乗して出かけた。バスコ・ダ・ガマが埋葬された聖フランシス教会、元オランダ総督邸だったためダッチ・パレスとも言われるマッタンチェリー・パレス、ユダヤ教の会堂シナゴーグ、今はほとんどの人がイスラエルに帰って?しまったが、かつてユダヤ人が住んで商売をしていたユダヤ人街などを観て廻った。
 中国から伝わったチャイニーズフィッシングネットと呼ばれる魚網で、昔ながらの漁をしている海辺を訪れた。訪れたときは干潮で漁は行っておらず、手持ち無沙汰の漁師がゆっくりとした時間を過ごしていた。 昼、コーチン市内のレストランで食べたインド料理は私の口にあって美味しかった。スパイスの効いたインド料理のとりこになりそうだ。 今、インドは雨季に入り、このところ雨が降ったり止んだりのうっとうしい日が続いている、今日は珍しく雨もなく陽の照る一日であった。そんな一日、混沌としたインド社会に一歩足を踏み入れた。

投稿者 愉悠舎 日時 2007年6月27日 (水) Around the World Cruise (Real Time) | 個別ページ

 6月27日〜30日

 6月27日(水)ブリッジ見学午前10時半、操舵室見学の先頭を切って私を含む15人が最上階のブリッジへの階段を上る。見学時間は30分でそのうちの半分以上が説明に時間を費やされたので、見てどうなるわけでもないがブリッジ内の海洋計器をじっくり見る時間がなかった。それでも大航海時代をしのばせるクラシックな計器類にいたく感動する。説明にあたったジャパングレイスの浅井氏によると、本船は自動化されておりブリッジ内にある多くの計器は通常航海中使っていないが、操縦かんや操舵用ハンドルは離岸及び接岸時に手動に切替え使用しており、羅針盤は非常用としてスタンバイ状態にある・・。ちなみに、本船のエンジンは一万五千馬力(1馬力は0.735Kw?)のタービンを2基搭載している2軸船とのこと。現在就航している大型客船でタービン船はトパーズ号のみであるとも言っていた。ブリッジは思ったより狭く、ゴタゴタと計器類が配置されているが、室 内と計器類の質感に大英帝国時代の風格と重みを感じさせる。古典的なトパーズ号は世界のクルーズ船マニアの間で垂ぜんの的になっており、トパーズ寄港の報に各地から集まってくるファンも多いらしい。

 6月28日(木)インド洋波高し朝、目が覚めると気分が悪い。昨日に引き続き波が高い、朝食へ行く途中レセプションに寄ってトラベルミンを貰う。朝食の席に座る人がめっきり減っている。船の揺れに相当まいっている人が増えたのだろう。向かいの席にシンガポールから乗船されたマジシャンの柳田昌宏氏が座った。私たちは朝食を終える頃であったが少し話を聞かせてもらった。氏は大西洋航路によく乗っており、インド洋はあまり乗らないらしいが今日の揺れは相当なものらしい。ここを乗り切ると大西洋に出るまでは瀬戸内海のような波穏やかな航海になると希望を持たせてくれた。大西洋も太平洋も嵐が来ない限り、こんなに荒れないらしい。今吹いているモンスーン(季節風)や貿易風(東からの風)のおかげでアフリカと中国・インドの交易が盛んになったと柳田氏は語っていた。そういえば昔は帆船でこの荒波を人々は越えて行ったのだ。柳田氏はマジックを創るのが専門で、マジシャンは隣にいるMistyミュウ女史らしい。柳田氏はこんなことも言っていた。「今回乗船して皆さんのエネルギーからヒントを得て作品が一つできました。机の上でいくら考えてもいい作品は生まれません」と、人間は手足を動かすことによってはじめて身につくものが多い。今日行われる予定だった洋上大運動会は荒天のため延期となった。

  6月29日(金)揺れおさまらず相変わらず揺れが激しいが、私の船酔いはどうやら収まったようだ。朝8時、朝食をとりに4階へ向かう途中、6階の海図を見た。現在、船はインド洋・アラビア海のアフリカ寄りを航行中で、夕方には紅海の手前アデン湾近くに到達しそうなので、今しばらく辛抱すると船体の揺れも小さくなるであろう。この揺れでは船内をウロウロするわけにも行かないので、船内テレビでも観て過ごすことにしよう。

 6月30日(土)インド洋に別れを告げて午前8時インド洋に別れを告げてアフリカのソマリアと中東のイエメンの間にあるアデン湾をトパーズ号は通過中である。幅300キロ、長さ1000キロほどの細長いアデン湾の付け根近くにアデン港が控えている。揺れもおさまってきたのでデッキに出る。風は相変わらず強い、海鳥が一羽、波間をさまよっている。幅300キロの中ほどを通っているのか陸地は全く見えない。ぐるり360度、見えるのは水平線ばかり。もう五日も果てしない海原を彷徨っていたのか、陸地が恋しい。 (現地時間15:00分、日本時間21:00分)

投稿者 愉悠舎 日時 2007年6月30日 (土) Around the World Cruise (Real Time) | 個別ページ

2007年7月 3日 (火)
 7月01、02日

  7月01日(日)アラブのアデン午前7時、デッキに出てトパーズ号の入港風景を眺める。アラビア高原のはるかルブアルハリ砂漠から流れてくるのか、黄砂に似た薄い膜がアデンの港を覆っている。海を撫でてにおってくる風は、乾いた砂の中に海の生き物たちが身を潜めているようで少し湿っぽい。 アラブ諸国の一つイエメンはアラブ文化発祥の地で紀元前10世紀に「シバの女王」で知られるシバ王国が栄えた。人口は2100万人、面積は日本の約1.4倍、アラビア語を使うイスラム教徒の国である。イエメンの政治的首都は北部にあるサヌアだが、ここ南部の都市アデンは経済と商業の中心地で、アデン港はスエズ運河開通前まで、世界の中で三番目の港として栄えた。 この国を訪れる日本人は年間千人ぐらいでその昔、夏目漱石や森鴎外も訪れたらしいが日本にはなじみの薄い国である。ピースボートもイエメンを訪れるのは初めてなので、今日大挙して日本人が上陸したので、現地の人々もさぞびっくりしたことだろう。 私とワイフは「ゆったりアデン」ツアーを楽しみ、息子は「アデンの若者と交流」に出かけた。アラビア半島突端の、サウナ風呂にいるようなアデンの古い街並みを歩くと、アジアと全く違う文化が漂ってくる。ざらざらとした肌触りはアジアにない乾いた感触だ。岩にしがみついた家々の白さは吹き抜ける熱風を拒む。頭から足の先まで黒衣で覆った女たちは内なるアラブを垣間見せることはない。ここはユーラシア大陸の果つるところ、アラビア半島が海に落ちる岩肌の街である。

  7月02日(月)紅海を進むアデン港を出るとマンデブ海峡にさしかかる、そこを抜けると紅海である。紅海は幅が二百キロから三百キロ、長さ二千キロほどの細長い海である。紅海をはさんで右舷側にイエメン、サウジアラビア、左舷側にジプチ、エリトリア、スーダン、エジプトと続く。アラビア半島もアフリカ大陸も水平線の彼方に埋もれ姿を見せない。今から三日間、トパーズ号はただひたすら紅海を北西に進む。 延期になっていた洋上大運動会がプールデッキで開催された。私は午前と午後それぞれ二十分ほど見物した。暑い中、頑張る熟年の熱気と、弾ける若者のエネルギーに圧倒された。 (現地時間7月2日18時30分、日本時間7月3日00時30分 記)

投稿者 愉悠舎 日時 2007年7月 3日 (火) Around the World Cruise (Real Time) | 個別ページ

 7月04日(水)明日はパレスチナ難民キャンプへ

 明日朝、アカバ港へついた後、私たちは「パレスチナ難民キャンプとペトラ遺跡」のプログラムに参加する。ピースボートでしか行けない体験をしようとしている。私が生まれて間もない頃から、今なお続く「パレスチナ問題」の現実に、今まさにこの肌で触れようとしている。パレスチナと呼ばれていた、現在のイスラエル、ヨルダン川西岸、ガザなどに住んでいた人たちは1948年のイスラエル建国をさかいにその地を追われた。パレスチナ難民が発生したのが1948年、イスラエルを追われた人たちは周辺の地域に逃れた。その後1967年の第3次中東戦争によりヨルダン川西岸とガザがイスラエルに占領され、ここでも多くの人たちが難民となって周辺地域へ逃れた。現在、ヨルダンの人口は約500万人そのうちの160万人がパレスチナ難民である。 明日は神戸港を離れてはじめて陸で寝ることになる。宿泊先はアンマン市内の「アンマン・チャムパレスホテル」の予定である。 今日、日本を発ってはじめてといってよいほどの美しい夕日に出会った。紅海の空を紅く染めた夕日に航海の無事を祈った。

(現地時間7月4日22時05分、日本時間7月5日04時05分 記)
投稿者 愉悠舎 日時 2007年7月 5日 (木) Around the World Cruise (Real Time) | 個別ページ


 2007年7月 8日 (日) 7月05日(木)、06日(金)難民キャンプへ、ペトラ遺跡へ

7月05日(木)
 午前8時アカバ港からバスに乗りアンマンから北へ45キロ、第三次中東戦争の翌年の1968年に建てられ、現在一万四千人の人々が暮らすスーフキャンプを目指してバスは丘陵地帯を走った。バスの左手にイスラエルの建物群を望みながら350キロ先のキャンプへ向かう。キャンプといえばテントに生活する人々を想像するがれっきとした家が造られている。家はそんなに広くないが玄関を入ったところに応接間のような部屋があり、その奥に一家団欒の広い部屋がある。この二部屋が居住スペースでその他に水場等がある。一つの家に8人から10人ほどが暮らしており、夕食後奥の部屋に家族が集まって談笑するのが日常になっている。各戸の敷地は広くないので10坪ほどの庭を有効に使っている。たとえば、私がキャンプ内を歩いているとき、入れと言われて案内された家では、少しでも自足できるものをと藤棚のようにしてグレープを実らせていた。キャンプは一つの大きいコミュニティを形成しており、学校やリハビリセンターなどの各種施設もある。集会所で行われた文化交流フェスティバルではスーフの若者による民族舞踊や日本の若者によるソーラン踊り、エイサー等が披露され会場は熱気に包まれた。砂漠地帯特有の暑くて乾いた空気が肌に心地よい。場内に夕闇が迫るころ、開け放たれた窓から流れ込む涼気に日本の風を思う。 この地に来てすでに40年、ここで生まれた子に子供もでき、パレスチナに対する望郷の念も薄まっているように考えがちだが、決してそのようなことはない。父から子へ子から孫へと受け継がれて行くパレスチナへの想いは、時を経るごとに強くなって行く。近くて遠いパレスチナの地へ、オリーブの花咲くパレスチナの地へ、彼らが還れる日の一日も早いことを願ってやまない。

7月06日(金)
 7月06日(金) ペトラ遺跡へ昨夜、アンマンのホテルで一泊し、今朝の8時過ぎホテルを出てペトラ遺跡へ出発する。紀元前3世紀、遊牧民によって砂漠の真ん中の岩石に刻まれた「幻の都」として今にある。ペトラ遺跡の入り口から、岩に彫られた数々の遺跡を一時間ほど進むと、突如としてペトラの象徴エル・ハズネ宝物殿が出現する。岩の合い間にエル・ハズネが見えると人は一瞬息をのむ。人間のわざとは思えない壮大にして繊細な建造物と彫刻は観る者の心を揺さぶる。なぜこのような物をどのようにして造ったのか、古代人の馳せた夢は大きくて手に負えない。私は建物の傍を静かに離れた。ペトラは1985年世界遺産に登録された。

(現地時間7月7日18時30分、日本時間7月8日00時30分 記)

投稿者 愉悠舎 日時 2007年7月 8日 (日) Around the World Cruise (Real Time) | 個別ページ

 2007年7月 9日 (月) 7月08日(日)、スエズ運河通過

7月08日(日)
 7月6日午後10時、アカバ港を出る直前の対岸を撮った。イスラエルの夜景である。ここにも多くの人々の生活がある。イスラエルの灯りに見送られながらトパーズ号は岸壁を離れる。

  7月8日午前10時前スエズ運河に入る。その前、9時半から三十分ほどスエズ運河についてジャーナリストの池上彰氏からブロードウェイにおいてレクチャーを受ける。スエズ運河の建設から欧米列強の権益争いの具に供されてきた歴史を分かりやすく語ってくれた。分かりやすいといえばNHKの「週刊こどもニュース」で「お父さん役」を長い間勤めていたのが池上氏で私も時々見ており平易な言葉づかいに感心していたものだ。スエズ運河航行中に船内放送が流れた。運河の幅160〜170メートル、水深15.5メートルの運河を時速7ノット(12km/h)でゆっくりと進む。12時、二つの湖のうち、最初の湖にさしかかる。ここではじめて一方通行が解け、交互通行になる。16時、運河の中ほどにやってきた。再び一方通行になり、左舷側に待機船の列が続く。はるか前方に運河をまたぐムバラク?平和大橋が見えてきた。左舷側に広がるナイル川の恵みを受けた緑の大地に比べて、右舷側の荒涼としたシナイ半島から続く砂漠地帯に自然の恵みの不公平さを思う。 夜、愚息の誕生日を船内で友だちになった人たちが祝ってくれた。ありがとう・・・。

(現地時間7月8日22時00分、日本時間7月9日04時00分 記)
投稿者 愉悠舎 日時 2007年7月 9日 (月) Around the World Cruise (Real Time) | 個別ページ

 2007年7月10日 (火) 7月09日(月)、大ピラミッド

  7月09日(月)
 早朝5時過ぎ、400名近い人たちが9台のバスに分乗してポートサイドからカイロに向かった。ツアー名は「ギザのピラミッドと博物館」、カイロまで3時間の長旅である。9時ごろ「エジプト考古学博物館」を訪れる。世界各国の観光客で博物館の内外はごった返していた。大英博物館についで世界で二番目の規模らしい、イギリスの方は略奪品も多いと聞いているが、こちらはエジプト自前の作品である。ツタンカーメンの「黄金のマスク」の前で多くの人たちが群がり、歓声とため息をもらしていた。昼食後、ピラミッドへ向かう。クフ王のピラミッドの傍にバスを止め、高さ140メートルの巨大な石段を少しだけ上る。その後、三大ピラミッドが望める展望台を廻り、最後にスフィンクスへ行く。ピラミッドを観る直前に船内のTVで放映していた番組で、ピラミッドは奴隷によって造られたという考えをくつがえしていた。ピラミッドはナイル川の氾濫により、農作業ができない農閑期の失業対策事業だったというもので、その説が有力になってきているらしい。 「百聞は一見に如かず」という言葉がある。その言葉がピッタリのピラミッドであった。 ピラミッドの見えるレストランで夕食をとった。アラブ料理に加えて炭火で焼いた地中海のスズキがでた。そうか、ここはもう地中海なのだ。

(現地時間7月10日14時00分、日本時間7月10日20時00分 記)
投稿者 愉悠舎 日時 2007年7月10日 (火) Around the World Cruise (Real Time) | 個別ページ

 2007年7月13日 (金) 7月11日、12日、エーゲ海クルーズ

7月11日(水)
 ミコノス島エーゲ海に浮かぶミコノス島にやってきた。岸壁が一杯で海上に錨を下ろす。今日は自由行動、私とワイフは朝の10時ボートで上陸後、送迎バスに揺られてプラティアロス・ビーチへ、そこからボートでパラダイスへ向かう。パラダイスで海水浴を楽しむ。昨日の上陸説明会でパラダイスはヌーディスト、その先のスーパーパラダイスは同性愛者のたまり場と聞いていたが、パラダイスにそれらしき人影を散見することはなかった。ミコノス島は「エーゲ海の白い宝石」と呼ばれ、建物の壁は窓を除いて全て白一色、2階を超える建築物はなく、建物の角は丸く、石畳の路地も白いペンキを入れているところが多い。ここまで没個性の建物集落を見せつけられると、一軒一軒の家屋が個性的に見えてくるから不思議である。

7月12日(木)
 アテネへ朝、目が覚めるとピレウス港に着岸していた。クルーズ船やフェリーが所せましと港を埋め尽くしている。いよいよヨーロッパに上陸だ。今日の観光はアクロポリスとプラカ地区散策それにギリシャ料理が待っている。ピレウスの隣がアテネで、ピレウス港から30分ほどバスに揺られるとアテネ市街に到着する。パルテノン神殿のあるアクロポリスは世界中からやってきた観光客で溢れかえっている。パルテノン神殿の周りは高低差が結構あり、その上石畳が大理石でできているので、人ごみの中を滑らぬように歩くのが大変だ。土産物がならぶプラカの街中を散策したあと、ギリシャ料理のレストランに入る。昔ながらのレストランの内装に、かたくなまでに変えようとしないギリシャ人のプライドを感じる。ギリシャ料理は量の多いことで知られるが、前菜がメインディッシュほどあり、それだけで私の腹は悲鳴を上げた。 この日息子は炎天下のギリシャを走った。マラトンから近代オリンピックが最初に行われたアテネの競技場までの42.195キロを走った。

(現地時間7月13日11時00分、日本時間7月13日17時00分 記)
投稿者 愉悠舎 日時 2007年7月13日 (金) Around the World Cruise (Real Time) | 個別ページ