間もなく8月15日を迎える。
戦争が終わる一年前に生まれた私に戦争を知る由もないが、
戦後の混乱期に物心つき、先を争う人々の慌てふためきや、進駐軍のジープが砂埃をあげ通り過ぎるのを遠目に追った記憶があるような気がする。
私たちの世代を戦中派とは言えないけれど戦後派とも呼べない。
「国家主義」がついえ去り「民主主義」が台頭する中で教育を受けた私たちを敢えて呼ぶならば「戦後どさくさ派」か。
私が生まれたのは1944年9月、住友発祥の地・別子銅山のふもと新居浜の惣開(そうびらき)(※1)。
住友重機の正門近くに生家があり此処で育つ予定であったが、生まれて間もなくこの家を追われるはめになる。
国の政策・建物疎開により海べりの工場地帯よりずっと山側の土橋(つちはし)と言う農村に疎開する。
建物疎開は家屋疎開とも言い空襲で火災が発生した時、住友の軍需施設への延焼を防ぐため、防火地帯を設けるため民家に立ち退きを命じ、家屋は取り壊され住人は地域外に移った。
私の生まれた家が取り壊されるその日、「隣組」の人たちと撮った写真が残されている。
この一枚の写真から色々なことが読み取れる・・・。
それはさて置き、二列目に白いベビー帽にベビー服を纏った乳児がいる、私。
母に抱かれた私を真ん中にして左に祖父、後ろに父、私の人生への船出はこうして始まった。
後方に写る我が家の屋根瓦のこぼれは二階から家具を引きずり出した跡か?
隣保(隣組)の人たちの作り笑いの中、祖父の頬は緩んでいない。
祖父の左胸に住所・氏名を書いた名札が掛かっている。戦争が終わっても私たちを外に連れ回すときいつも肌身離さずつけていたのを思い出す。
そこには、いついかなる時も自らの姓名を名乗り、何一つ恥ることのない来し方への矜持をその名札に秘めていたのであろう。
「隣組」は5軒から10軒の世帯を一組とした住民の互助組織であるが、江戸時代の五人組制度の流れを汲むもので相互干渉・密告制度の側面が強い。
1947年、連合国軍最高司令官総司令部により「隣組」を禁止したにもかかわらず町内会は多く残り現在に至っており、回覧板など隣組の活動形式を色濃く残している。
「個の時代」に入った現在、形式的なものであれ何であれ前世紀の遺物・「町内会」は廃止すべきである。
新居浜に於ける空襲の事情は総務省のホームページ「新居浜市における戦災の状況(愛媛県 )」に詳しく書かれている。(下記)
https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/shikoku_04.html
この中に、「・・・広島、長崎以外の新居浜を含むその他の戦略爆撃には1万ポンド爆弾が使用された。・・・このように、もし日本の無条件降伏が遅れていたら、模擬爆弾の投下地である新居浜にも原爆が投下されていたかもしれないのである。」とあり、数ある原爆投下地候補の一つに新居浜も挙げられていた。
ついでながらワイフも戦禍にまみえている。
彼女は1945年1月生まれで私と同級生。
大阪市に隣接の尼崎の阪神電車沿線に生まれ、後年私と神戸で出逢う。
生まれて間もなく、大阪大空襲に襲われその前後毎日のようにB29が飛び交い、防空壕目ざし逃げ惑う家族ら、ある時母親が彼女を背負うか抱っこして逃げる際右手肘を負傷させてしまった。今でも彼女の右手は少し変形している。
そんな事故があったせいか、その後空襲警報がなっても彼女一人を置き去りにして逃げた。
「どうせ死ぬんやったら家で」と父親が。
後年その父親に最も可愛がられたのが彼女だった。
我らは紛れもしない戦争の落とし子である。
混沌とした時代に生を受け、今再びのカオスを生き延びている。
(※1)
「惣開とは「140年前嘉永年間(文久3年から慶応元年まで)住友別子銅山の元締、清水総右衛門が、現在の住友化学工場南、住友重機械新居浜製造所東部のあたり4.7ヘクタールの開墾新田を作った。これを総右衛門新開といった。後に約して総開となった。(新居浜市ホームページ)」