カテゴリ「身辺雑記(無題)」の記事
2007年10月 4日 (木)
キタの風景
所用で梅田に出かけた。
用を足したあと、ここ何年間来ることのなくなった梅田界隈を歩いた。
阪急電鉄梅田近くを歩いていると、三番街シネマの看板が眼に止まった。その横に閉館を知らせる大きな看板も掲げられていた。1975年に営業を始め、32年間映画ファンを迎え入れてきた映画館も「シネコン」の流れの中に潰え去ったのであろうか?
そこから御堂筋の方向に出て「曽根崎お初天神」に向かう、若いころ何度か立ち寄った境内であるが、記憶の中にある風景とかなり違っていた。
再び御堂筋に出て北新地への横断歩道を渡る。昼下がりの新地は平凡な街である。盛り場に夜が来るにはまだ少しの時間が必要だ。
みたび御堂筋を少し南下し大江橋南詰を東に、堂島川沿いを中ノ島公園に向かって歩く、公園にたむろするホームレスに遠い記憶がよみがえる。かつてこの場所でホームレスと仲良くなり明け方まで酒を酌み交わしたことがあった。あの時と変わらぬ風景が今もある。ただ違うのは当時、立ち並ぶテント小屋はなかった。
天神橋を北へ天神橋1丁目から6丁目まで歩く、途中天満宮に寄り、天六から梅田へと歩を運ぶ。
「猥雑」な街大阪にあってキタは、雑多の中にも気品とプライドを兼ね備えた街である。
投稿者 愉悠舎 日時 2007年10月 4日 (木) 身辺雑記(無題) | 個別ページ
2007年10月24日 (水)
気まぐれピラカンサ
神戸の自宅にピラカンサの木がブロック塀と壁の間に生えている。
いつの頃か忘れたが見知らぬ木が生えてきた。そのまゝ放置しておいたのが成長し、今では3メートルほどの高さに育ち、秋になると赤い実を付けている。
木が塀を越えて近隣の私道まで侵しはじめ、斬ってしまおうかと思ったものの、私道を挟んだお隣さんが「綺麗やからおいとって」の一言にピラカンサは今日まで生き延びている。
我が家に生息するピラカンサの生い立ちは鳥が運んできたことになっている。
ピラカンサの実を好む鳥に含まれている青酸配糖体により、この実を食べるとシアン中毒になるおそれがあり、嘔吐、呼吸困難、心搏衰弱などの症状を起こすこともあるらしい。青酸配糖体は青梅にも含まれており、青梅を食べるのは避けた方が良い。
ピラカンサはヨーロッパ南部や中国を原産とする常緑の低木でバラ科に属する。
開花時期は5〜6月、10月頃から美しい実を熟す。実の色は赤、橙、黄などがある。
ピラカンサは鋭い棘を有する。
この木は育ち方に規則性がない、枝の伸びる方向がバラバラである。それぞれの枝が好き勝手な生き方をしている。野趣溢れると言えばそれまでだが、扱いに困る木である。さりとて手入れをするわけでもない。
投稿者 愉悠舎 日時 2007年10月24日 (水) 身辺雑記(無題) | 個別ページ
2008年7月12日 (土)
ブログの引越し
今まで使っていた「㈱関西どっとコム」のブログがサービスを休止した。理由は「㈱ケイ・オプティコム」に吸収されたとのことである。ブログの利用者は置いてけぼりにされた感じで不愉快だ。
関西どっとコムblogで投稿した記事は、ケイ・オプティコムeoブログに移行できるが、私の造ったブログがそっくりそのまゝ移せるわけでもない。レイアウトや構成は崩れるし、データの一部は消滅する。ブログは作者の個性を表現したもので、文章や画像のデータを作品化したものである。「データを移す」と言われても、「それは違うんじゃない」と言いたい。
元のブログがどのような形でeoブログに引越して来るかわからないが、いずれにしても再構築の必要があるだろう。本来なら元のブログも残し、新ブログと二本立てで運用すべきと考えるが・・・。
引越しして来ない物の中で、どうしても記録しておきたい事柄があるので、ブログの消滅前にここに記しておこう。
一つは元ブログへのアクセス数で、その数は58118件(2005年11月2日から2008年07月11日午前10時現在)を記録している。
もう一つはブログの冒頭を飾った一枚の写真(右上に掲載)、私はいつもこの風景の中でブログに対峙した。
投稿者 愉悠舎 日時 2008年7月12日 (土) 身辺雑記(無題) | 個別ページ
2008年7月24日 (木)
もう一人の家族
もう一人の家族が今日18回目の誕生日を迎えた。
ワン公の名前をジュンと言う。1990年7月24日生まれのジュンは、生まれて一ヶ月ほど経って我が家にやって来た。ジュンを貰いに行った先は同じ神戸市内。ジュンは4人兄弟の末っ子で、あとの3匹はすでに何処かへ引き取られて行ったあとだった。ジュンだけが残り、母親の傍らで不安げな表情を見せていた。ジュンだけが残ったのは「一番甘えん坊」とのことだった。母親は柴犬だが父親は何処の馬の骨か分からない、いわば行きずりの恋でジュンがこの世に生まれ出た。
ジュンは「甘えん坊」ぶりを遺憾なく発揮しながら育った。
阪神淡路大震災を神戸で遭遇したジュンは一日中体を震わせていた。
顔見知りの犬や人にはよく吠えたが、アカの他人にはおとなしく、番犬の役目は果たしてくれなかった。
ジュンが10才ぐらいの頃、私とジュンがしばらく淡路で暮らしたことがあった。私が車で帰宅の途についているとき、車の後ろを追いかけてくる犬がいた。家の前で車を止め、後ろを振り返ると、後方からその犬が駆けてきた。ジュンだった。鎖をちぎってその辺で遊んでいたジュンは私の車を見つけて追いかけて来たのだった。
そのジュンも18才を迎え、足腰が弱り介護モードに入った。人間の年齢にすると88才になるらしい。
投稿者 愉悠舎 日時 2008年7月24日 (木) 身辺雑記(無題) | 個別ページ
2009年1月 8日 (木)
また会う日まで
人に一生があるように犬にも一生がある。
我が家の愛犬ジュンが逝った(2009年1月8日午後10時)。昨日から水を含む一切の食べものを拒否した。 「もう、いいよ」とでも言うように、硬く口を閉ざしたまゝ、二度と口を開くことは無かった。深く静かに眠るように逝った。
18年と6ヶ月の人生ならぬ犬生だった。「北の国から」の主人公の名前をとって娘が「ジュン」と名づけた。生涯のほとんどを神戸にある家の、猫の額ほどの庭で鎖に繋がれることなく自由に暮らした。児童の登下校時、ブロック塀に前足を這わせて立ち上がり、透かしブロックから子供たちを眺めるのを日課とし、子供たちが相手になってくれるのを至福とした。私が夜遅く12時、1時に帰ってきても必ず玄関先まで出てきて散歩を要求した。酔い覚ましには好都合であったが、凍てついた冬の夜はきつかった。叱ると上目遣いに私の様子を伺いながら、きびすを返し、すごすごと小屋に引き上げる姿は、私に似てどこかうら寂しかった。淡路にも仮寓を持つようになり、週末来島する折、準備に勤しむ私たちの様子を察して家の外から吠える。私が車に乗って帰ってくると、家に近づく100mほど前から吠える。そんなジュンにも弱点はあった。雨に弱い、雨が降ると匂いが消えるのか家族の誰が帰ってきても気づかない。阪神大震災の時には一日中吠えていた。地震の発生前に吠えて欲しかった。家族の誰かに似てワンテンポ遅れている。知っている人には吠えるが見知らぬ人には吠えない。
「負うた子に教えられ、浅瀬を渡る」という諺がある。ジュンにいろいろなことを教えてもらった。寝ている以外いつも動き回わり、懸命に生きた。常にワン公や人間に関わろうと頑張った。意に反したことを要求されると断固拒否した、誇り高きジュンだった。
ジュンは多くの人に可愛がられて幸せだった。
天国からジュンの声が聞こえてくる「みなさんアリガトネ、ボクは雑種だの、どこの『犬の骨』だか分からないなどと、さげすまれながらも気高く生きたヨ、みなさん、どんな境遇になっても、誇り高く希望を持って生きてネ」、
サヨナラ、いつかまた会おう・・・。
明日、神戸へ連れて帰り、個別の火葬場で骨を拾ってやろう。
投稿者 愉悠舎 日時 2009年1月 8日 (木) 身辺雑記(無題) | 個別ページ
2009年3月13日 (金)
急げ!ワイフ
3月12日午後2時過ぎ淡路の自宅を出発、ワイフのお供でポートアイランドにある神戸国際展示場に向かう。フラワーデザインの出展に間に合わすために急がなければならない。途中国道28号線沿いにある無人の花屋さんに寄って材料を手にいれる。材料は他に自宅に生えている花木をみつくろって持って行った。 神戸に出る場合いつもなら淡路ICから入るが今日は時間が切迫している。東浦ICへハンドルを切る。阪神高速へ乗換え京橋で降り、ポーアイへ、展示場に着いたのが3時半、5時から審査が始まるのでワイフは必死のパッチで作業に取り掛かる。私は途中ワイフの命ずるまゝに2回水を汲みに100mほど先の水場を往復した。途中ちょっかいを出す私に「邪魔せんといて」と、叱られる。外に出てその辺を散歩する。展示場の西側にある「ワールド記念ホール」で何かイベントがあるのか人だかり、ボクシングのバンタム級世界チャンピオン長谷川穂積がタイトルマッチを行うらしい、道々でダフ屋に声を掛けられる。前売り入場券はリングサイドで3万円するらしい。
5時10分前、作品が完成した。ごくろうさん!ワイフ殿。
〈13日 神戸にて〉
投稿者 愉悠舎 日時 2009年3月13日 (金) 身辺雑記(無題) | 個別ページ
2009年3月14日 (土)
「花物語」二日目
今日もワイフの「アッシー君」になった。神戸に居るときまで運転手を努める必要もないのだが、淡路での生活が身についてしまっている精か、頼まれもしないのにワイフを車で送迎する機会が増えた。時と場合によっては都会にあっても車は便利で、その上交通手段を使うより安くつく。今日の場合、鈴蘭台からポーアイまで歩いて行くとすると、まず自宅からバスでJR神戸駅まで行き、そこから三宮へ出る。電車で三宮まで出る場合は歩いて10分ほどの神鉄鈴蘭台駅から新開地駅へ、そこで乗り替えて三宮に出る。三宮からポートライナーに乗って市民広場駅へ、その間約1時間。車を使うと30分で目的地に着いた。
「花物語」の開かれている神戸国際展示場に着いたのが8時30分、「何でこんなに早く行くのか?」よくぞ聞いてくれました、ご同輩。ワイフの作品が涸れないように水をやりに行くのだ。8時半から9時半までをメンテナンスの時間に充てられており、その間を利用して出展者は分身たちの世話をする。そして10時の開場を待つ。
会場の前でワイフを降ろし、ここで私はおはらい箱となる。ワイフはこのあと作品を観に来てくれる友人たちとランチを共にし電車で帰宅するとのこと。
帰り、ポートアイランドの先にある神戸空港へ向かう。小雨にけぶる神戸空港ポートターミナル正面を見てシャッターを切る。多くの反対を押し切って造られた空港も出来てしまった以上は、利用者の拡大と施設の充実に向けて関係者は努力して欲しい。(神戸にて)
投稿者 愉悠舎 日時 2009年3月14日 (土) 身辺雑記(無題) | 個別ページ
2009年4月14日 (火)
サクラ週間
先週は「花見」の一週間だった。
4/4日、我郷の「花見の宴」が小雨降る中行われた。満開に一歩足りない桜の下でなく、雨を避けてH邸の宴会用のステージを借り、桜を横目に見ながら「海平雀」の賑やかなさえずりに桜も雨も何処へやら。
酔いの醒めるのを待って、神戸の自宅へ向かう。
4/5日、ワイフをJR神戸駅の近くへ「運ぶ」途中、有馬街道添いに山桜が色を染めている。この道を何十年と走っているが、桜に目を留めることはなかったように思う。
4/6日、昨日に続いて有馬街道を下る。今日も街道添いの桜に魅了される。JR神戸駅近くの駐車場に車を止め、「街歩き」を楽しむ。トアロードで「ボランティア仲間」が言っていた言葉を思い出し、シャッターのボタンを押す。「トアロードから観える景観をサンフランシスコのように『海の見える風景』にしようという運動を起こしている。そうするにはトアロードの先にある水上警察署の建物が邪魔をしているので、それをポーアイに移し、公園にする」、いつ実現するか分からないが楽しみにしておこう。
三宮で多くの若いアメリカ人らしき人たちとすれ違う。観光案内所でアメリカの洋上大学「エクスプローラー」(24318トン)の入港を知り、ポートターミナルへ向かう。船を撮っている若い女性が話しかけてきた。北九州から来たと言うアメリカ人で、2年前この船で世界一周したと言う、懐かしくてやって来たと言う。
4/7日、天理へ、娘の家族と共に近くの桜見物とシャレる。その日娘のマンションに泊まり、翌日孫の入学式の間、3番目の孫を見させられる。
4/9日、ワイフ「行きつけ?」の有馬温泉月光園遊月山荘へ、同園金泉の露天風呂と回廊から桜を撮る。川のせせらぎを聞きながらのひと時は少し贅沢だ。一人当たりバイキングランチ2400円、入浴料1000円なり、金額以上の満足感を味わう。
4/10日、娘の家族が甲子園にオープンした子ども向け職業体験テーマパーク「キッザニア」に行ったあと、夜遅く神戸鈴蘭台の家にやって来た。翌日、孫たちの遊び場がある自宅近くの「しあわせの村」にお供する。ここでも桜をめでる。
夜、海平の郷に帰る。郷の桜は今を誇りと咲き誇っていた。
投稿者 愉悠舎 日時 2009年4月14日 (火) 身辺雑記(無題) | 個別ページ
2009年7月23日 (木)
世界最大客船 オアシス・オブ・ザ・シーズ号
送られてきたJCBカードの定期刊行誌の間にクルーズ船のパンフレットが挟んであった。
フィンランドの造船所で建造されていた世界最大のクルーズ船が今年の12月、カリブ海にその雄姿を浮かべる。「雄姿」と言うのはおかしいかもしれない、大海原に浮かぶ船は女性でなければなるぬ、でも人は雄姿と呼ぶ。マイアミのフォート・ローダデイルから処女航海に発つのはロイヤル・カリビアン・インターナショナル社(米国)所有のオアシス・オブ・ザ・シーズ号。カリブ海を中心とするカジュアル・ファミリー向けのクルーズ船である。
総トン数220,000トンで長さは361m、幅は63mもある。客室分の階数は16階、乗客定員は5400名、乗組員の数は2165人と半端でない。
少し船内を散歩してみよう。
8階に幅19メートル、長さ100メートルの船上吹き抜け公園セントラルパークがある。トロピカルな木々の間に遊歩道、菜園やベンチ、東屋、などが設置されている。上下に動くバー、公園の周りにはレストラン、カフェ、そして客室が並ぶ。
1380席の大劇場、プールのあるアクアシアター、洋上初の回転木馬などが船上生活を飽きさせない。その他の船内施設としてプライベート・カバナ(貸切タイプの休息所)、ミニゴルフコース、バスケットやバレーコート、スパ・・・などがある。
クルーズ船は今や、寄港地をつなぐ移動手段から憩い遊ぶ生活空間へと進化した。
投稿者 愉悠舎 日時 2009年7月23日 (木) 身辺雑記(無題) | 個別ページ
2011年2月21日 (月)
「お父さん」と呼んだ人
昨日、「お父さん」の一週忌に八尾に行った。亡くなる直前まで元気だった、その前日には山登りを、夕食にビフテキをこなすほどの人だった。翌朝、トイレで倒れ還らぬ人となった。
故・多聞さんを、娘の伴侶の父を、私は「秘かに」に「お父さん」と呼んでいた。私と歳が一廻り以上も違っていたので多聞さんを父のように感じていた。私は3歳で父を失っている。父と呼べる人間に出会ったことを幸せに思う。
一周忌の法要を営んでくれた僧侶は、三重県から、愛知県から、兵庫県から大阪の八尾の家に駆け参じた多くの人を前に、「うすれゆく今の人の世にこれだけの人が集まるのは珍しい」と、感心していた。昨今、言われる「無縁社会」とは無縁な人だった。
昨年のことである。酒が好きだった多聞さんが、最後の「晩餐」にたしなんだ酒は発泡酒だった。葬儀の後の食事の席で多聞の次男坊は「おやじは想い残すことの一つも無かったと思う。ただ、あるとすれば最後にビールを飲めなかったことぐらいだろうか・・・」と、悲嘆のないカラっとした、それでいてさわやかな告別式だった(合掌)。
投稿者 愉悠舎 日時 2011年2月21日 (月) 身辺雑記(無題) | 個別ページ
